第四章 米軍上陸後の収容所
体験記


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楚辺収容所でのこと

話者 内畑※※(和歌山県在住)
聞き手 上原恵子
内畑 楚辺の公民館で聞いたんですけど、楚辺収容所のあった場所は波平ということですよね。
───地番では高志保というところになるんですけど、波平との境目に近いところです。
内畑 これは朝日新聞に載った記事(一九九五年八月十五日付朝日新聞、甲子園関係記事「捕虜収容所でラジオ聞く 四九年前、復活大会に涙」)ですが、ここに楚辺って書いてあるんですよ。
───このことでこちらに朝日新聞社から問い合わせがありました。捕虜収容所で野球大会があったということで。
内畑 私も当時野球をやっていました。私は収容所内にあったテニスコート、入浴場の入口、サプライ、復員船などの写真を全部持ってますよ。
───サプライというのは。
内畑 物を兵隊に配給するところ、取りにきたら渡すところ。例えば安全カミソリの刃とか石鹸とかの日用品、軍用品なんかをね。それからボイラーもあるよ、将校の湯を沸かすボイラー、その写真もあるよ。そこにいたボイラーマンの服部さんも今、名古屋で元気にされてますよ。そこに将校たちの個人用の宿舎(一戸建て平屋)が並んでいたんです、マック大尉とかのね。私は彼らの世話をしていたんです。キャンプワーカーで鑑札を持っていましたから出入り自由でね。土曜の昼から、日曜日も休みでね、それで野球をやっていました。野球のチームメイトたちと撮った写真もあります。牧港へも試合をしに行きましたよ。
───リーグ戦の結果が「沖縄新聞」に載っています。
内畑 野球の選手では近藤さんとか工藤さん、松本さんなどがいました。
───「沖縄新聞」に楚辺収容所でサボタージュがあったと書かれています。
内畑 一回あって、みんな立たされたんです。幕舎の中全部まくりあげられて、中から充電用のバッテリーがでてきたり、ピストルがでてきたりしました。
───それは日本軍のものですか。
内畑 いえ、アメリカの。作業に出て行ったときにいろいろもらってきたり、盗ってきたりしてね。そして自分の寝ている部屋に穴を掘って、そこへみんな入れてあったんです。それでサボタージュの後全部ひっくり返して調べられた。たしかピストルもあったと思うよ。
 私は収容所にいた頃は「吉村」と名乗っていました。姓を変えていましたから、「吉村」といったらわかるでしょうが「内畑」といっても知らないと思いますよ。
───偽名を使われていたんですか。
内畑 ええ、みんな偽名を使っていました。復員するとき初めて本名を名乗ったぐらいだから。野球チームの写真も演芸場の写真もあります。それから入浴場の入口にあった「ゲイシャ(芸者)ガール」の絵の写真もありますよ、この絵は有名だったんだ。
「SOBE GIANTS」の寄せ書き(濱田信二氏提供)
画像
───パラシュートの布に絵を描く人がいたり、指輪をつくる人がいたと聞きました。それを売るのが上手な人もいたと。
内畑 うん、いました。今も持っています。それから将校のブラシでつくったり。私はオフィサーオーダリー(将校の当番兵)といって、将校四人の世話をしていたんです。マック大尉という収容所長、それからキャンター、アダムス、マッコイの四人の世話をしていました。彼らの写真もあります、兵隊が私にくれたんです。親切なアメリカ兵がいて、アメリカ兵の写真ももらいました。その兵隊はこの海岸で泳がせてくれたこともあるんです。「どれくらい嬉しいか」と聞いていましたよ。私らはもう「満州」にいた頃から泳いでいなかったからね。「満州」から初めはサイパンへ行く予定が、鹿児島から急きょ沖縄へ変わってね。私の所属した部隊は野戦重砲兵第一連隊、本隊は千葉県でした。
───その頃将校のお世話をしている方は少ないわけですよね。
内畑 北海道に一人おられました。谷口さん、去年亡くなりましたが彼と二人でやっていました。通訳は川原さん、この人とも戦後会わないなあ。
