第四章 米軍上陸後の収容所
体験記


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赤松※※さんからの手紙より

編集者注 読谷村史編集室からの質問に、静岡県在住の赤松氏より「楚辺収容所」に関しての詳しい説明の手紙をいただきました。数通におよぶ手紙を編集室で取りまとめて本稿にしました。いくつかの項目に分けて掲載します。

屋嘉から楚辺への移動について

 屋嘉はベースキャンプとして俘虜に対する事務処理が行われ、完成した新しい収容所(楚辺収容所)へ移動させられました。トラックで何百名という集団で移送されました。到着してみるとキャンプはまだ完成しておらず、ブルドーザーが南側の畑地を整地していました。ブルドーザーは夜間も照明灯の下で稼動していました。私の記憶では、移動は一九四五年八月下旬か九月上旬だったと思います。私がみんなと一緒に楚辺に移って二週間後と思われるころ、虫垂炎になり、収容所の元軍医の診断がおそくなったため、美里の米軍野戦病院で手術を受けた際には腹膜炎になっていたようでした。病室となった幕舎では抗生物質の注射を射たれ、一〇〇〇CCの水を飲めと瓶に入った水を置いて衛生兵は出て行ったのですが、この夜台風が襲来しました。風速は五〇メートルだったと後で聞きました。いくつかあった病室用の幕舎はすべて倒れ、米軍のカマボコ兵舎も倒れたものがあり損害は五〇万ドルに達したと聞きました。女性の名のついた台風が通過したのは何月何日だったか、これから逆算すれば移動日もわかると思います。
 楚辺では初日から点呼があり、当初毎日の朝夕に人員点呼をとったのは歴戦の下士官らしく、陽に焼け眼光するどく、我々を憎々し気ににらんでいました。点呼で彼がカウントする時は「気を付け」をさせられ、彼からみて縦に五人でこれが横にズラーッと並び、カウント中に目を動かす者がいると「ヘイ、ユー」と指をさされ、にらまれました。

ゲートおよび鉄条網について

 収容所の出入口は正面ゲートのみで、ここから作業への出入りを行い、歩哨がいて帰所後は通常のPWは一切出入りできません。ゲートは幅一〇メートルくらい、木製で左右への引き戸式の両開きだったと思います。ゲートから所内に通じる「中央通り」もこの広さでした。ゲートの左右にそれぞれ三〇メートルくらいの幅がありました。収容所を囲む鉄条網は有刺鉄線で高さ二五〇センチくらい。私の身長は一六〇と少しですが、腕をのばして最上部に少し不足だったくらいです。内側と外側の二重構造で内と外との間隔が二五〇センチくらいあり、ここに有刺鉄線を連続して八〇センチくらいの輪にしておいてありました。

収容所内の説明

 収容所面積は概算して六〇〇〇〜七〇〇〇uくらいか、屋嘉よりかなり狭いと思います。所内はさらに八区画に区分され、同じように有刺鉄線で区切られていました。収容所の中央にはゲートからまっすぐに通称「中央通り」が走り、中央通りをはさみ左右に四個ずつ柵があることになります。一個の柵は三〇×二〇メートルくらいの広さでした。柵ごとに軍隊組織の名称が採用され中隊と呼ばれていました。収容所内の総テント数は六〇〜七〇張くらいですが、一張二五名程度の収容でした。テントは通称六六(ろくろく)テントと呼ばれていたように記憶しており、それは縦六メートル横六メートルという意味ではないかと思います。
 ゲートを入って右にMPの事務所、左手に本部があり、本部には収容者の自治組織があり若干名が従事していました。本部には炊事場もあり作業者に持たせるパンを焼いていました。第五柵には非行(盗み、脱走)で処分を受けた者が隔離され、夜間就寝するためのテント一張(懲罰天幕)がありました。ビスケット四枚と水のみが与えられたといいます。ここの天幕のなかで一九四六年殺人事件が発生し、軍隊生活のなかでイジメにあった復讐との風評が少し出たが、MPの捜査で犯人は逮捕され本土へ送還されたと聞きました。絞殺を偽装し吊してあったそうです。

