第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動
大湾武


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疎開・避難そして捕虜

 県民が戦争を実感したのは、一九四四年十月十日の空襲からではないだろうか。それを境に、より身近な場所に防空壕を掘り、またはガマ等への避難を自衛策としてとった。
 翌年の二月に入ると、各市町村長や校長を集めて、島尻・中頭地区の人々の疎開(避難)対策が指示されている。読谷山村は、国頭村への避難指定を受け、国頭村の奥間に仮役場をおいて受け入れ対策に追われた。
 村民は疎開指定地の国頭村への避難(移動)指示に対してもしぶる傾向があり、かろうじてわずかに婦女子を中心とした避難から始められた。しかし、三月二十三日の空襲や二十五日からの艦砲射撃を目の当たりにして、一挙に大量の避難民が北部へと向かうことになった。それでも国頭への避難をさけて、防空壕やガマを頼って村内に残る村民もいた。中には、男手がない世帯や老人世帯もあり、また一家で運命をともにしたいと残ることを選択したところもあった。村内のガマ等に残留した村民は、沖縄本島在住村民のうち約二五%であった。
 避難は始まったものの、激しい爆撃や艦砲射撃のため、それぞれの判断で途中に留まった世帯もあった。多幸山や恩納村そして石川(嘉手苅等)などに点々と避難が行われた。
 こうした状態の中、一九四五年(昭和二十)四月一日に沖縄本島中部の読谷山・北谷の西海岸から米軍は上陸した。
 村内残留組は米軍上陸後まもなく収容されたのが多い。楚辺・都屋・喜名・瀬名波・渡慶次・長浜・宇座・高志保・波平等の焼け残った民家や字事務所、ガマなどに一時的に収容された。しかし、チビチリガマ等のように「集団自決」という惨事が起こった場所もあり、一方ではシムクガマのように大方が投降したガマもあった。
 村内で収容された人々は、楚辺・都屋・喜名・高志保・長浜にまとめられた。後に石川・金武に移されたが、米軍にとって民間人の収容は人道的意味もあったであろうが、また軍事作戦上邪魔にならないように避難民を戦場から遠のけて隔離したとも思われる。
 村外へ避難した多くの村民は、国頭・羽地・金武・久志の各村の山中を恐怖と飢餓状態で逃げまどっていたが、米軍の進攻にともなって順次収容されていった。村民の最終的な収容先は、北部では辺土名・瀬嵩・田井等・久志・宜野座・金武等で、中部方面では前原・胡差・石川などであった。
 石川収容所では、浦添あたりで日米両軍の死闘が続く一九四五年四月から五月初旬にかけて、戦後初めての学校教育として石川学園が本村出身の山内※※氏を中心にスタートしていることが特筆できる(現在の城前小学校開校日は、記念碑では五月七日と記されている)。
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