第四章 米軍上陸後の収容所


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「沖縄楚辺の会」座談会 ― 楚辺収容所収容者及び関係者

 ※『読谷村史研究資料 17』より再掲
 『那覇市史 第3巻7 市民の戦時・戦後体験記1』所収の「日本兵たちの沖縄戦(県外出身兵の体験座談会)」をきっかけに「沖縄楚辺の会」の存在を知り、その後会員の方達の名簿を入手することができた。その名簿の方達にアンケート形式の文書を出したところ(一九九一年十一月初め)数名の方から返事があった上、いろいろな情報も寄せて頂いた。その中の一人谷垣俊次氏が来沖し、一九九二年二月読谷村を訪ねてくださったので、あらためてお話を聞きにうかがった。その際谷垣氏より「せっかくの機会なので、楚辺の会の例会を今年は沖縄で開いてはどうか」との提案があり、三月二十二日座談会実現の運びとなった。以下はその日の座談会の模様である。
 日時 一九九二年三月二十二日(日)
    午後一時三〇分〜
 場所 読谷村中央公民館講座室
 出席者(敬称略)
  谷垣※※ (楚辺の会会員)
  宇田川※※(楚辺の会会員)
  佐藤※※ (楚辺の会会員)
  垣花※※ (楚辺の会顧問)
  宮城元信 (読谷村史編集委員)
  泉川良彦 (読谷村史編集室職員)
  上原恵子 (読谷村史編集室嘱託員)

自己紹介(それぞれの体験)

泉川 本日はお忙しい中、この座談会にご出席くださりありがとうございます。早速ですが、自己紹介をお願いします。
谷垣 私は大正四年生まれで三十歳の時、昭和十九年八月十三日旭川第三部隊に召集になったわけです。それは二回目の召集で、私達の部隊はどこへ行くんだろうと思っていましたが、夏服を貰いましたので、南方だなと直感しました。その内に話が具体化してきましたが部隊の発表では沖縄とは決して言わないんです。「球部隊」だと言われたので、琉球の球だと思って沖縄行きだと気がつきました。しかしそれを家族に知らせる訳にはいきませんから、門司に着いてから「これから南の方に行くから」と私信で手紙を出しました。球部隊だということは書けないわけです。そんなことで、同年九月十一日那覇に上陸しました。我々は速射砲隊で、船から降ろした砲を警護しなければなりませんから、しばらくは埠頭におりました。それから我如古に行くんだと言われましたが、それがどこにあるかもわかりませんので、地元の人に聞いてみますと、宜野湾というところにあるということでした。それから軍用車両に乗って我如古に行きました。そこに降ろされ、すぐ部隊に入りましたが、和やかな雰囲気で、これから戦争が始まるなんてことは全然考えられず、無事に帰れることを念願しておりました。そうしているうちに戦争が始まって、球部隊がいよいよ出動しなければならなくなりました。四月一日には城間におりました。それから捕虜になる六月二十三日頃まで、那覇それから八重洲岳まで下がって最後に摩文仁で捕虜になったわけですが、総攻撃の時に負傷して傷痍軍人となっているわけです。我々の部隊はほとんど全滅でございまして、集まるといっても誰もいないわけですから、たまたま楚辺収容所で皆さんと一緒になって暮らしたのが縁で「楚辺の会」として皆さんとお付き合いするようになりました。それが一七回も会合を持つことができ、皆さんとお話できる機会を得ましたことを喜んでいます。
泉川 どうもありがとうございました。続いて佐藤さんお願いします。
佐藤 私は大正十年生まれで、福島県の、現在はいわき市になっておりますが、そこの田舎の方で育ち、炭坑に就職しました。昭和十九年の六月に召集されまして、川崎の高射砲部隊、当時の名称では東部四一〇〇部隊という所に入隊しまして、そこで初年兵としての教育を四〇日くらいですかね、受けたところで南方へ行くような命令が出ました。行き先は教えられませんでした。ひさしの付いた夏の帽子と夏服だったので、多分南方だろうと思いました。夜行列車で門司まで連れて行かれました。そこから船に乗ったわけでございます。沖縄に到着したのは、私の記憶では昭和十九年の八月十五日だったと思いますが、那覇港に上陸しました。連れて行かれたところが読谷山にある経理室だったわけです。そこには鷲津中尉のほかに安田伍長、鈴木伍長と二人の経理下士官がおりました。当番兵がいないからちょうどいいということで、経理室に入ることになりました。経理部に配置されたおかげで、上陸した時は荷降ろしもせずトラックで楚辺の部落に行き、ご厄介になりました。その後、那覇港の警備に行くことになり、私の大隊は那覇に移動し、そこで正月を迎えた記憶があります。ですから楚辺にいたのは八月から十二月頃までの四、五か月だと思います。楚辺では個人の住宅を主計殿と二人で間借りしたわけですよ。私は兵隊ですから主計殿の食べる食事を作ったり、洗濯をしたり、女房役みたいなものです。そんな仕事をずっとしておりました。ですから軍隊に入ってはいるものの、軍隊のことはわからないわけですよ。那覇の方に移動してからも当番兵をやっていましたが、途中から雑務のような仕事をするようになりました。それから艦砲射撃が激しくなりましてね、首里の山に防空壕を掘ってありましたので、そちらに移動しました。戦争が厳しくなってきて、首里から退却したのが五月の二十五、六日頃じゃなかったですかね。それから南の摩文仁まで逃げ延びたというのが実際でございます。地名がわかればいいんですが、沖縄に来たばかりでしたので、地名も何もよくわからず、物足りないところが多いと思います。ただ楚辺に四、五か月いたことだけは、北飛行場がありましたから、そこの警備ということでうちの部隊、七九大隊が来ていましたからね。間違いなく読谷山村楚辺だったと思います。座敷を貸して頂いた方の名字でも覚えていたらよかったのですが、それがわかりません。
