第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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占領政策と帰村の外的条件

 沖縄戦は、一九四五年六月二十三日の第三十二軍司令官、参謀長の自刃で組織的戦闘の終焉を迎えた。そして、同年九月七日、嘉手納(中)飛行場にて降伏調印が行われ、五か月間に及んだ戦闘状態が正式に終わった。
 無血上陸した米軍は、いち早く同年四月五日に、読谷山村字比謝に「アメリカ海軍軍政府」を置いて、占領政策「ニミッツ布告」 を発表している。即ち「南西諸島及びその近海並びにその居住民に関する総ての政治及び管轄権並びに最高行政責任は占領軍司令長官兼軍政府総長米国海軍元帥たる本官の権能に帰属し本官の監督下に部下指揮官に依り行使させる」としたのである。それは沖縄が日本の行政権(統治)から切り離された瞬間でもあり、また沖縄の軍事占領政策の始まりともなった。
 その第四項には、「本官の職権行使上その必要を生ぜざる限り居住民の風習並びに財産権を尊重し、現行法規の施行を持続す」として、財産権の尊重等を謳い、第七項では、「占領軍の命令に服従し平穏を保つ限り居住民に対し戦時必要以上の干渉を加えざるものとす」として服従するかぎりにおいて干渉しないことが明記されている。
 一九四五年七月二十六日には、米軍政府によりウルマ新報社(一九四六年五月二十六日から『うるま新報』に改名)が創設され、八月二十九日には琉球政府の前身である沖縄諮詢会も設置されて、石川を中心に沖縄の行政が動き始めた。その時の軍政府方針の声明に「沖縄の人口を、前原・漢那・古知屋・瀬嵩・辺土名・石川・宜野座・久志・喜如嘉の九地区に移転すること」(『沖縄市町村三十年史 上巻 通史編』)とし、各区に仮住居区を設定した。
 さらに九月十二日には「地方行政緊急処置要綱」が発表され、新しい一六の市が誕生し、地方行政の第一歩が始まった。それを受けて十月二十三日の第一回市長会議にて、米軍から「移動計画案指示要綱」が発表された。
 一九四五年十一月七日付けの『ウルマ新報』 では米国海軍軍政本部の「移動計画案・指示要綱」の見出しで、次の市域を対象に帰村の基本政策が発表されている。市域は、知念市・糸満市・前原市・古謝市(読谷山・北谷・越来・中城・宜野湾・浦添・西原の七村で構成)・石川市・宜野座市・久志市・田井等市・辺土名市となっている。
 移動目的は、要約すると「従前の居住地区に移し、従前の屋敷と土地に帰し、出来るだけ永久的な家屋に住まわせ、耕作適格地にて耕作させること」となっている。その目的を達成するために、「家族及び各個人移動は、この目的達成の次に行うものとする」として、勝手な移住ができないようにも規制されている。
 さらに、住居や耕地割当のために「住民委員会を設けること」とし、民主政治の浸透も意図されているようだ。住居や耕地割当には「利用しうる地域、全部に住民を分散させること」とあり、「協同作業(公益や社会事業)」に住民を使用することをすすめるほど徹底している。
 そして、「米軍移動後のキャンプ及び使用に可能の家屋のある村は受け入れキャンプとして使ってよい。不足資材用に所有資材を提供し輸送することも可能」(要約)という反面、「隣接地区間は徒歩移動も地区隊長相互の申し合わせに依り行うことができる」という厳しい面もみえる。
 占領されて一年後の一九四六年四月には、市町村長も任命された。胡差地区総務には仲地庸之氏が任命された。以下、胡差地区(記事ではコザ)内の各村の村長は次の方々が任命された。読谷山は知花英康氏、北谷は新垣實氏、中城は比嘉優之氏、宜野湾は久保田盛春氏、浦添は安和良盛氏、西原は玉那覇良信氏、越来は島袋賢榮氏となっている。
 また、知事には志喜屋孝信氏・副知事には又吉康和氏が任命され、四月二十四日に「沖縄民政府発足」と報道され、時のワッキンス少佐は式典で「1.沖縄に政府機構の復興した日、2.米軍の今日までの計画及び組織を発表する日、3.本機構が出来るまでには沖縄のあらゆる人々の知識と援助を得た」と述べ、軍政と民政の両立に自信を覗かせている。
 民政府創設一か月後の五月二十九日付けの『うるま新報』 には、「沖縄住民に告ぐ」の見出しで、軍政府副長官シー・アイ・ムレー大佐は、復興のようすを激励している。曰く「戦前の沖縄の文化は{松上の鶴の如し}であったが、戦後は{竹葉に結び一滴の露}に似たり。現在は、沖縄住民は上下を問わず、強きも弱きも学識有るものも無いものも、夫婦兄弟姉妹相携えて、郷土復興の大業の迅速なる完成を達成しつつある、今日の沖縄文化は松上の鶴と化すること必定である」(内容要約)と述べている。さらに、「『忠実なる支援と誠意ある協力』こそは現沖縄住民の指導原理を示す言葉なるべし」と述べ、次に「軍政府の今後の倦まざる指導と沖縄知事及び民政府の適切なる指導統率の下沖縄住民は輝かしき幸多き将来を目指し歩一歩着実なる歩みを以て現在の苦難克服に邁進せんことを望む」と結んでいる。
 さて、具体的な移動は、一九四五年十月二十九日に知念地区・中城村安谷屋に帰村許可が出たのが始まりである。県全体的には、一九四六年四月にはおおかたの市町村は一段落した状況にまでなっていた。
 ところが読谷山村では、村域のほとんどが基地に接収されていたため、一〇か月遅れた一九四六年八月に移動許可が下りた。比較的被害の少なかった長浜・高志保・波平の一部が移動許可地区に指定された。ちなみに、北谷村(嘉手納・屋良)はさらに遅れて、一九四七年二月頃になって移動許可が下りた。それらの地域も米軍飛行場用地としてそのほとんどを接収されていたためであった。
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