第四章 米軍上陸後の収容所
体験記


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捕虜収容所暮らし

元日本兵 津田※※ 大正二年生
聞き手 上原恵子(村史編集室)

捕虜になるまで

───津田さんは島尻の方で捕虜になったということですが、それはいつ頃ですか。
津田 捕虜になったのは九月七日です。日本は全面降伏したからどうする、というので、国が降伏したのなら我々が抵抗したって仕方ないんだから、じゃあ山を下りましょうということで。その時いた場所が今の大里村ですかね、あの辺の山の中でした。
───九月七日までずっと南部にいらしたんですか。
津田 ええ、山の中に。終戦になったのを知らなかったんですから。
───南部ではだいたい六月下旬には戦闘終わってますよね。
津田 その時は摩文仁の海岸にいたんです。摩文仁の軍司令部の警備の命令が出てね、米須から摩文仁へ行ったんです。そこで六月二十三日頃でしたかね、摩文仁の丘へもアメリカ軍が来ましてね、それで今度は海岸へ降りたんです。海岸へ降りて二、三日経ってから、軍司令官と長参謀長が自決したということを聞きました。アメリカ軍が投降するように呼びかけに来るんです。はじめは山の上から、後になると海の方から水陸両用の戦車に犬を連れてきたんです。これはもう海岸からは逃げられない、とにかく北部の方に突破していこうということで、戦友と二人で摩文仁の崖を登って東風平あたりまで来たんです。それから仲間ができて七、八人になったんです。
───同じ部隊の人ですか。
津田 いいえ、全然知らない人と。女の人も一人いたが、あれはひめゆり学徒隊の生徒ではなかったかな。それで東風平まで来たときに、とにかく夜の暗い中での行動で全然わからずに敵の幕舎の中へ入ってしまった。それで機関銃で撃たれてね、向こうもびっくりしたでしょう。ソテツの林の中へ潜り込んで、夜が明けてみたら周辺全部米軍の幕舎でした。その夜そこをどういうふうに脱出したのか、その記憶がないんです。そこだけプツンと切れてしまっている。そして大里村まできて、与那原と那覇の線だけはどうしても突破できなかった。夜でも、蟻が這うのも見えるくらい明るかった。それがだいたい六月の末頃でした。六月二十五日頃摩文仁を突破してきたものだから、六月末頃でしょうね。もう日にちも何もわからなくなってしまいましたが。そこで高射砲隊の将校というのと一緒になりまして、それであの線を突破しようと行ったんです。見つけられて機関銃で撃たれまして、ほうほうの体で逃げてきた。今夜はダメだな、明日決行しよう、と言っていたのですがもうそこで動けなくなってしまったんです。それで大里の山の中に入って、ちょうど与那原が見える丘の上でした。また運がよかったことには食料があったんです。
───それは日本軍のですか。
津田 日本軍の米などが壕の中にいっぱい詰まっていたんです。それがすぐ近くにあったものだから、それを掘り出してきて、あとは米軍の陣地の跡へいって缶詰なんかを拾ってきてね。終戦になったのも知りませんでしたから。終戦になった夜だったんでしょうね、アメリカ軍が各陣地から曳光弾の十字砲火を撃ち上げたんです。特攻機でも来たのかなあと思っていたけど、あれは終戦になったというので各アメリカ陣地でお祝いの祝砲を上げたんだ、とあとで考えました。
───その時は何人ぐらい一緒にいたんですか。
津田 どこの部隊か知らない人と二人で行動していましたが、九月七日に米軍に使われていた宣撫班が来て「国は全面降伏したが、あんた達はどうする」というから、「国が降伏したんなら、私達がこんなところで抵抗したって何の意味もないから、じゃあ山を下りましょう」ということで、「明後日迎えに来るから、それまでアメリカ兵に見つからないように隠れていてくれ」なんて言われてね、九日に来ました。四〇人くらいはいましたね。
───その山の中にですか。
津田 ええ、トラック一台になりましたからね。