泉川 宇田川さんお願いします。
宇田川 私は大正十一年三月十日、東京の、現在の江戸川区で生まれました。徴兵検査の時は第一乙種ということで、甲種合格ではなかったんですけれども、当時、現在の職業と同じで鉄鋼関係の仕事をしておりましたので、整備飛行兵というような通知をもらいましたが、整備兵ですね。それで千葉県柏にありました航空隊の教育隊に入隊致しまして、そこで半年間の教育を受けてから、部隊に配属になりました。教育隊では成績が悪い方でしたから、行く所も樺太なんですよね。二人が樺太に転属ということで、名前は忘れましたが上等兵の引率で午後一時頃上野駅から汽車に乗りました。それから稚内に行きまして、そこから樺太の大谷という所まで行きました。その大谷に飛行場がありました。そこに「さんせん隊」といっておりまして、船団援護が主の航空隊でしたね。その後今度は沖縄行きなんですよね。那覇に上陸しまして、飛行場大隊の中の中隊ですから、どこへ行くかと思ったら、トラックに乗って那覇から読谷の方に向かったと思うんです。その道路の縁の方をですね、軽便鉄道が通っていた記憶があるんですよね、笹のようなものを積んでね。私達の兵舎はカマボコ兵舎なんですよね、楚辺に着いて、昔の楚辺の部落から、飛行場の方は小高くなっていましたね。ちょうど飛行場からはずれた所の、今考えると回りは松林のような気がするんですが、その中にカマボコ兵舎が二つありました。そこを降りて行きますと楚辺の部落なんですよね。みんなが飛行場に出た後、楚辺の部落に行って、私は一番下なもんですから水汲みと風呂焚きが私の仕事でした。当時井戸とその隣に洗い場のようなところがありまして、そのまわりをむしろで囲んでドラム缶を置き、そこで風呂を焚いてですね。あとは夕方兵隊が入りに来るまで大した用はないわけです。それで部落の中をブラブラしていまして、上地※※さんの家にはだいぶ行きましたね。※※さんのおかあさんには随分お世話になりました。それから比嘉※※さんの家は洗い場のすぐ隣なんですよね。母屋が南に向かってあり、東に物置の長屋があってL字型になっていたんですね。そして縁側に面した角にミシンがありました。その当時ミシンがある家庭は楚辺でも珍しかったんじゃないですかね。※※さんもよく家にいましたし、軍服のボタンをつけてもらったり、ほころびを繕ってもらったりした記憶があります。そういうのどかな楚辺の部落の中に、四月一日に米軍の上陸があったのです。
泉川 どうもありがとうございました。次は垣花さんお願いします。
垣花 それでは「楚辺の会」の皆さんとの関わりをお話します。先ほども谷垣さんからお話がありましたけれども、昭和五十年頃でしたかね、当時琉球大学の助教授をしていました我部政男先生が、沖縄戦関係の資料を沖縄タイムス紙で連載していたんですね。その記事の中に谷垣さんの部隊のことがあるということで、谷垣さんが我部先生に連絡をなさいました。ちょうどその頃那覇市では、沖縄戦の三三年忌の記念事業として「市民の戦時・戦後体験記録」の原稿を収集している時で、私はそこの事務局にいました。我部先生は当時那覇市史の記録委員をしておられましたので、那覇市民だけではなくて沖縄戦に参加した他市町村の方々、あるいは日本軍側の記録も入れるといいんじゃないかということで、谷垣さんに兵隊側からの沖縄戦体験を語ってもらえないかと要望しました。それはいいことだということで、谷垣さんが終戦当時楚辺の収容所に収容されていた仲間の皆さんに呼びかけられて、わざわざ皆さんが沖縄までいらっしゃって座談会をして下さったわけです。『沖縄の慟哭』という書名で出版された本の中にも収録されています。それが楚辺の会の皆さんと初めての出会いとなり、今日に至っています。「沖縄楚辺の会」という名前はその座談会をした後で開かれた懇親会で、名前をつけようという提案がありました。それで我部さんから楚辺の収容所が縁でこの会があるのだから、「沖縄楚辺の会」にしたらどうかという提案があり、それに皆さんが賛成なさったんです。そして各県持回りで毎年の集いを行っているわけです。沖縄は皆さんが青春の一時期を過ごした所であり、それほど長期の滞在ではないのですが、九死に一生を得た思い出の土地でもありますので、楚辺の会の会合はどこの地よりも沖縄での開催が一番多い状況です。私がお世話してからも三回目か四回目じゃないかと思います。余談になりますが、楚辺の会の会員は北海道とか山形・宮城・東京・静岡・京都・大阪・鹿児島・その他各県の出身の方々がいるので、「沖縄楚辺の会」という旅行用の旗を持って各地を回られるわけです。ホテルでも「沖縄楚辺の会ご一行様」と書かれた案内板があって、まるで沖縄から来た旅行者のようです(笑い)。これで堂々と全国を回っておられるわけですね。那覇市史への収録が終わって後もお付き合いさせていただいています。

