第四章 米軍上陸後の収容所


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六 楚辺捕虜収容所

 一九四五年九月頃、読谷山村字高志保に捕虜収容所が新設され、屋嘉捕虜収容所から約二〇〇〇人の日本兵が移動してきた。読谷村史編集室で聞き取り調査をした内畑※※の証言によれば、屋嘉収容所からの移動は「昭和二十年の九月二十六日。それ以前は無かったから、第一陣です」とのことであった。字高志保にあるにもかかわらず「楚辺捕虜収容所」と呼ばれた。この収容所が日本兵の捕虜収容所として知られ多くの文献にも登場する「楚辺捕虜収容所」である(次頁写真中央が「楚辺捕虜収容所」、写真は一九四五年十二月当時)。
 楚辺捕虜収容所は、沖縄本島に設置された七つの捕虜収容所のうち屋嘉捕虜収容所に次いで古いとされる(「沖縄新聞」二四号)。楚辺捕虜収容所(以下「楚辺収容所」と略記)に収容されていた元日本兵からの聞き取り調査や、「沖縄新聞」に書かれた内容などから収容所の概観を記すと次のようになる。
 約二〇〜三〇人収容の一辺六メートルのテントが八〇ほど並んでいた。周囲には高さ約二メートルの鉄条網が二重に設置され、その間には逃亡防止のための有刺鉄線が置かれていた。しかしそれでも逃亡はたびたびあったといい、下の土を掘って逃げたようだとの証言もある。さらに内部には収容所からの脱走者を入れておく「金網」もあったといい、また違反者は入口近くに置かれたドラム缶の上に数日間立たされたという(三二三頁「見取図」参照)。
 一九四六年四月二十七日には二日間におよぶストライキ事件が発生し、罰としてすべての私物を焼かれ、二週間娯楽機関を禁止された。娯楽施設としては、野球場、土俵、演芸場などがあった。屋嘉収容所が閉鎖されたので六つの収容所対抗の野球、相撲のリーグ戦もかなり活発に行われ、ほかに楚辺南十字星楽団の結成、毎週二、三回の映画会開催、演芸会の開催など文化活動も活発であった。収容所内では壁新聞「皆様の新聞」も発行されていた(参考資料として、本稿末に「沖縄新聞」から楚辺収容所に関する記事を抜粋して掲載したので参照されたい)。
1945年12月10日米軍撮影の空撮写真
中央破線部分が「楚辺捕虜収容所」
写真左はボーロー飛行場、右下には読谷飛行場が見える
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 一九四六年十月三日には日本兵捕虜の復員が開始され、楚辺収容所から二六六人の捕虜が帰国、この復員にともない楚辺収容所は十月八日をもって閉鎖された。残りの帰国予定者は集結所に当てられたライカム(普天間)収容所に移動後、十月十七日の第二次復員で、楚辺収容所から移動した捕虜六七〇人が帰国した。翌年一九四七年二月に全日本兵捕虜の復員が完了した。
 一九四六年八月には読谷山村民に最初の居住許可(波平、高志保、長浜のそれぞれ一部に限定)がおり、結成された読谷山村建設隊は収容所跡からも資材を集め住宅建設等に使っている。高志保の年配の人たちは後々までそこを「PW跡」と呼んでいたという。
「楚辺捕虜収容所」見取図
*内畑※※氏、赤松※※氏より寄せられた手書き地図をもとに、
1945年12月米軍撮影の航空地図に重ねて作成。
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写真提供は内畑※※氏(和歌山県在住)
米兵専用のテニスコート
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写真には「楚邊演藝場」と書かれた舞台が見える
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楚辺収容所の野球チーム「楚辺ジャイアンツ」
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ドラム缶の浴場入り口に置かれた「芸者ガール」の絵
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