第四章 米軍上陸後の収容所
体験記


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楚辺収容所で「特中」生活

話者  片山※※、岡※※
聞き手 小橋川清弘
片山 楚辺収容所で「特中」というてね、何で特中というか、逃亡者ばかり集めとるん。逃亡したり、米軍と喧嘩したり。札付きの人間ばかり集めたのんが特別中隊、それで「特中」という。柵の中にまた柵があるんやからね。もう一つ金網があるんだよ、「特中」は。
───その「特中」は、何人くらいおられたんですか。
片山 二〇〇人くらいおったんちゃうか。
岡  収容所から脱走したら全部集めてる。よその収容所にいても脱走したら全部集められる。
片山 二〇〇人もおらんやろ、一二〇人くらいか。三つか四つやったから一〇〇人は下らんな。逃亡するでしょう、ほんで帰ってきたらね「おい、逃げたらおもろいぞ」と言うてみんなに宣伝するやろ、そしたらね、その気の無い人間でも「ほな、いっぺん逃げたろか」とこういうふうな気になる。逃げるやつは皆ついてくるわけや。ほんで逃げ(逃亡者)が増えてくる。一回逃げても五回逃げても、一回は逃げたということで皆「特中」ほうるんです。もう特別扱い、「特中」。
───なるほどね、特別扱いで。屋嘉からも逃げるわ、金武からも逃げるわ、いろんなところで逃げる。
片山 ああ、嘉手納からも逃げたよ。
岡  嘉手納の収容所におる時には、一番厳しい懲罰も受けましたね。立ってる四隅に杭を打つ、それに鉄条綱を巻きつけて、そこに一週間。
───立ったまま。
片山 座れない。
岡  座ったら、それこそやられる。
片山 こんなカップに水一杯、一日。
───人間が立って、そこに四隅に杭を打たれて、これを鉄条綱で巻かれたらそれは眠れませんね。
片山 それ一週間。動きがとれへんことね。
岡  おそらく僕だけですわ、ああいう罰は。
片山 僕も中に入った。やられてやな、小さい柵に一週間くらい入っとった。
岡  僕がそれをやられたのはね、アメリカ軍の使役に行ってね、穴掘りに行かされたんです。将校はその時の監視やったね。石のとこをこう掘れと言うんです。「ほんなもん掘れるか」言うて将校を叩いたんです。そんで一週間は小便も出なかったね。カップ一杯の水をくれるでしょう、ほいでクラッカー四枚、一日それだけ。
片山 僕らはクラッカーもくれなかったわ。
岡  そいで小便も出ないですよね、炎天ですから。
片山 六月二十三日頃捕まった兵隊は、屋嘉の収容所へ行くんでしょう、何処で捕まっても。それで僕たちは屋嘉の収容所で営倉やね、日本語でいうと重営倉。そこには兵隊は一人もおらんかったから、自分らだけやからね。それとMP、一対一の戦いやね。
───そういうのが楚辺の収容所の中にあったわけですよね。
片山 そう、そう。まあ「特中」やから、普通の兵隊が何か小さなことでもやったら大変だが、「特中」はまだ大目に見てくれよった。そのかわり何か事件が起きたら「特中」は一番先にやり玉にあがったんよ、「貴様がやったんちゃうか」とかね。
───片山さんが幾つかやった脱走のエピソードをお話し下さい。
片山 一番最初はね、とにかく北へ逃げるということ。ところが地理がわからない。摩文仁から那覇の方へ向いて逃げるか、それとも東海岸を逃げるか。陸を逃げても海岸を逃げても、僕たちは全然地形がわからない。それよりかいっそのことここで捕まって、どこへ送られるか知らんけど、そこへ行って逃げたほうが近いことないかと、北部に逃げるのに。
───要するに、捕まってから逃げた方が早いんじゃないかと。
片山 摩文仁で捕まって、結果は屋嘉に連れて行かれた。北部に逃げるのも、屋嘉からやったら歩いても知れてはる、地理はわからんけど。その捕虜にも抵抗があったんよね、はっきり言ってね。具志頭の掘っ建て小屋にいたとき、とにかく捕まったらいかんからやってこい(手りゅう弾投げて殺してこい)と。捕虜になったらいかんと、そのために殺してきておるでしょう(編集者注 上官の命令で負傷した友軍兵たちを殺した)。そのやってきた人間が現在捕虜になって生きとると。その当時摩文仁へ行ってやね、よもやこんな捕虜になってこんなことになるとは夢にも思わんかったからね。これは「いつかは命はない」と。