テントについて

 テントは地面にそのまま展張してあり、内部は並んで寝るようにならざるを得ませんでした。毛布一枚を折りたたみその巾が一人前のスペースとなり、他の一枚を身体にかけました。地面のでこぼこで背中が痛いので、梱包のダンボールや板を入手し、その上へ毛布を敷いていました。屋嘉から楚辺へ移動した当初は、地べたにそのまま毛布を四ツ折にしてその上に寝ました。
 そのうち野戦倉庫の被服庫へ行き、カッター、ズボン、ジャンパー、靴を盗み、一通りの服装を入手しました。陸軍より海軍、海兵隊のほうがよいと盗む際には選択するようになり、特に靴は海兵隊用が好まれました。

ゲート前のドラム缶について

 ドラム缶はゲートの通路の両側に各四、五個くらい、計一〇個くらい立ててあったと思います。作業先の部隊で非行があった折、不問にされればよいが、事犯により告発されると、帰所後処罰を受け、ドラム缶の上にスタンドアップ何日ということになります。盗みの場合は大体五〜七日くらいだったと思います。収容所からの脱柵はドラム缶の上で七日間の立ちん坊懲罰となりますが、MPも粋なことをするもので、脱柵の理由を尋問されて「恋人に逢うため」と答えると、「ナイスボーイ、OK 5 days」と割引される。事実か嘘かは追及しないので随分と恋人がふえました、粋なはからいというべきか。ゲート前のドラム缶に立たされた者は、夜は懲罰天幕(参照)で就寝しました。

監視塔について

 四隅と中央に向きあって二か所で計六か所の監視塔がありました。七、八メートルほどの高さの望楼があり、監視哨(兵)がガムをかみながらライフルを抱えてのんびり監視していました。サーチライトというべきか燭光の大きい電球が収容所内を照らしていました。ライトは円形のカバーの中に左右に二個の電球、明るさは一〇〇Wくらいだったか、当時それ以上の明るさの電球の存在を知らなかった。収容所ゲート前の道路をゆるやかに登った地に所長以下の収容所管理のMP宿舎があり、夜は煌々と明るくまぶしい程でした。その兵舎の使用電力は自家発電で、照明灯(サーチライト)もこれでまかなわれていました。

舞台について

 楚辺に移動してどれほどの月が経過してからか、昭和二十一年になってからと思われますが、第八柵に演芸のための舞台が作られました。この舞台はサボタージュの罰で焼かれ(昭和二十一年四月二十八日)、その後その向い側の柵に再建されました。同時に野球場も整備されたのです。演劇用の衣装は勿論ありませんので、パラシュート布、その他入手できる布にペンキで彩色して使用したそうですが、ペンキが乾燥するとガサガサして着にくかったといいます。かつらも手作りで、これらは徐々に改善されて上質になったそうです。
 楚辺に限らず屋嘉にもかなり早い時期に舞台が作られ、大衆演劇が上演されていました。屋嘉ではこけら落としで一回観た限りで、楚辺では観ていません。屋嘉での観劇はいずれも大衆もので、菊池寛の「父帰る」、長谷川伸の「瞼の母」「一本刀土俵入り」などの作品、これが受けて涙を流し拍手の嵐でした。突然大衆演劇を見せられて、この拍手の嵐はなんだろうと考えてしまいました。収容所という隔離された環境のなかで義理と人情の浪花節演劇に魅入られてしまったのでしょうか。