当時の読谷山の様子など

泉川 ありがとうございました。それぞれの自己紹介の中で楚辺収容所に至るまでの経過のお話がありましたが、沖縄戦を体験し捕虜になって収容所に入れられることになるんですが、最初は屋嘉にいらしたんですか。
佐藤 そうですね、あそこが捕虜の本部です。だから必ずあそこに行くわけですよ。あそこで全員登録されるわけです。私の場合は沖縄に上陸してすぐ楚辺に来て、何か月かいて、戦争になって濁流に飲み込まれるように南の方に行って、捕まったらまた楚辺に来ちゃったんです。ですから思い出としては楚辺が一番多いですね。
上原 屋嘉の収容所から楚辺収容所に移されたのはいつ頃ですか。皆さん別々ですか。
佐藤 別々ですね。屋嘉に行ったのはいつ頃だろうなあ。私は負傷して捕まりましたから、六月の二十何日かに、摩文仁の近くの与座岳ですか、あの辺で捕まりました。収容されたのは野戦病院でした。激戦地の真ん中にあったんじゃないですか、どこなのかわからないのですが。それから野戦病院から船に乗せられたんです。
垣花 与座岳でしたら南部の野戦病院でしょうね。
佐藤 野戦病院で手当をしてもらってしばらくいたんですよ。野戦病院には沖縄の娘さん達が看護婦として手伝いにきていましたよ。私達は捕まって何にも着てなくて、真っ裸なんですよ。それで米軍のズボンを半分位に切って着ました。半分位でちょうどいい長さなんですよ。手当を受けて沖縄の娘さん達にふんどしを作ってもらった記憶がありますね。私は足をやられて動けないものですから、しばらくして担架で船に乗せられたんですよ。そして屋嘉の近くに上陸したんです。屋嘉の本部らしき所に入れられて、そこには病院がありましたので、手当をしてもらって、何か月いたんですかねえ。沖縄は季節感があまりないのでよくわからないんですよ。いつでも草木は青いし。
泉川 それから楚辺収容所に移されたわけですね。
佐藤 そうです。
宮城 ところで模擬飛行機ですが、どのくらい造られたんですか。
宇田川 どれくらい造ったか記憶にないですね。飛行場のまん中に滑走路がありますよね、その両わきに土手を築きまして、そこに模擬飛行機を置いたんです。その上に偽装網をかけてありました。プロペラだけは普通のいいプロペラでした。模擬飛行機を置いてある所を待機壕と飛行場の連中は呼んでいましたが、いくつくらいありましたかねえ。
上原 この模擬飛行機は何を使って造ったんですか。
宇田川 竹。この竹を軽便鉄道が運んでいたんです。なんで細い竹を運んでいるんだろうなあと思っていたんですよ。那覇から貨物車でこの竹を積んで来たんじゃないですか。
佐藤 軍需物資ですな。
宮城 戦争が激しくなるにつれて、人を乗せる車両より貨物列車が多くなりました。弾薬が多かったですね。元々は砂糖きび運搬用の貨車だったんですが、そのころはほとんどそれには利用できなくなっていました。我々も那覇まで歩いて行ったんですよ。竹を積んで来たというのはあまり印象にないですね。
宇田川 それも本土で走っているような立派な鉄道じゃなく、トラックのような汽車でね。それを小さな機関車で引っ張って嘉手納まで来ていたというのは知っています。道路と並行して走っていましたよね。
宮城 今の国道五十八号ですね。嘉手納が終点でした。
竹製の模擬飛行機(読谷飛行場)
画像
宇田川 米軍が上陸する前ののどかな楚辺の部落が散々なことになってしまってね。集落の人達が強制的にどこかに移動になったから、無事でいてこうやって再会できるというのはなかなかなことですよね。昭和十九年に私達が来た頃はおだやかな所でした。海軍の陣地構築はありましたがね。
宮城 国頭村が読谷山の疎開指定地でしたが、そこで受け入れのため避難小屋を造って待っていてくれたのが二月頃でした。米軍上陸直前になってから、みんなは立ち退きになっていますからね。
宇田川 楚辺の人達は国頭の方に逃げたから助かったんじゃないですか。
宮城 お年寄りは家に残って助かったわけですね。国頭では栄養失調やマラリアでたくさんの方が亡くなっています。
宇田川 僕も沖縄で、楚辺にいる時は大丈夫だったんですが、その後逃げている時に一日おきのマラリアにかかりました。
上原 マラリアの発熱は二四時間おきにぴったりくるらしいですね。二時なら二時、十時なら十時というふうに。
宇田川 ぴったりですよ。僕も一日おきに発熱しましたね。沖縄ではいろいろな経験をしましたが、楚辺という名前そのものが親しみのある名前ですよね。
宮城 いろいろご苦労なさいましたね。整備をなさって…。
宇田川 整備っていったって私はスパナ一つ持ったことはないんですよ。なにしろ毎日水汲みと風呂焚きですからね。
上原 同じ部隊の他の方達は整備に行くわけですね。
宇田川 僕らには下がいないんだから。整備兵といってもスパナ一つ持ちませんよ。北飛行場から降りて来るとカマボコ兵舎が二棟建っていましてね、そこの所に高射砲陣地があったんです。高射砲陣地は二つありましたね。飛行場から楚辺に降りて来る所にね。回りには土手が築かれていました。楚辺の部落に行く途中はずっと芋畑でした。
佐藤 当時の部隊はめちゃくちゃなんですね。高射砲というのは重いんですがトラックがないので、南に行く時は分解して人力で引っ張って行くんです。私も一回引っ張ったことがありますよ、南に退却する時に。人間が引っ張っていたんじゃアメリカが追っかけてきたら、やられちゃいますよ。
泉川 宇田川さんは国頭に逃げて、そこで捕まって楚辺の収容所まで来たんですか。
宇田川 捕まったんじゃないんですよ。国頭の方に逃げて、場所はどこだかわかりませんが、ここで解散だって言うんですよ、部隊がね。仲間が三人くらいで、島伝いに逃げれば日本に逃げられるというんで、船をかっぱらいましてね、米を一升瓶の中に入れて、それをもって僕も船に乗ったんですよ。そして、何湾だか知りませんが、朝になってそこまで来た時、船が壊れちゃいましてね。それで私は上陸しました。船に乗っている間は恐かったですね。私は島伝いに行って九州まで帰れるとは思っていませんでしたが、そういう経験をしました。
泉川 そこで米軍に遭遇するわけですね。
宇田川 一緒にいたのは自分達の部隊の者じゃないですよ、他の部隊の人と三、四人で山間の沢の所で生活していました。だけどハブなんかには全然会わなかったですね。ハブは硫黄の臭いを嫌いますから、砲弾の硝煙で潜んだんですかね。今考えるとぞっとしますが。そのうちに日本は降伏したというビラが撒かれたんですよ。それを拾って収容所に行ったんですよ。そしたらいきなりDDTを体中にかけられて、三日間隔離されて、その後収容所入りしたんです。そこからトラックで楚辺に移されました。