───いずれどこかで「死ぬやろう」という思いがあったから、手りゅう弾も投げられたわけですよね。
片山 僕らが摩文仁に行ったかて、日本が負けるや思わんかったんよ。まだ援軍が来るもんやと思って「何とかなる」と。うちらの仲間が捕まって屋嘉の収容所へ行ったと、ほんで誰か知った人間が来ないか思うて、毎日トラックが来るたんびに門の所へ見に行く。挙げ句の果てには隊長が帰って来とった。
───それは四四旅団の隊長ですか。
片山 そう、自分たちの隊長。そいで「あっ」と言うて、ほいで向こうも「あっ」言うてね。
岡  隊長の方がつらいやろね。
片山 いや、その時はつらいとか思うとらんかった、その心境は聞かんけどやね。どこで最後に会ったかというたらね、「負傷して病院へ行って、今、病院から帰ってきたとこや」こう言うんですわ。隊長にしたかって、僕らが生きとるやということも夢にも思わんかったやろね。そんなんで、ほんまに死んだ人が気の毒になってしまって。
───北へ逃げたという話を、一つ二つ。
片山 初めは本土へ帰りたかったんですよ。ほんで米軍の船をかっぱらって逃げる段取りをつくったんだけど。
岡  すごいね。
片山 それがね、僕ら船に全然関係ない部隊だったでしょう。ほんで浜を見たらね、B29の補助タンク、あれでうまいことボートを作ったんね。それに乗って逃げる人もおったんやけど、悲しいかな陸軍で船のことは全然知らん。死んでももともとや、何にも不安なんかないんです。「どこで死んでも一緒や」と、家に帰ったら仏さんが待ってくれておるはずやと。とにかく逃げるんやったらどこで逃げたらええか。
一九九九年六月二十三日付 琉球新報
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───とりあえず、船を取って逃げようと。
片山 とにかく本土に帰ることしか初めはなかった。それを実行する前に嘉手納の飛行場で捕まってもうた、嘉手納の飛行場の中で、アメリカ軍に。というのはどっちに逃げてもええもんやったら、こっちの方向ということはわかっとんやけど、ワケわからん所に行きよった。嘉手納の飛行場の真ん中に迷い込んだんよ。ほんでも昔の壕があるから、壕に入りもって逃げよったんやけど、そこで第一回目捕まって「こらー、とても駄目やなあ」と、「誰か連れがいなけりゃ、とても一人では実行できらん」と。でね、誰か仲間おらんかと思って探したの。そしたらね、佐用郡三日月(兵庫県)という所があるんだけれども、そこの出身者が偶然にも暁部隊。ほんで「おい、お前暁部隊やったら船に経験あるやろ、おい逃げようや」、「クニどこや」と聞いたら「兵庫県」と言うから、「ほんなら俺も兵庫県、ちょうどええやないかい」、けんど悲しいがな、暁部隊でも船の経験がない。暁部隊の工兵隊、穴掘り、こりゃあかんと。「今度は、海軍の人間捜そうや」言うて、ほんでまた収容所に帰って、「おい、誰か海軍の人間おらんか」言うて。
───収容所帰ってというのは、捕まってまた戻されたわけでしょう。
片山 そう、そう。ほんでね、「誰かおらんか」と捜したところが海軍が一人おった。「クニどこや」言うたらわしと同じ兵庫県の淡路島、まあ偶然にも兵庫県が三人おったんですよ。ところが海軍と言いながら船の経験が全然ない。なんでかと言うたら小禄飛行場の整備兵。ほんで「それやったら本土脱出はあきらめるか」と、これからはもう沖縄本島でやると。
具志頭の壕の前に立つ片山省さん(渡辺※※氏撮影)
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───さっき話を聞いていたら、アメリカ兵は脱走をしても殺さないから、何回もやったとおっしゃっていましたよね。
片山 日本だったら捕まったら銃殺ですよ、野戦で逃亡をしたら。ほんで「逃げて捕まったらどないなるんかな」深刻に考えた。けどね、実際にそんなこと言おったかておっつかんから、とにかく実行せんことにはならんと、やった。ところがアメリカは捕まっても殺さん。