───将校のお世話をするということでは、他の人たちよりかなり優遇されているわけですよね。
内畑 まあ、仕事は楽ではあったなあ。
───他の人達はトラックに乗せられて。
内畑 皆、ほうぼうへ作業に行った。職場はみな決まっていたからね。
───内畑さんは具体的にはどういう仕事をされていたんですか。
内畑 オフィサーオーダリーで、将校の毛布を一週間に一回干すとか、枕カバーを毎日換えるとか、敷布を二日ごとに換えるとか、靴を磨いたり、ジープを拭いたり、入浴のシャワーの準備をするとか、身の回りの世話やな。
───一緒にどこかへ行くこともあったんですか。
内畑 摩文仁へピストルを捜しに行ったよ。将校と、日本の兵隊のピストルを捜そうかということで捜しに行った。摩文仁から具志頭の海岸線沿いに、そこにあるやろと思って行った。無かったけどね。
───楚辺の収容所にいらしたのはいつですか。
内畑 昭和二十年の九月二十六日、それ以前は無かったから、第一陣ですよ。楚辺に来る前は屋嘉にいました。
───では、新しく収容所ができて、その頃はこちらの地元の人たちはいらっしゃいませんでしたよね、この周りには。
内畑 うーん、どこか遠いとこから芋を掘りに来ていたなあ。
───ああ、それをご覧になっているんですか。
内畑 うん、知ってるよ。そして、二十一年の十月に入ってからライカムの収容所へ移った。そこでまた各地から集められて、泡瀬港から名古屋へ帰りました。楚辺には一年ほどいました。
───それ以前にこちらから帰った方はおられるんですか。
内畑 いえ、私は引き揚げの最初です。
───楚辺の収容所にいた頃に「柵の鳥」という歌があったとか。
内畑 「柵の鳥」は知っています。「戦の庭に友の…」「生きてるとそっと知らせよ旅つばめ」というのもありました。「帰り来る日光班を待ちわびつ五月の朝は早明けんとす」とかね。「沖縄娘」という歌もあったしね。
───どういう歌ですか。
内畑 「黒潮流るる琉球ならよ 島の白砂そっと踏み 沖縄娘の微笑みさえも 波に揺られて流れ行く 誰が泣かせた沖縄娘 紅のたすきに火の裳裾(もすそ) 椰子のまにまに南の星が なぜにしみるか思い出よ 那覇の港はおぼろ月 みやこ通いの夜船のドラが 誰を待つやら今日もまた」そんな歌やったかなあ。これは収容所で流行ったか、アメリカ軍が上陸する前かちょっと記憶にないけど、「沖縄娘」という歌は有名でした。
───そうですか。私も「楚辺の会」の座談会を開いて、いろいろな話をお聞きしたんですが
内畑 知らなかったなあ、もう沖縄に来るのは三一回目なのに。
───そうですか。では、「楚辺の会」の方とのお付き合いはないんですか。
内畑 全然。私、収容所では吉村と名乗っていましたから。復員して初めて内畑と名乗ったんですから。吉村カズヨといいました。
───「楚辺の会」の名簿なんかもありまして、この楚辺の会の人たちは、収容所跡地を訪ねたりされてるんです。
内畑 知らなかった、四三年ぶりやなあ。そしたら本土からも来られてるんですね。
───ええ。「楚辺の会」は毎年一回くらい集まって、全国を巡回したりしているようなんですよ。北海道の方が中心になって、この谷垣さんという方が戦後二〇年ほどたってから、楚辺収容所にいた人を捜してこの会を作られました。
内畑 この名簿はみんな本名でかかれているから、当時偽名だったら全然わからないからね。偽名の人が多かったからね。野球をしていた吉村さんといったらみんなにわかってもらえると思いますけどね。
───戦後、初めて沖縄にいらしたのはいつですか。
内畑 昭和三十五年。その時撮した膨大な記録写真がありますよ。摩文仁とか、戦闘で真っ白になった山、その頃摩文仁もまだ白かった、原野をずっと上の方から撮ったりね。沖縄に来たときはだいたい三〇〇枚くらい写真を撮りますからね。それを年度別にとってあります。
(一九九五年十一月二十一日採録)
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