屋嘉捕虜収容所から国場の収容所へ

津田 それからトラックに乗せられて、屋嘉の収容所へ行ったんです。
───その頃屋嘉の収容所には捕虜はたくさんいたんですか。
津田 ええ、あそこは一番大きな収容所です。もう必ず屋嘉に連れて行って、そこから各収容所に送られて作業にも行くんですから。
───では九月九日に屋嘉に行かれたんですね。
津田 ええ、そして部隊名、部隊長の名前、宗教関係などみんな質問されました。それから、私は負傷していて手を吊っていたもので、屋嘉から国場の収容所へ移されたんです。
───那覇の近くですか。
津田 はい。そこへ行って、怪我をしているから作業に出なかったんです。それで作業に出ないものは診断を受けろと言われて、そこで診断を受けて、また屋嘉の収容所に戻されました。
───屋嘉には何日くらいいらっしゃったんですか。
津田 一か月くらいいて、国場に移されたんです。
───そのあいだは怪我で作業には出てないんですね。
津田 ええ。国場へ行っても作業に出なかった。それで国場で診断を受けたんですが、診察したのは内科の軍医さんでした。診断を受けてすぐ屋嘉へ戻されて、今度は屋嘉で外科の軍医が診察したんです。
───日本軍の軍医ですか。
津田 ええ、その軍医が「これはダメだ、明日すぐ入院しなさい。このままだとたいてい死ぬはずだけどよく助かったもんだなあ」と言われましてね。その時初めて怖くなりました。
───いつ頃怪我したんですか。
津田 八月、今考えると終戦になる二、三日前だったんでしょうね。
───じゃあその頃までアメリカ軍は残っている日本兵を捜して…。
津田 うん、敗残兵の掃討に来るんです、毎日二、三名ずつ。それに見つかって、海軍の兵隊と二人で逃げて崖を飛び下りたんです。そしたら上から手りゅう弾を投げられて、海軍の兵隊の腹の上で炸裂しましてね。二、三時間くらい生きてましたかね。その時その破片で腕をやられました。
───国場と屋嘉と移動したということでしたが、治療するような施設はなかったんですか。
津田 ない。ちょっとした治療をするくらいでした。それで美里の病院に移ったんです。
───美里にあった病院はちゃんとしたものだったんですか。
津田 全部テント張り。手術室だけがカマボコ兵舎で出来ていました。これはすごくて、設備はなかなか良かったですよ。
───しばらくは美里の病院にいたんですか。
津田 手術したのは十月の始めで、退院したのが十月の末頃でした。それから屋嘉へ行って、屋嘉から楚辺へ移されたんです。楚辺に行ってからみんなと一緒になったんです。
───楚辺の収容所に移ったのは昭和二十年の十一月頃ですか。
津田 そうです。復員したのがその翌年、二十一年の十月です。
───では楚辺にはだいたい一年くらい。
津田 そうです。
───では二十年の十一月頃楚辺の収容所に移されて、皆さんと同じように朝、それぞれ割り当てられているところへトラックで行って。
津田 そうそう。
───作業は主にどんなところに行かれましたか。
津田 はじめはアメリカの海兵隊が引き揚げるための荷物の梱包だとか、送り出しでした。それが終わってから、向こうのカマボコ兵舎造りです。
───それはどこですか。
津田 どこだか覚えていないなあ。
───この海兵隊の荷物の梱包をしたのはどこですか。
津田 楚辺からトラックに乗って一〇分くらいの海岸べりでしたね。
───この梱包作業の期間は。
津田 二か月くらい通ったんじゃなかったかな。
───じゃあ、その後には。
津田 その後は兵舎の建築です。トラックで三〇分くらいかかる場所でした。私の仕事についての記憶はそれくらいです。
───その作業に行った先で、いろんなものをみんなポケットに入れてきたという話をしてましたけど。
津田 ハハハ、日本人はそういうところ、抜け目がないからね。
───それでちょっと余ったものとかを、トラックの中からそこら辺の住民にあげたという話をしてましたけど。
津田 あれは私等が引き揚げてからです、その後残った連中がね。私は患者輸送で少し早く帰って来たものですから。佐藤さんや、谷垣さん達は一番最後に引き揚げてきたでしょう。
───十二月頃だと言っていました。
津田 そうそう、名古屋へ上陸したって言ってました。私は十月二十日過ぎだったと思います。怪我をした者は一般兵より先でね、日本の海防艦に乗せられて鹿児島へ上陸しました。
───では、まだ手は完全に治っていなかったんですね。
津田 その時はもう手術してましたから、完全に治ってました。動脈をつなぐ手術をしましたからね、ここに大きな傷が残っています。破片が二個入ったんですよ、ひとつは動脈を切って、ひとつはひじのところで止まってね、骨もいくらかやられてここまでしか曲がらない。だいぶ伸びるようにはなりましたけど、ここまでしか曲がらない。傷痍軍人の手続きもしなかった。今になって思うと、こんな日本が負けたからといって、遠慮しないで手続きをしとけばよかったなんて(笑)。