岡  そりゃもう、一回わかったら後はなんぼでもできますね。
片山 もう殺さんとわかったらこっちのもん。まあ、精神的にはいじめられるけれど。
岡  「特中」の人はだいたい何回もやっているわけでしょう。
片山 まあ、やっているわね。昼食のときに監視も食事に行くでしょう、その間に逃げる。そしたら夕方まで気付かへん。言い訳に撃っているのか、ほんまに捜して撃ってるのか知らんけど、それさえ逃れたらもう絶対に命は大丈夫。逃げるでしょう、疲れたら、「収容所に帰ろか」ってね。ほんで「山から初めて下りてきました」言うて、また申し出んのや。ほんでナベ(渡辺※※)さん、怖かってんなあの人。いちいちやね、写真と指紋を全部とられおった。二回目、三回目、四回目ぐらいかな、「貴様、なに言うとんねん」と、「こないだも捕まって来ているやないかい」と。それにはカブト脱ぎました。
岡  何回も逃亡しているからやね。僕は逃亡は一回だけやからね。
片山 僕らでも実際に逃げたんは四回ですよ。正味逃げたのは四回、あとの二、三回は逃亡とは違うねん、外出やねん。
岡  逃亡のベテランなっとるから。
片山 米軍にしたら逃亡になるけど、わてらにしたら外出や。四回目、もう食べるもの減ってたし、ほんな帰ろか言うて帰って来るのね、とことん逃げとるし。
岡  羽地で、現在の警察CP、昔はSMP、それが結局我々を見つけてね。僕ら見つかっても、沖縄の人間やからめったに言わへんやろうて。ところがすぐに連絡したわけですよ、ほんですぐ来よって。
片山 僕らが出くわした時でもそうですよ。
岡  そういう逃亡兵を捕まえたらお金が貰える。
片山 お米の景品がついとった。
───逃亡兵を捕まえる、そのSMPというのはアメリカ人ですか。
岡  いや、沖縄人。ほんでね、わしら逃げてても見つかるでしょう。沖縄人やからめったにほんなことはないやろうと思うてますわね。
片山 僕だって大里村でやね、三人逃げて、とにかく山の中でね、CPに出会ったんです。CPは必ず二人ほどで行動しよったで。沖縄の警官だったんです。そんでね、僕ら頼んだんですよ。米軍は見ても見分けつかんでしょう、けんど現地人が見たらすぐにわかる。それで「おらな、実は兵隊や」「逃げて来たんや」と、「同じ日本人やったら見逃してくれ」言うて。おっと、そうはいかん、捕まえたらなんぼ懸賞がついてるから、こんなもん逃がしてくれへん。ほんでな、向こうは拳銃持っていた。あの当時は米軍の自動小銃や、「おい、お前拳銃出せや」言うて、「兵隊で捕まって帰ったら、あんたらも知っとるように、銃殺になるかなんになるかわからん。命は覚悟できとんのや。ここで死ぬのもどこで死ぬのも一緒やから、おい、今から撃ち合いしようや。おい、拳銃だせや」ってやったんよ。んな、拳銃も剣も持ってへんがな。「本職の兵隊が撃っても当たらん弾はね、あんたらみたいな馬のケツを叩いてやね、百姓しよった人がやね、なんでそんなもん撃ってあたんねん。おら、ここで死んでもともとや、やらんかったらとんで逃げた」そうしたら、もうようせん。
───逃げるといっても、どんなふうにして逃げるんですか。門か何かあってそこを勝手に出るんですか、それとも乗り越えて。
片山 鉄条網を張ってある所もあるし、最後に出た時に逃げる。
岡  使役出るでしょう、使役出てそれから逃げるんよ。
───監視の目を盗んで逃げるんですね。
岡  監視の目を盗んで。んで、糧秣庫の小さな所に入り込んだらそのままですよ。
片山 捕虜はPWという大きな字をね、正面に書かれてあんねん、必ずみんな着とる。逃げた時それを脱いでまう。
───楚辺の収容所の中にも、特別中隊だけのフェンスの生活があったというのは 初めて知りました。
岡  ほかの兵隊でもね、同じ収容所でも特別中隊と言ったら怖がって寄って来ない。