作業について

 作業所というのはPWが労働のため派遣されて行った先の部隊をさします。その部隊でテントまたは宿舎の掃除、ピラミッド形に積んだ梱包の積み替え作業、溝掘りなど、作業は単純作業でした。はじめのうちは様子や状況がわからないので、溝掘りや宿舎の修理(カーペンターと呼んだ)などが多かったのですが、「タイム」や「ライフ」を休憩時間に見せてもらい情報の入手はできました。もっとも英語が読めないのですが、監視兵が説明をしてくれました。そのうちマリンの食糧倉庫へ行ったのがキッカケとなり、朝の整列場所もどの辺りなら倉庫に当たることがわかり、ほとんど毎日倉庫へ行きました。冷凍船で運ばれてきた食品をトラックへ積み倉庫へ輸送する、これを二〇メートルくらいの一棟の冷蔵庫へ整頓して積みあげる作業が私たちの仕事です。食糧は牛肉、ハム、卵、ウィンナーなど要冷蔵品で、これを一ケースごと監視の眼をゴマカしてかくしました。卵など一ケース二〇〇個以上あったと思います。昼食はどこでどう盗んだのか材料一式が雲の湧き出るように集まってくるから不思議でした。
 米軍の各部隊は俘虜の必要人員を収容所担当者へ報告して要請し、翌朝トラックでゲート前に来て担当MPに書類を渡し、人員を記入してもらっていました。この書類は帰所のさいMPに渡して終わりとなるのです。トラックの運転手は下士官が多かったようです。各車両を確認したわけではありませんが私たちのトラックは下士官だったと思います。彼が主管将校サインの書類で部隊名、作業、所要人員数等の記入されたものを収容所の担当MPに渡し待機するというかたちでした。早くMPに交付すればその順にPWを受領することができました。各部隊のトラックは協定でもしてあったのか、それぞれほとんど定まった時間にゲート前にきていました。

食事について

 作業から帰って毎夕五時以降に翌日分の食糧としてKレーション三個(朝、昼、夕)が支給されました。昼食はこのうちの一食を作業に携行しました。他にCレーションの支給を受けたことが一、二回あり、A缶はビーンズか肉、B缶がビスケット、インスタントコーヒー、レモン等でした。アメリカ製とオーストラリア製があり、後者はまずいと米兵は敬遠していました。昭和二十一年になって、昼食は本部で焼いた直径二〇センチほどのパンに改善されました。
 食事は基本的にKレーションでしたが、夜になるとそこここで空カンを利用した調理風景が見られるのです。イモの葉を持ちこみKレーションのビーフアンドエッグやコンビーフを煮るのです。缶詰がない場合はイモの葉だけ煮込んでいました。ビーフアンドエッグやコンビーフは米軍兵が戦闘中に使用した食器(楕円形の鍋状のもの)で炒めればよいのですが、やはり汁にしていました。持ち込んだ生の牛肉やハム、ソーセージ、生卵を煮込んだりもしていたのですが、レモン、オレンジ、パイン、ジュースもあったのですから、収容者の生活力は旺盛なものです。

サボタージュ事件について

 収容所生活も長期になり正月も過ぎてだいぶ経った頃、四月の末近くなるとサボタージュという予想外のトラブルが発生しました。罰として stand up させられていて、ふと「アア、今日は天長節(天皇誕生日を当時はこのようにいった)だなあ」と感慨にふけった覚えがあります。この事件により、各人の私物は一斉に摘発されガソリンをかけて焼却されました。私物の山は底辺六、七メートル、高さ五、六メートルの円錐になり、MPも量の多さに驚いたのではないでしょうか。
 この事件の前だったのか後だったのか、状況を考えると前だと思いますが、「日本人は米が主食だからパンばかりだと作業へ行っても力がでない、米を支給してほしい」と要請したところ(各個人がそれぞれではなくPWの自治組織の要請というデモクラシーのスジを通した行為)、半月ほどして米が支給されました。一袋一〇sと思われる米袋にはカリフォルニアとありました。支給された米粒をみると長くて、私たちが通称南京米と呼んでいた米でした。久しぶりに米が喰えるという喜びと期待で、飯盒や空き缶で炊いたが白い飯はまずく、パサパサの食感で粘りはありませんでした。不満は収容所全体に拡大し自治本部への苦情となり、配給された米をすべて返納しました。「われわれはこのような米は喰わない、これは豚の餌だ」、この抗議には管理MP側も驚いたようで「交換するので待たれよ」との回答があり、さらに二、三週間待って米が再び支給されました。米袋には同じようにカリフォルニアとありましたが、さっそく炊きあげると「これはうまい、日本の味だ」となりました。これが大隊本部さらに憲兵隊へ報告され、双方が納得し無事解決となりました。