楚辺収容所での生活

泉川 以前谷垣さんから楚辺収容所での生活についてお話をうかがったんですが、どんな様子でしたか。
宇田川 僕は収容所に入ってからね、機械のことを知っていますから兵器廠にまわされたんですよ。そこにはエドワードという技師がいましたね。自動車のナンバープレートの上の方にある沖縄というのを日本の字で彫った記憶がありますよ。日本人というのは器用ですからね、やすり一本もたせれば、何でも造っちゃうんです。米軍のステンレスの食器をたがねで切って、腕輪を作って、それに桜の花とか富士山を描いて浮き彫りにするんです。ガラスを二枚合わせてまん中に写真が入るように作って台をつけて、そして収容所の中で作った物を私が売りに行くんです。使役に行くついでに米兵に売るんです。売るといってもラッキーとかのタバコと交換するんです。
谷垣 宇田川さんは楚辺収容所のバイヤーですよ(笑い)。収容所に入って来る時にはタバコを持って来ちゃいけないんで、芋の葉っぱにくるんで持って来るんです。
宮城 知恵の勝負だったわけですね。
佐藤 楚辺収容所ではみんな知っていますよ、宇田川っていったらね。
宇田川 僕が知らなくても相手が知っているんですよ。この前も北海道に行った時に、「楚辺の会」の人と行動をともにした後藤さんという人が「この人は知っている」と言うんですよ。同じ楚辺収容所でも全然違う幕舎の人ですよ。その人が知っているというんですね。
垣花 あちこちの幕舎を回られて製品集めしていたんじゃないですか。
佐藤 米軍の役にはたたんけど、我々の役にはたった(笑い)。
泉川 使役とは別に休憩の時にですか。
宇田川 いいえ、使役の時です。米兵は休み時間にタバコを買って来るんです。キャメルを持って来ると、キャメルなんてだめ、ラッキーストライクなどと贅沢なことを言いましたよ。それを持って帰って来る時は、芋の葉っぱの中に突っ込んで見えないようにして持ち込むんです。芋の葉っぱを取るのを専門にしている人もいましたからね。そうやってタバコを持ってきちゃ中の者にあげるんです。僕が行っていた兵器廠の隣が糧秣庫でね、鉄条網一張の仕切りでした。チョコレートならチョコレート、タバコはタバコ、靴は靴で一つの山にして積んでありますから、大体この山には何があるかわかるんです。お昼になると一人の番兵を残しまして、みんな食事にいっちゃうんですよ。その間その一人の番兵が糧秣庫をぐるっと回るんですけど、野積みされたカバーテントの上でその番兵の動きを見ていて、回って来るまでに鉄条網の向こうに物資を送り込むんです。日本だったらそんなことしたら大変ですよ。彼らはそんなのへっちゃらなんですよ。収容所の中ではそれを知っていて、敷布を持って来てくれとか要望があるわけです。それを持って来るために飯を食う暇なんかありませんよ(笑い)。米兵より捕虜の方がいい靴をはいていました。何しろ注文次第持って来るんですから。敷布も何枚持って来たかわかりませんよ。そりゃあ僕一人じゃできませんよ、手配するんです。
佐藤 缶詰も随分持って来ましたよ。一〇〇個持って来いと言われると一一〇個くらい積んで来るんですよ。トラックに乗って移動する時、道の両側にいる沖縄の人達にそれを投げるんです。
上原 作業に行く途中にですか。
宇田川 捨てに行く時です。缶詰をトラックに積むんですが、その時わざと下に落っことすんです。ちょっとでも缶がへこむと廃棄処分なんですよ。だから廃棄処分にするために落とすんですよ。それを残波岬に捨てに行くんです。その時に道の両側から沖縄の人達が歩いているでしょう、その人達に投げるんです。
佐藤 新しい物でも何でも捨てたですよ。
泉川 残波のどこらへんに捨てたんですか。
佐藤 今の灯台の所。
宇田川 ドラム缶なんか捨ててもね、風の強い日なんか空のドラム缶だと浮きますよ。
佐藤 水を入れる水缶もたくさん捨てましたよ。捨てなくてもよさそうなものなのにね。戦場を整理して出てくるやつは全部捨てていた。アメリカ兵達は自動小銃でそれを撃つ練習をするんですが、それを見て脱走はできないと思いましたよ、百発百中なんですから。こりゃ脱走したら一発でやられると思いました。うまいんですよ、彼らは、日本の兵隊より。日本の兵隊は弾を無駄にするなということで撃たさないからね。あれは、たくさん撃たなきゃ駄目なんですよ。
泉川 佐藤さんは楚辺収容所に来られるまではどういう経緯をたどったんですか。
佐藤 捕まった時は、手榴弾でやられましてね。与座でした。爆風で意識が無くなりかけた時にアメリカ兵が来てね、何を言っているのかわからないけど捕まっちゃったんですよ。それからジープに乗せられて、キャンディ、キャンディと言って食べろと言うんですが、恐ろしくて食べることはできませんでしたよ。
泉川 毒かも知れないし。
佐藤 みんなそう考えていましたよ。そしたら野戦病院に連れて行かれたんです。そこで応急処置をしてもらっているうちに動けないのがわかったものだから船に乗せられたんです。
泉川 どこを怪我されたんですか。
佐藤 足です。それで歩けなかったんです。家に帰ってから二度手術しました。野戦病院から動けない人間だけが担架で船に乗せられたんです。そうすると噂が出るわけですよ、船から海に捨てられるんだとね。そう考えましたね、動けないんですから。まさか病院に連れて行って丁寧に治療してくれるなんて、日本軍の考えと違うわけです。もう駄目だと思っているうちに、どこを通ったかわかりませんが、上陸して港にあげられてその時やっと殺されないなと思いました。陸軍病院で手当をしてもらって歩けるようになってから、屋嘉の収容所に行ったんです。そこで仕事ができるくらいに回復してから楚辺の収容所に来たわけです。
上原 楚辺収容所に移られたのはいつ頃ですか。
佐藤 それがわからないんだね、夏なのか秋なのかわかりませんよ、沖縄には四季が無いから。四季があれば、雪が降っていたとか紅葉の時期だったとわかるんですがね(笑い)。でも薩摩芋の葉っぱが青々としていたね。楚辺の収容所を造ったばかりの頃行ったんです。私達が一番早いんです。まわりを鉄条網で囲んであって、芋畑なんですよ。一晩は毛布を一枚もらって芋畑で寝たんですよ。
上原 その時はテントも何もなくて。
佐藤 何にもない。そのうちにテントが建ったんですが、大きい人は足が出そうなテントでしたね。
泉川 そのテントは一人用ですか、二人用ですか。
佐藤 最初は小さいもので、後で大きなものにかわってみんなゴロ寝でしたね。
泉川 回りの鉄条網というのはどんな様子でしたか。
佐藤 大きくて高い鉄条網ですよ、逃げられないように。
泉川 今の嘉手納飛行場を囲んでいるフェンスと比べるとどうですか。
佐藤 あれより高いですね。そして監視塔があって。
上原 監視塔は何か所ありましたか。
宇田川 四隅と中央に二基ありました。
上原 上の方に監視する所があるわけですね。
宇田川 櫓の上に監視小屋があって、年中米兵が監視していましたよ、銃を持って。
泉川 サーチライトもついていたんですか。
宇田川 ついていたんじゃないかな。随分明るかったから。
佐藤 音がすると一斉射撃ですよ。一回ハブが捕まったことがありました。櫓から一斉射撃が始まったので、何か暴動が起こったのかと思いましたが、ハブがからまっているのを見つけた監視兵が、機関銃でダダダダダッと撃ったんです。大きなハブでしたよ。
泉川 そこの広さはどのくらいなんですか。真四角に近いんですか。
宇田川 柵はね、ほぼ真四角だろうね。
佐藤 大きいよ。
谷垣 中には野球場もあるんだから。
宇田川 それに演芸場もあったんだから。
泉川 幅は何メートルくらいですか。
宇田川 何メートルくらいだったでしょうかね、何千人もいたんですから。
谷垣 二〇〇〇人くらいいたんだから、テントを張って。
泉川 一キロメートルくらいでしょうか。
佐藤 一キロはないね。
宇田川 野球場と演芸場を兼ねていたからね。
佐藤 間口が一〇〇メートルくらいかなあ。