片山 命知らずのヤタケタ(編集者注 「ヤタケタ」は大阪の方言で「荒っぽい」とか「粗雑」とかの意味)ばっかりおると。何するかわからんと。もう「特中」は一番怖がっとるん。その証拠にね、作業から帰ってくるでしょう、ほんだら営門でね、身体検査があるんですわ。ほかの人間は、ちょっとおかしいなと思うたらみんな没収されるんです。ここは特別中隊、タバコで両足膨れとんのに一個も取らない。そこが特別中隊、やっぱり「特中」に一目おいておったんやな、MPも。
岡  作業は各収容所から来てますわね。そんな中で「特中」の連中が「おいお前、今日俺と代わってくれ」と、「お前今日、嘉手納行け、その代わり俺はそっち行く」入れ替わりですよ。
───そういうことは実際にあったんですか。
片山 そりゃもう、始終ありますわ。僕らでもやね「待遇の悪い作業所あるか」言うて、そして待遇が悪かったらな、そこの監視をいためるために、「そこ行って逃げたるから、悪いとこあったら教えてくれ」言いよったくらい。仮に監視はああいうふうに言うでしょう、そしたらそこにわざわざ三、四人入って、それでわざと捕まるねん。一人兵隊を逃がしたら満期が延びるいうてな。ほんでな、「おもろいやないか、なんぼでも逃げたるやん」わざわざ、交替して行きよった。
岡  そういえば日本の兵隊は捕虜になるまではガリガリで、捕虜になってその「特中」に入ってからは肥ってね。
片山 もう、入営する以上に肥っていましたよ、皆。ところがね、かなしいかな横文字が読めんでしょう、横文字読めたらどんだけもっとええ目しとったかわからん。ほんで結局第六感やね、糧秣倉庫行くでしょう、ほんで「ああー、今日はタバコほしいな」だいたい格好でわかる。缶詰でも、これは何の缶詰ってすぐわかる。初めはねそれがわからん。それで、何でもナイフで箱を破って、ほいで中見るでしょう、いっぺんな、こんな大きな缶、開けてみるとキャベツの酢の物。鼻プーンとついてね、そんなもん食べられへんやろ。それをMPに見つかって、一口も食べてない。ほんならね、一つ箱開けるでしょう、その一箱は全部パーですわ、捨ててしまうでしょう。今度はそれを沖縄の人にトラックで、ゴミに持っていくでしょう、配給ですわ。
───それを皆喜んで食べていたわけで、結構どこかで連鎖あって。
片山 沖縄の人とは、打ち合わせしてあった。糧秣倉庫行くでしょう、ゴミを捨てに行くやね、ゴミと一緒に缶詰もほおりこむんよ。ほんで向こうに持って行って、だぁーっと放ってしまうん。
───沖縄では、そういう風にして得た食料などは「戦果」と言って、そうやって 沖縄の人達は生きてきたんですね。
片山 やむを得んところもあるんよ。先も言うたけんどね、沖縄のCPの警察でも、逃亡兵一人捕まえたら懸賞つきや。そりゃやっぱりね、生活は苦しかったよ。一人の逃亡兵が家に入るでしょう、その家で見つかってやね、密告されたらその家は配給が停止されてしまうねん。「兵隊をかくまった」いうだけで。僕らは、盗んでってどんどん糧秣庫から運ぶ、この停止の間。その停止になっても、やっぱり沖縄人はわてらを大事にしてくれた。「兵隊さん、兵隊さん」とかこってくれた、それはありがたかったよ。ところがね、沖縄の若い衆、これは兵隊を見たら目の敵。なんでかと言うたら、そこの女の子荒らしに来よったやろ。まあ、事実それが目的やから。ほんでね、仲はようなったけんど、その反面また包むとこあるんですよ。
───もう一つ、自分達がアメリカ軍の足を引っ張る分、何か日本のためになるかなみたいな。そういうことで米軍の兵器を壊したりする、それがアメリカ軍の足を引っ張るということで、日本全体に対する貢献ができるかなみたいな思い。
岡  僕は、それしなかったよ。
片山 いや、僕はそれやったんや。
岡  B29の搭乗席だけの清掃をさせられたんです、監視付きで、実弾構えられて。うっかり後ろを開けようとしたら、怒られてね。中までは入れませんでした。
───でも、片山さんは配線切ってしまったんですよね。
岡  配線、どの配線を。
片山 何の配線やかわかりませんよ。赤や黄やら緑やら、いろんな配線が固まっていますね。仲間の連中が糧秣下ろしてるでしょう後ろで、監視はそっち見てるでしょ、その間にペンチでやね。線切っただけじゃだめなんです、またつないでいって、日本人の考えやったら、また線こうつないで、そこを漏電せんようにしてテープで巻いてちゃんとやる。線をある程度の長さを切ってそのまま放ってまう。