女性の面会

 座談会でも女性が面会にきたという証言がありますが、私も呼び出されたことがあります。私が急いでゲートに近づくと幼児を抱いた女性がおり、本部にも別の女性がおりました。「○○(地名だったのですが忘れました)にいた○○部隊でしたか」と質問されましたが、全く心当たりがありません。日本兵との間の子ということで、父親を探して収容所巡りをしている由で、かわいそうだと思いました。兵隊たちのジンクスとしてこの世に分身を残した場合、本人の死亡の確率が高いと信じられていました。私はテント(天幕)に帰ると冷やかされ、打ち消すのに一汗かきました。

脱走について

 私はエスケープの手助けをしたことがありました。独歩二三大隊の通信兵と顔見知りになっていましたが、彼がエスケープして中隊の戦友と司令官の墓標を建立したいと言うのです。打ち合わせた日、迎えのトラックは黒人兵の伍長、作業者は二五名(五名×五列)、黒人兵の部隊へ行きドラム缶のトラッシュをトラックへ積み、捨て場へ走りました。作業を終わり昼食の休憩中に脱走成功、帰途の人員点呼でカウントした伍長は「二四名?ワンモア、ワンモア」とかなりあわてた様子、さかんに「ワンモア」と言うが、「二四men」、「ノー、二五」と双方でくい違うのは当然、伍長は「五、一〇、一五、二〇、二五」と言い、我々は「ユー、クレイジー、二四men」と言う。そして四人ずつ六列に並び、「四、八、一二、一六、二〇、二四、ジャスト」と列の並びは端数がでないのです。伍長も時間が経過するし「そうかなあ」という気になったらしく、トラックは収容所へ行き、すんなりとゲートを通過しました。かくて「五オペレーション」と名付けた脱走は成功しました。

収容所での一日について

 収容所では就寝、起床時間の設定はありません。天幕の中は電灯もありません。しかし監視哨のライトが夜間は点灯されていますから不自由はありませんでした。夜の時間は収容所内なら何処へ行くのも自由で、GIからもらったトランプや手製のカードでバクチに耽ける者も多くいました。
 米兵が欲しがる指輪や絵の製作は、支給されるKレーションに入っているタバコ(四本)では不足なので、タバコ入手のために始まったようです。はじめは単純なものだったが次第に精巧なものになり、米兵の要望するような美術工芸品というほどのものではありませんが、かなり手のこんだ作品が現れました。これらの作品作りは夜か、休日に自分のエリアで懸命に作るのです。宇田川さんたちバイヤー、要するにブローカーの努力によって受注されたリングや腕輪(アルミニウム製)、富士、桜、ゲイシャの絵などのほか、受注でなくフリーのアーチストたちがテント内でヤスリ、ナイフ、タガネ、彫刻刀などで製品作りに奮励努力しておりました。明かりはKレーションの外装のロウをけずり空き缶に芯を立てロウソクを作り、現代の零細企業方式で生産していました。日本人は器用ですから、だんだんと精巧な製品を作り出しました。トラックの尾灯に赤いガラスがはめこまれていたのですが、この尾灯をこわし赤ガラスを注文により持ち帰り、リングにはめこみ、ルビーと臆面もなく称していました。
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