宇田川 収容所から海が見えたね。演芸場は収容所の角にあったんですよ。
泉川 見取図を描けますか。
宇田川 大体描けるな。
宮城 沖縄の人もいましたでしょうか。
佐藤 民間人はいなくて、兵隊だけです。沖縄の人は屋嘉収容所にだいぶ残っていましたよ。それからどこへ行ったかは知りませんがね。
上原 元の日本兵だけが集められたんですね。
佐藤 屋嘉の収容所には沖縄の人で、戦争のために頭がおかしくなってしまって騒いでいる人もいました。
垣花 屋嘉収容所には沖縄の民間人もいましたか。
佐藤 主に兵隊です。
宮城 防衛隊とか護郷隊とかね。私も疑われましてね、金網の中のさらに金網に入れられました。兵隊だと思われ、嘘を言っているということで白状するまでそこにいろということで三日間雨露にさらされましてね。調べに来たのは、木村、森本それから具志堅、一人は沖縄県、一人は広島県、一人はハワイ系でしたが、それが共同で調査に来るんですよ。そして方言で調べたり、標準語で聞いてきたり、英語で尋問したりしてね。軍隊教育を受けたかとかいろいろ聞かれましたが、もう死ぬんだという気持ちでしたからね。三日目くらいに木村という広島出身の方が来て「あんたは正直だからいい仕事を与える」ということで出してもらえて、みんなのいる所に戻れたんです。校長など偉い方々がいらして、みんなは雑役なんですが、私はモータープール(車両集積所)に行かされたんですよ。タバコなんかももらってみんなにあげたりしたんです。さっきも話がありましたね。モータープールにいますから、憲兵隊のマークをつけて食糧を取りに楚辺に行ったんですよ。大型トラックに五ケースというと八ケース乗せ、一〇ケースというと一五ケース乗せるという風に余分にもって来るんです。数えないんです。楚辺から石川を通って金武、宜野座経由で久志の収容所まで行くんです。そこに行く途中、ケースを開けて缶詰を投げると、みんな喜んで取っていました。特に久志に来てからは屋敷内にも投げられますから、どんどん投げて、実際に降ろすのは三分の一ぐらいで、投げた方が多かったですよ。
上原 楚辺収容所にいた時、民間の人達はまわりにいたんでしょうか。
佐藤 いないです。
宇田川 面会には来ましたよ。日本の兵隊との間に子供ができた女の人が面会に来たりしていました。面会所もありました。休みの日は会うことができたんです。
上原 収容所の出入口は一か所しかないんですか。
宇田川 はい。僕は捕まったことはないんですが、何か悪いことをして捕まると衛兵所の前に空のドラム缶が四つくらい置いてあるんですが、その上に立たされるんです。その時体の幅くらいのダンボールに日本の字で「私はこういう物を盗んで捕まりました」と書いたのを下げて立たされました。
泉川 一日中ですか。
宇田川 一晩中です、朝まで立たされるんです。昼間はドラム缶が焼けるように熱くてね。そのドラム缶は四つか五つありましたよ。
泉川 罰にも差があるんですか。
佐藤 はい。もっと重いのは穴掘りをさせられるんです。スコップで掘ってまた埋めてね。また掘って、それを繰り返しさせられるわけです。
宇田川 我々のはPWというやつでしょう。ところが米軍で悪いことをした人は赤字でPと書かれるんです。その人達はごみ拾いをさせられていましたよ。
上原 米兵の中で悪いことをした人がですね。
佐藤 捕虜は虐待してはいけないからね。罪の重さはどっちがどうだかわからないけど。何をしたから立たされたのか、何をしたから穴を掘らされたのかよくわからないけどね。
上原 収容所に出入りするのはこの一か所だけだったんですね。
宇田川 はい。僕の記憶では、まん中に広い通りがあって。
佐藤 中央通りね(笑い)。
上原 そう呼んでいたんですか。
宇田川 何しろ通路はこれしかないのでね。横の通路はあるんですが、向かい合って二棟ずつ建っていました。そして路地があったんです、路地を隔てて向い合っていたわけね。それがいくつあったかはよくわからない。便所もすごかった、二〇人くらい並んでね。
上原 仕切りは無くて。
宇田川 そんな物ないですよ、男ばっかりだから(笑い)。ちょっと高い所にあったわけね。
佐藤 二〇人くらい並んでも大丈夫なくらいの大きな穴を掘るんです。洋式便所が二〇くらい並んでいるようなもんです。
宇田川 洋式便所みたいに気のきいたものじゃないですよ、ただ穴があいているだけだから。二か所か三か所くらいあったね。テントのあった場所よりちょっと高い所でしたよ。仕切りなんてないですよ。監視塔が六か所にあって、角に演芸場があったんです。そこだけは広場になっていたんですよ。僕らは入口から入って左側の路地へ曲がって二つ目の幕舎にいたんです。
佐藤 そこだったね。
宇田川 一つか二つめの路地を曲がって二つめ、それは記憶にあります。
宮城 その一張りに三〇人くらいいたんですね。
宇田川 そうですね、三〇人くらいでした。
上原 「楚辺の会」の皆さんは同じ幕舎にいたんですね。
宇田川 そうです。それが今の「楚辺の会」です。
泉川 この幕舎は両方とも住居ですか。作業場もあるんですか。
宇田川 いやいや宿泊する所、寝る所ですよ。入口の所にトラックで毎朝迎えに来るんです。
谷垣 作業の時、糧秣庫に一〇〇人とか必要な人数を示してくるわけです。
宇田川 それだけの人間をトラックで連れて行くんです。
泉川 さっきおっしゃっていたブレスレットはどこで作るんですか。
宇田川 幕舎の中でやるんです。
垣花 宿舎で休んでいる時にね。
宇田川 夜もやるんですよ。それを作るのに必要なヤスリなどを作業に行った先で取って来るんです。そして中に持ち込むわけね。
谷垣 係の人に申し出るわけさ、明日休ませてくれって。すると「医務室に行って診断書を取って来い」と言われるんです。軍医は日本人だから、にせの診断書を書いてくれるんです。それを我々の方でまとめてMPに渡すんです。点呼の時は各幕舎ごとに三〇人くらいずつ並ぶんですが、その時に「三〇名中二八人。二人は病気」と言うと、診断書が入っていますから「オーケイ」ということになるんです。点呼が終わってみんなが作業に出ると、休んだ人達の作業が始まるんです。みんなにせ病ですからね(笑い)。
宇田川 その人達が指輪を作ったり、腕輪を作ったりね。器用な人がいるから。
泉川 それを売るのは宇田川さんだけだったんですか。
宇田川 いやあ、売るのは何人もいましたよ。
佐藤 優秀なバイヤーでね(笑い)。
泉川 作り方を指導するということもあったんですか。
佐藤 いいえ。今日来てもらえたらよかったんだけど、津田※※さんがよくわかる。
宇田川 あの人はうまかった。
谷垣 研師だから。
佐藤 あの人は専門だから、今度聞いてみなさい、どういう風に作ったか。夜作っていましたよ。
宇田川 それもろうそくを頼りにね。だけど僕はろうそくは持ちこまなかったなあ。誰かが持って来たんだね。
佐藤 ろうそくはね、携帯口糧用の箱のろうを剥してね、布きれを芯にしてね、それで作ったんです。あれでご飯も炊きました。
宇田川 さっき言いましたが、芋の葉を持って来て何をするかと言うと、空缶に米軍から支給されたスープを入れてその中に芋の葉を入れて飲むんですが、これが旨いんですよ。火を焚いていることに対しては文句を言われませんでしたね。収容所内に薪も持って入れましたからね。芋の葉っぱなんて正々堂々と持ってこれましたよ。
佐藤 その中にタバコが入って来るんです。
宇田川 それはいけないんですよ(笑い)。
佐藤 見つかるとドラム缶の上ですよ。
上原 作業への出発は何時頃ですか。
宇田川 出発が八時頃。
佐藤 出発が八時半頃で大体九時頃現場に着いて。
上原 そうすると七時頃起きて、食事はそれぞれ別なんですか。
佐藤 米軍がパンとかをね。
上原 持って来るんですか。
宇田川 持って来るんじゃなくて当番がいた。それぞれの幕舎ごとに当番を決めて、何人分というふうにね。