岡  この飛行機が東京爆撃に行くわけね。
片山 飛行機の先にね、爆弾のシールを貼ってあるわけ。船沈めたら、船のシール貼ったあるん、「戦果」貼っとるわけや。「このB29、ごっつ沈めとるな」と、「こいつやったれ」と、ほんで線切ってもうてな。
岡  一人で。
片山 うん、連れおったらできしまへん。自分としたらやな、もうおそらくアウトやったですよ。銃殺刑ぐらい思うとるやろう。けんど、今から怖いや言いよってんやな、そんなこと言うとられへん。
岡  「お前がやったんかい」言うたら、「はい」と認めた。
片山 そう。事実やって見つかっとんのやからな。仮に飛行機が沖縄に一〇〇機おるとするでしょう。一〇〇機の飛行機が一〇個ずつの爆弾を落としたら何発落ちます。一〇〇〇発落ちるでしょう。それ一機減ったら何発減ります。日本に向かう爆撃が減るから、とにかく日本本土へ行かんようにしたれ、理由はただそれだけ。
 こういうことも言うたことないんやけどね、「特中」の人間はどんだけ器用なのかということをね。器用ってね、何が器用か言うと、盗み、米軍から取ってくる。米兵の腕時計ですよ、これ、寝とんのそっと外してくるんですよ。米兵は全然知らんですから、そんだけ器用なんや。
ボーロー飛行場でB-29の爆弾倉から
軍用食の積み荷を降ろす日本兵捕虜
1945年10月14日(沖縄県公文書館提供)
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───読谷村にあった楚辺収容所の話に限って今晩は話を聞かせて頂いたけれども、脱走何回もした、こんな話はほかでは聞けませんね。
岡  ようけ沖縄に来はるけどね、おそらく「特中会」そういうのおった人は少ないですよ。我々のグループだけしか来ないと思いますよ。
片山 戦争中はやね、軍務に服しておるよ、そりゃもう服従でやね、真面目に働いたよ。けんど捕まってからというのは、軽く人間一八〇度転回するからね。
───自分が一生懸命考えて生きたことが、今話すと「どうかな」と思うけれども、あの時はああいう生き方しか出来なかったということなんですね。天皇陛下の命令だから、手りゅう弾を投げざるを得なかったわけでしょう。今日昼間、それずっと強調されていましたね。だからそれは仕方ないんですよ。それを責めるとか何とかというのは、我々に出来る話でもなんでも無いんですよ。真実を真実として伝えるということだけ、そういうことで今日はお話を聞きました。
片山 そりゃ悪いことすんのでも、ただ悪いことすんねん。日本の国のため、自分はそない思うてやった。ほんやけど僕は二回命拾いしとんのや。最初は南風原の陸軍病院でね、毒を飲まされそうになって危なかったということね。あれ、一つ間違ごうとったら飲まされてる。もう一つはやね、手りゅう弾の安全ピンを抜いて、ここまで行ったんです。「もっと生ける、今ここで死ぬな」と、手りゅう弾の安全ピンをまた元に戻したんです。二回死にそこねて、おかしなもんでな、ぜったい死にたくないんよ。こりゃもう、体が動けなくなったら別かもしれんが、自分で動ける間はね、自決するやなんて自決の「自」も思いつかんかった。途中でやられるのはこりゃもうしょうがないけど、その命は別にね、僕は惜しいと、いつ死んでもかまわんと言う気やから。その代わり「自決せー」、こいつだけは夢にも思わなかったな。生きれるところまでは生きたろうと。途中で自決というかこっから先も思わんかった。
───実際、どこも怪我ないですか。
片山 そりゃ怪我します。
───致命傷になるものが無かった。
片山 そんなんはかすり傷。もう、重症患者から見たらかすり傷。ましてやね、言うては悪いけんど、昔の銃砲の甲種合格のやね、関東軍の「虎のフグ」と言われた工兵やから、そんなちょっとやそっとでは参る言わんです。
(一九九九年六月二十二日夜 採録)
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