楚辺捕虜収容所で

津田 はじめは小さいテントだったんですよ、一つのテントに約二〇人くらいでしたね。それがストライキをやったために全部持ち物を焼かれてしまってね、捕虜がストライキやるんですからね。それでその時に全部テントを張り直して大きいテントに変わりました。それは前のテントの二つ分ありました。
─── 一つのテントに三〇人くらい入っていたということですけど…。
津田 大きいテントになってからは、もっといたんじゃなかったかな。
───指輪を作ったとかブレスレットを作ったとかいう話もうかがいましたが…。
津田 ああ、ジュラルミンの飛行機のプロペラや羽根を切ってきてね、それでいろんなものを作ってアメリカ兵の煙草とチェンジしてね。
───津田さんはとても器用で上手だったということで、宇田川さんはそのバイヤーだったとか…。
津田 ああ年中作らせよった。あれはまた外国語がうまくてね。
───二〇〇〇人も兵隊がいるといろんな人がいて、東大卒で英語ペラペラの人もいれば、手先の器用な人もいらっしゃるし、交渉能力があって色々それを売ってくる人もいるし、演芸会があるとすごく上手に女形をやる人がいたりで。
津田 うん、中には俳優みたいな人もいたしね。そういうのは演芸部に入って、毎週日曜日にその演芸をやって我々を慰めてくれたんですがね。
───谷垣さんとか高橋さんなんかは早めに寝て、そうやって作業なさる方達はまた夜遅くまで起きて作ったそうですね。
津田 ええ、ロウソクの明かりでね、よくやってたものです。そのロウソクも米軍のレーションの箱、Kレーションですか、蝋(ロウ)引きのボール紙の蝋をはがしてね、それを小さな缶詰のなかに溜めてね、それをロウソク代わりに使ってね。
───ジュラルミンでブレスレットや指輪なんかを作って、それは米兵が本国に引き揚げる時にかなり売れたとか。
津田 そうなんです、なんにも土産に持っていくものがないでしょう。
───ああ、お土産品屋さんがあるわけではないですしね。
津田 そう、だからそういうものを、指輪だとか腕輪だとかを土産にね。あんなものしばらくすると変色するんですけどね。それからプロペラの端を切って持って来たり、これで指輪を作ってくれとかね。歯ブラシの赤い柄の部分を持ってきて、それを石の代わりに入れてくれだとか。
───津田さんは、なにか刀関係の研師をなさっていたんですか。
津田 ええ、研師です。研磨する。
───戦前からそういう仕事を。
津田 ええ、昔から。
───じゃあそういうことには、かなり慣れていらしたわけですね。
津田 まあ、結構手先が器用だったからね。
───皆さんが口を揃えて津田さんは上手だったとおっしゃるもので。
津田 いやあ、それを持って行って売ってくる連中がよけいに稼いでくるわけですよ。
───お互い様だったんですね。
津田 ええ、作る人間よりも売ってくる人間がよけいにタバコを持ってくるんです。
───食べ物などには困らなかったそうですね。沖縄の人との接触はありましたか。
津田 なかったですね。それと接触しないように言われていました。
───では、周りの状況はほとんどわからないわけですね。
津田 ええ、周りは全然、野原で家一軒もありませんからね。収容所から外に出るわけにはいかないし、作業に行くとき外に出るだけでね。たまに沖縄の人をトラックから見ると、手を振るくらいでした。
───朝作業に出て夕方戻ってくると、門を閉められてしまって外出はできないわけですよね。
津田 そこはもう絶対外へは出られないですからね。
───そして何か悪いことをしたら、門のところにドラム缶があってその上に立たされたとか…。
津田 ああ、スタンドアップさせられた。逃亡したりね、やっぱり逃亡する者もいたんですよね。そうかと思うと沖縄の女の人が赤ん坊を抱いて、男の人を捜しに来ていたりね。
───この間もそんな話がでていました。沖縄の女性と子供ができて、それで面会にくる人がいたという話をされていました。それでこちらに残られた方もいたそうですね。
津田 こっちの人と一緒になって、こっちで暮らしている人もいるはずですよ。
───津田さんは二十一年の十月頃お帰りになったわけですよね。
津田 ええ。
───宇田川さんや谷垣さんは十一月とか十二月だったとおっしゃってました。
津田 はい、そうです。
───じゃあだいたい二十一年の末には、ほとんど皆さんこちらから復員しているってことですね。
津田 ええ、一番最後は十二月の末頃に引き揚げたらしいです。
───今日はどうもありがとうございました。
(一九九二年三月二十五日採録)
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