上原 人数分の食事をもらってきて、それを食べるわけですね。
佐藤 八時頃点呼して。
上原 その点呼の時に何人はどこにということで振り分けられるんですね。
佐藤 そういう労働関係の事は本部で頭割りしているんですよ。米軍から言われるんでしょう。今日は貨物廠へ何人、モータープールに何人とか、恩納の米軍の宿舎に何人行けとか言われるんです。恩納の米軍の宿舎に私も行きましたよ、トイレ掃除に。
宇田川 入口の所までトラックで迎えに来たのです。
上原 行き先別に。
宇田川 そうそう。僕なんか毎日兵器廠へ行っていたから、いろんな物が取ってこれたんですよ。それを材料にして作った指輪は特に高く売れるんですね。
佐藤 それを本国の彼女に持って行くんだよな。
上原 米兵がそれを買うんですね。
宇田川 ほとんどが黒人だったね。
佐藤 だから米兵がアメリカに帰る時期になると売れるんですよ。
谷垣 彼らは国に帰ってからそれに金メッキをするんですよ。
宇田川 他にはパラシュートをかっぱらってきてくれって言うんですが、大きな物ですから、容易じゃないんです。それを切って持って来て、それに富士山や芸者の絵を描くんです。絹だからいいんですよ。それがまたよく売れるんですよ。
宇田川 それから始まったんです。
谷垣 収容所に入った時、私はよく富士山の絵を描いていたんです。そのせいで私は谷垣とは呼ばれず「フジヤマ」と呼ばれていました。フジヤマにゲイシャというと日本人だということなんですよ。
宇田川 収容所の中に演芸場があったと言ったでしょう。これの衣装だってみんなパラシュートを使って作るんだけど、うまく作るよ。そりゃあ本物の絹ですからいい物ができますよ。中には女形の役者もいるんだから。
上原 二〇〇〇人もいれば洋服屋さんも役者さんも、いろいろいるんですね。
宇田川 演芸は、毎週土曜日の夜って決まっているんだから。
佐藤 女形もいるんですよ。そしたら憲兵が見に来たんですよ、女が収容所にいるって。身体検査に来るんです。それくらい立派な女形でしたよ。
宇田川 かつらだって何だって何でも作っちゃうんだから。
垣花 ミシンがあったんですか。
宇田川 ミシンはないですよ、手縫いですよ。それだけたくさんいればいろんなのがいますよ。
佐藤 麻雀パイはできる、花札はできる、あんな何にもない所なのに何でもできるんだから。
泉川 演芸の演目はどういうのをやるんですか。
宇田川 我々に見せる慰安のためのものだから。
泉川 例えばどんなのがあったんですか。
上原 お芝居なんかをやるんですか。
佐藤 うん、いろんなお芝居をね。
上原 みんながよく知っているようなポピュラーな芝居などですか。
佐藤 そうですね。本土の方でよくやるような昔の三度笠ものとかね。
谷垣 ある米兵が本国にいる奥さんのカラー写真をみせて、似顔絵を描いてくれと言うので、色鉛筆を借りて描いたんですが、全然似てないんです。それでも喜んでくれて、アメリカに帰ってから洋服や靴を送ってくれたんですが、それから例のサボタージュを起こしたりしたんで全部取り上げられてね。
宇田川 収容所内の野球場にみんな集められてね。そして幕舎の中の私物を全部焼かれたんですよ。集められた時、何も持たずに外に出るように言われて、外に一晩いたんです。何も持っていないはずなのに、夜になるとどこかからタバコが出てくるんですよ。さすがに奴ら参ったんじゃないですか。
佐藤 全部焼かれましたね。
宇田川 私物はね。テントは焼かれないけど、中の私物は全部出されて焼かれましたね。タバコから何からみんな焼かれましたよ。
佐藤 着の身着のままになったんですよ。
谷垣 テントの中に洋服ダンスだってもってたんだから、みんな(笑い)。
宇田川 箱を積み上げて、その中に私物を入れていましたよね。
佐藤 箱を作ってね。
宇田川 アメリカ兵よりよっぽど、タバコなんか豊富に持ってたんじゃないですか。厳重に、タバコなんかを持って出ちゃだめだと言われるんですが。
佐藤 今の麻薬と同じですよ。どんなに警戒しても麻薬が入って来るでしょう、あれと同じですよ。作業に出て帰る時に、すれ違った連中が「今日は取締が厳しいぞ」と教えてくれるんです。そうするとトラックから畑などにいる沖縄の人達に投げるんです。
宇田川 収容所の中にテントはいくつくらいあったんだろうか。
谷垣 二〇〇〇人くらいだから大体…。
上原 一つのテントに三〇人ぐらいだとすると六〇から七〇くらいですかね。
佐藤 それくらいあるでしょうね。だからテントの大きさから計算すると収容所の大きさはどのくらいだろうね。
谷垣 一つのテントには三〇人くらいいたから。
泉川 テントの大きさはどのくらいだったんですか。
宮城 三〇人というと相当大きいテントですね。
宇田川 そうそう。なかなかいいテントですよ。雨も漏らないんだから。下からまきあげられるようになっていて、風通りがいいようになっていました。
上原 夜は降ろすんですか。
宇田川 そうそう。夜や雨が降った時は降ろす。朝になるとまきあげていたので隣のテントもよく見えました。
上原 下はどうなっていたんですか。床があったんですか。
佐藤 缶詰が入っていた大きい箱を並べていました。
宇田川 真ん中に支柱があって、四隅に棒があってそれを支えていて、入口を囲んでまわりにみんなが寝たんです。
上原 一応箱で作った床はあったわけですね。
佐藤 いろんな箱を使っていますから平とはかぎりませんよ。
宇田川 入口から入って来た支柱のまわりに谷垣さんなんかはいたんです。僕らは一番端っこ、通りっぷち。何しろ夜はあんまりいないからさ(笑い)。
谷垣 高橋さんと私は大体寝ていました。
宇田川 こういうふうに考えるとですね、日本人というのは器用で、舞台装置や衣装までつくって、毎週土曜日は演芸会でしたし、野球もやりましたね。
佐藤 ソフトボールもやってたな、あの頃。
宮城 退屈であっただろうと思うんですが、そうでもなかったんですね。
宇田川 中ではどこへ行こうと自由ですから。
上原 作業が終わって帰って来るのが大体五時とか六時頃ですね。その後は。
佐藤 その後は出られないさ。
宇田川 衛兵はちゃんといるから出ることはできない。鉄条網が観音開きでバタッと閉まるんです。作業の時間は正確ですよ。日本人みたいに残業しろとは言わない。作業が終わるとトラックで収容所まで送ってくれるんです。
佐藤 捕虜に逃げられると困りますから、帰る時は数を確認して。
上原 トラックに乗る時と降りる時に点呼するんですね。
宇田川 そりゃそうですよ。
佐藤 彼女がいたりすると逃げるからな。
谷垣 彼女がいる人は頼みに来るわけさ。「今日彼女に会いに行きたいけど谷垣さん出してくれないか」と言われると、まず酒を飲ませる。
上原 米兵にですか。
谷垣 はい。酒も作ってあるから、飲ませると「オッケイ、オッケイ」と言って喜ぶからね。その間に穴から逃がすわけ。朝の点呼までには必ず帰って来いよと言って出すんです。そうするとおみやげをもって帰って来るんです。
泉川 外に出るというのは女性に会いに行くんですか。
谷垣 はい。彼女のいる人もいたんです、沖縄に。兵隊時代に同棲した人や子供がいる人もいて。
泉川 そうすると相手の人は読谷の人ですか。
宇田川 そりゃあどこの人だかわかりませんよ。
泉川 遠い所だと行くだけでも大変ですよね。
谷垣 どこへ行くんだか全然わかりませんよ。聞いたって、場所も、どうやって行くのかもわかりませんからね。
宮城 当時は夜は歩けませんでしたからね。
谷垣 そんなに遠い所ではないんですよ。
泉川 その彼女が近くにいたんですか。
谷垣 近くに来ていたんでしょうね。
垣花 連絡を取り合ってね。
宇田川 だから日曜日になると子供を連れて会いに来たっていう話は聞きましたね。実際に見たことはないですが。
佐藤 残ったのもいるらしいもんな。
上原 沖縄にそのまま。
佐藤 脱走していなくなった人もいましたから、そういう人は沖縄の人と結婚して残ったんでしょう。

収容所での作業と復員状況

谷垣 帰る時は七〇〇人ですから、リバティー型輸送船に乗って。
宮城 何日くらいここにおられたんですか。
上原 実際には一年くらいですか、もう少しですか。
宇田川 そのくらいだね。
谷垣 私達は第二陣で一緒だから。
宇田川 僕は名古屋に降りたんです。
上原 帰る時はみんな一緒ですか、それとも別々だったんですか。
佐藤 みんな一緒というわけではなく、私が帰ったのは最後の方でしたよ。
上原 最後の方というといつ頃ですか。
佐藤 昭和二十一年の十二月ですね。十二月三日に名古屋に着いたから。
谷垣 私は大詔奉戴日の十二月八日に帰ったんです。
佐藤 私は捕虜生活は一番長いんじゃないかな、一年六か月ぐらいですから。兵隊だった期間より捕虜の方が長いんです。召集されたのが十九年六月で、捕虜になったのが二十年の六月で大体一年ですね。翌年の十二月まで捕虜になっていたんですから、捕虜の方が長いというわけです。軍籍にあったのが一年ですからね。
谷垣 私も二十一年に帰りました。今日ここに一緒に来ている息子が生まれたのが昭和十八年で、二十一年には数えで四つになっていました。
佐藤 私の息子は十九年生まれですから帰って来た時には満二歳、数え歳だと三歳になっていました。
谷垣 私が帰っても息子は寄り付きませんよ。お父さんはどこだって聞くとタンスの中だって言うんですよ。玉砕したと聞いて僕の写真は黒枠に入っていたので、息子は私を他人だと思っていたんです。
垣花 沖縄戦で亡くなったと思っていたんですね。
佐藤 寄ってきませんでしたよ、生まれた時からいないんだから。
谷垣 お寺では沖縄が玉砕した日ということで、六月の何日かが命日になっていて、お参りに来ていたんです。お経をあげに。命日を六月二十三日にしていたんですね。そのうちに私は帰ることになり、名古屋から電報を打ったんです。
佐藤 私なんか隠れてこそこそと帰りました。
上原 宇田川さんが復員なさったのはいつ頃ですか。
宇田川 昭和二十一年の十月か十一月頃だろうね。
佐藤 一番早いのは津田さん達ですよ、病人は早く帰れたんです。昭和二十一年の七月か八月頃だったと思います。
佐藤 将校クラスは早いですよ、二十年に帰っています。将校は作業しないからね。
泉川 作業しないというのはどういうことですか。
佐藤 捕虜の取り扱いに関する国際法上の取り決めで将校は使えませんからね。飯を食わしておいてもしょうがないから、早く帰したんですよ。だから将校連中は早く帰っていますよ。その人達が、私の家族に佐藤は生きていると手紙を書いてくれたらしいんですが、それから一年も帰ってこないので、死んだと言えなくて嘘をついたと思ったらしいですね。
宇田川 さっきもちょっと話しましたが、残波岬に行って、トラックを崖の間際までバックさせて、そのトラックの上からドラム缶などを捨てるんです。すると米兵は銃で撃つわけです。
宮城 彼らは広い所でビール瓶を投げて射撃の練習をするんです。
宇田川 そういうのが好きなんでしょうね。
佐藤 米兵は弾の管理がでたらめでもないんですね。弾は途中にある沖縄の墓に入れてありました。
宇田川 我々が作業している間、彼らは暇だからそれを撃っているんです。空ドラム缶を捨てに行った記憶はありますよ。
泉川 収容所から外に出る場合、使役で出るんですよね。
宇田川 作業所へ行くでしょう、その作業所から捨てに行くんです。
泉川 他にも読谷村内で道路を造ったりしたんですか。
宇田川 僕はそういうことはしなかったなあ。
谷垣 読谷村ではMPの宿舎にしか行かないんです。
泉川 それはどこにあったんですか。
谷垣 我々の収容所の南側の小高い丘の近くにあったんです。
泉川 何百メートルも離れているんですか。
宇田川 いくらも離れてないよね。
谷垣 すぐさ。
泉川 そこにしか行けなかったんですか。
宇田川 僕らは行ったことないんですがね。
佐藤 あれは憲兵隊の本部なのかな。
谷垣 そう。
泉川 使役で那覇とかに行くんですか。
佐藤 うん、那覇も行きましたが、糧秣庫はどこの浜だったんでしょうね。飛行機でどんどん降ろして、それを片付けたこともありました。
泉川 物資の運搬とかですか。
宇田川 そういうのをやった人もいるんでしょうね、僕は行ったことないけど。
佐藤 船からも降ろしましたよ。降ろす時に箱が壊れているのと壊れていないのを分けて、無傷なものだけを積み重ねて山をつくるんです。
宇田川 その山を崩すのが我々なんですよ。大体タバコの山だとかわかるんです。
佐藤 弾薬整理のため山にも行きましたよ。これが一番きつい仕事でしたね。
宇田川 僕は行かなかったな。
佐藤 その作業に行っている人もいましたよ。我々はカマボコ兵舎を造りにも行きました。あれは組み立てですからね、鉄骨を組み立てて、トタンを打ち付けたんです。それをワイヤーで押さえるんですよね、台風なんかで風が強いからね。そういうふうなこともしましたよ。また、米軍のハウスの掃除とか洗濯とか便所掃除とかは、そんなに人数が要りませんから、小人数で行きました。
谷垣 洗濯に行くと困るわけさ、日本人は泥棒が多いと。干してある洗濯物の中のいいやつと着替えて来るんだから。
佐藤 谷垣さん、私はだいぶハウスの洗濯に行きましたが、シャツ一枚もかっぱらいませんでしたよ(笑い)。ヤンキーの物は大きすぎて合う物がありませんからね。進んでいるなあと思ったのは、当時電気洗濯機があったんですよ。でも洗濯機を使うと一回いくらと金を取られるので、私達に頼むんですよ、洗ってアイロンをかけてくれと。そうするとタバコをくれるんです。
泉川 英語で話すんですか。
佐藤 毎日行っていると何とか通じるんです。終戦の時に彼らは日本語と英語で書いた本を持っていて、だいぶ勉強していましたよ。日本語と英語で単語が書かれていますから便利ですよ。日常生活で使うような単語が書いてあるんです。
垣花 オレンジ色の表紙本ですか。
佐藤 そうそう、ポケットに入るような。アメリカ兵はみんな持っていましたから、もらいましたよ。

サボタージュ

泉川 そうこうして、早く帰りたいということでサボタージュするわけですね。
佐藤 帰りたいからとサボタージュしたわけじゃないんですよ。たまたま作業に出る時間が少し遅れたんですよ。アメリカ兵の責任もあるんですよ。点呼に来たやつがあまり頭のいいやつじゃなくて。
谷垣 一〇〇人が五人ずつ並んでいるのに、五、一〇、一五と足して行くのです。掛ければいいのにいちいち数えるので、途中でわからなくなって数え直したりするんです。そういうことが積もり積もってサボタージュになったんです。
佐藤 本気になってストライキをやるとか、サボタージュをやろうとか計画的な問題ではなかったんです。
谷垣 マッカーサーには事実訴えを出したけどね。促進運動、帰国運動もやってはいたが、それに関連してやったから。
佐藤 帰国運動の一環として解釈されたんでしょうね。
谷垣 そうでもしないと彼らのメンツがたたんでしょう。捕虜をそんなに甘やかしてどうすると本国で言われるでしょう。
 マッカーサーには英語でサボタージュの顛末を報告してあったのですが、我々にはその内容がわからん。それで東大出の連中が読んでくれたんです。内容はサボタージュの原因が促進運動だということになっていました。PWにサボタージュ起こさせたなんていっちゃ本国に叱られちゃう。結局サボタージュは帰国促進運動のためにやったんだと日本人を悪物にしなければ困ると、それがニューヨークタイムスに出たんです。
佐藤 あれはやろうとしてやったんじゃなかった。それからしばらくは持込みのチェックも厳しくなったね。
泉川 そろそろ時間がきていますので、閉じさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。
上原 今日参加できなかった皆さんから電報をいただいております。今日は全般的なことを聞かせていただいたんですが、これからも手紙や電話でいろいろ教えていただくことがあると思いますのでよろしくお願いします。
宇田川 こちらの方こそ。東京にいらっしゃることがありましたら、ぜひお会いしましょう。
宮城 あっという間に三時間過ぎてしまいましたが、今日は貴重な体験をお聞かせいただきありがとうございました。捕虜当時の模様を詳しく聞くことができ、楚辺の会が発足できたのを喜び、皆さんがお元気で、またこれを機に読谷とのつながりを深くしていけますように、そして『読谷村史』が出来あがりましたら、ご報告したいと思っております。今日は本当にありがとうございました。

「柵の鳥」をご存知ですか

静岡市 赤松※※
 沖縄楚辺俘虜収容所は、沖縄県中頭郡読谷村字楚辺にあった(編者注 実際の所在地は読谷村字高志保)。昭和二十年九月のことである。私達は略して「楚辺収容所」と呼び、一年余を天幕の下で過ごした。記録によれば、収容者数は昭和二十一年四月三十日の調査で二〇七五名となっている。
 海が近かった。有刺鉄線で囲まれた収容所から、西に紺碧の海が眺められた。東支那海である。夜、寝静まると単調な潮騒が高く低く聞こえた。潮騒を聞いていると眠れなかった。三か月に及ぶ戦闘の記憶や、家族や、ふるさとや、さまざまな光景がまぶたのうらに浮かび眼が冴えた。
 眼をあけると有刺鉄線の柵があり、数か所の監視塔の明るい照明灯が闇を消していた。監視塔にはライフル銃を持った米兵がのんびりと立哨していた。
 私たちは毎日米軍部隊へ作業に出かけ、監視兵の拘束を受け働いた。作業は単純作業であったが、澄んだ空の下で、屈折した心をもっていやいや働くことは疲れた。作業にも収容所生活にも馴染んでくると、夜の時間が退屈となった。いつしかトバクが拡まった。翌日分の食糧となる米軍のレーションが前日の夕方渡されたが、それを賭けるのである。三食分とも負ければ翌日は絶食となるが、なんとか要領よく切り抜けた。
 時は流れたが復員船はなかなか配船されなかった。海はとほうもなく広く果てしないように感じた。復員推進を訴え、収容所管理の米軍部隊にストライキを実施して作業に出なかったので、重機関銃で威嚇されたり、食糧の配給停止を受けたりした。このストライキの頃ではなかったかと思うが、いつしか収容所のなかで「柵の鳥」と題する歌が口ずさまれはじめた。
 作詞は宮良政貴、楚辺善三郎作曲となっているが同一人物であると信じられている、確証はない。申し訳ないが、幼く泥くさく、洗練された歌ではない。が素朴である。収容所の二〇〇〇名のうち知らない者もいたようで、なんとなく歌われ、当時口ずさんでいた者でも、現在はすでに忘れてしまっているのではないだろうか。埋もれてしまった歌である。
 だが「柵の鳥」が戦後三四年の後、昭和五十四年二月十九日、沖縄で歌われた。のちに「楚辺の会」と琉球大学の我部助教授(当時)が名付けた会が、収容所の同じ天幕で生活した者たちで作られている。その集いが昭和五十四年二月、沖縄県那覇市で七名の参加で行われた。
 このとき、那覇市民の戦時戦後体験記録委員会主催の座談会が自治会館であった。この記録は、昭和五十六年三月発刊の『那覇市史資料編第3巻7 市民の戦時・戦後体験記1』に収録された。座談会が終わったのち、委員会の人たちと那覇市久茂地の沖縄料理店「綾門」で席を囲んだ。古酒泡盛を飲み、沖縄料理を食べながら、座談会で語り残された体験談が続いた。沖縄料理はうまかった。ジーマーミ豆腐、ミミガー刺身、なかみの吸い物、ドゥルワカシ、豆腐のかしイリチャー、ラフテーなどみな珍しかった。時も過ぎて、誰言うともなく、むかしを思い出して「柵の鳥」を皆で歌おう、ということになった。委員会の人たちも全く知らなかった歌である。
 「柵の鳥」
  一 戦の場(ニワ)にこもごもと
    死なばともにと誓いたる
    不覚やおれは生き残る
    今じゃ楚辺野の柵の鳥
  二 明日に望みがあればこそ
    つらい想いもいとやせぬ
    すみれの花は人影に
    春を匂いて咲くものを
  三 祖国恋しや故里へ
    心ばかりは通えども
    翼なき身の悲しけれ
    はれの船出はいつの日ぞ
  四 幕舎にたそがれ迫る頃
    一人占うトランプに
    流れて響く呼子の声
    共にほほばるCレイション
 若くても五十路半ば、最年長は八十路に近い私たちは歌っているうちに、われ知らず瞼がうるみ、とめどなく涙がながれた。泡盛の盃に音もなく落ちてはねた。あのような体験は再びしたくない、とおもいながら鳴咽のなかで、とぎれとぎれに歌がつづいた。委員会の人たちは呆然として声もなく見つめていた。
(昭和六十年一月十八日記)

座談会を閉じるにあたって

 ひょんなきっかけから楚辺捕虜収容所に収容されていた方々の座談会を開催することが出来た。楚辺の会の皆様にアンケートを出した時点で「この中のどなたかとお会いする機会があるのではないか」そんな予感はあった。が、こんなに早くそれも複数の方々とお会いできるとは思ってもいなかった(ちなみにアンケートによる協力依頼を出したのは一九九一年十一月初めである)。
 一九九二年二月、会員の一人である谷垣※※氏より避寒のため沖縄にいらしているという連絡を受け、早速氏の宿泊先である那覇市の上江洲荘へうかがった。谷垣氏の話は九〇分の調査テープ二本が終わってもなお続いている。奥さんが夢の中に出てきて九死に一生を得たこと、楚辺収容所時代のこと、サボタージュのこと…いくら話しても話し足りないかのようであった。時間はすでに午後七時半をまわっている。帰ろうとする私たちに谷垣氏が思いもかけない提案をして下さった。それは「毎年行っている楚辺の会の集まりを今年は沖縄で開いてはどうか」ということである。村史の戦争編編集の際、村民の体験だけではなく、村外の方達の体験もうかがいたいと思っていた私たちにとって、願ってもない申し出である。座談会の開催に向け、谷垣氏と私たちの電話や手紙でのやりとりが始まった。会員の皆さんへの連絡などはすべて谷垣氏が担当して下さった。
 三月二十二日、谷垣氏をはじめ佐藤※※氏、宇田川※※氏(以上楚辺の会会員)、垣花※※氏(楚辺の会顧問)、谷垣氏のご子息である谷垣※※氏ご夫妻の参加で座談会を開催した。出席予定の津田※※氏が飛行機欠航のため、参加していただくことができなかったのが残念であった(津田氏は後日読谷村を訪問して下さり、体験談をうかがうことができた)。
 座談会終了後、文章化し、座談会に出席なさった方々に校正をお願いしたところ快くご承諾頂きました。また楚辺の会会員である赤松※※氏執筆の「柵の鳥をご存じですか」を関係資料として掲載させて頂きました。たくさんの方々のご協力でこの報告書を出すことが出来ました。心から感謝申し上げます。
(読谷村史編集室 上原恵子)
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