第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


<-前頁 次頁->

読谷山村への帰村

 読谷村史編集室には、一九四六年四月十五日から一九五二年八月二十二日までの行政文書として「庶務ニ関スル書類」、「村民受入に関する書」、「陳情請願書類」などが保管されている。また、『村の歩み』(一九五七年十二月発行)、『村治十五年』(一九六二年四月発行)のように戦後の編纂資料も整っている。それらから、読谷山村の帰村の様子を見ていくことにする。
 読谷山村への帰村陳情活動は、一九四六年四月、知花英康氏が村長に任命されて始動した。胡差(越来)嘉間良の村長宅(仮住居)に「読谷山村仮役所」が設置された時を起点とする。四月二十三日には「職員氏名及び履歴書提出ノ件」 という沖縄(民政府)総務部からの要請で、普通用紙にペンや鉛筆書き書類を作成し、五月一日には提出されている。
 それによると、復興に掛かる陣容は助役に松田平昌氏、収入役に仲本政公氏、庶務課長に伊波俊昭氏、産業課長に花城景孝氏、教育課長に宇座信篤氏、衛生課長に大湾梅香氏、社会事業課長に知花義雄氏、労務課長に神谷乗敏氏、工務課長に比嘉憲四郎氏の村長以下九氏が報告されている。行を空けて、読谷村農業組合長大城又次郎氏も同時に記載されている。
 なお「村政誓約並ニ綱領 職員氏名」では、仲本政公氏は財政課長、工務課長に比嘉憲四郎・宮本萬次郎・知花弘治・新垣健勇の複数記載になっている。村復興の原動力となった方々である。
 まず村長がすべてに優先して取り組んだことは、帰村促進の嘆願であった。
 当時、東恩納にあった民政府との「帰村促進」の交渉は、米軍による上陸即飛行場の建設、軍需物資の集積所等で広く軍事施設として使われていたために、読谷山村への帰郷は容易ではなかったことが窺われる。知花村長の請願書によると、「読谷村は今まで約半年に亘り、村民の移動促進方を哀願嘆願したが、その見通しさえつかない」。村民の現状は「一万三千余の村民は各地に散在し避難民扱い(実は厄介者扱い)され実に遺憾」とまで述べている。遅れている理由に「海軍と陸軍との交渉困難。爆発物埋蔵のため危険。米軍の駐在のため」と理解を示しながらも、移動不可ならば「読谷村に近い越来・美里の地域への移動も一策」かと提案し、それもできないとするなら「村長の任命も無意味」、また「沖縄の政治上・人道上由々しき問題を惹起しないとも限らない」と強硬な姿勢で請願している(四月三十日付)。
 六月二十八日の新聞報道では「今や我が村に暮らす うれしや」の見出しで、各村長に住民移動の様子のインタービューが行われているが、読谷山村長知花英康氏は「読谷山村の山を除き読谷村と改めます」と他とは異なる苦渋に満ちたコメントをしている。遅々として進まない帰村への苛立ちだったのであろうか。読谷と同様に帰村が遅れている北谷村長の新垣氏は「生活の根拠はなんと申しましても生まれ故郷。今は一日千秋の思いで帰郷を待つのみです」と述べている。知念地区を含めた他の五地区の村長は「開拓が急務」「一にも耕作二にも耕作」「非常に明るい気持ちです」とコメントしており、移動作業が進んでいる地区とそうでない地区との明暗が分かれている。
 さらに、帰村の遅れている読谷山村は、早々に帰村できた他の村人からすれば、俗に言う「戦果」のターゲットにもなりえた。それを防止するために、胡差や石川地区から人々を出して監視(管理)せざるを得なかったのである。一日も早い帰村が望まれる状況にあった。
 こうした対応に加え各村では、多くの陳情や請願を行っている。まず六月三日には北谷・越来・美里の三村長連名で「三ケ村家畜共同飼育ニ関スル件」 を比嘉農務部長に提出し、早急な指示を仰いでいる。
 知花村長は、六月五日に「農耕隊派遣方申請」 を知事に提出、荒廃のまま放置されている現状に対して申請したのであった。さらに六月二十三日には「読谷村内ニアル建築資材確保方ニ関スル件」 を松岡工務部長に要請している。このように、移動を夢見て「家畜・農耕・資材確保」などの生活基盤の確保のための要請を村長以下役所は精力的に行っていたのであった。
 そのような状況であったが、ついに一九四六年八月三日に「耕作許可」 が下り、同六日に村民待望の移動が許可された。村長が陳情してから実に四か月後のことであった。
 本村の学校設立許可(教務部)は、移動許可とほぼ同時に下りている(同年八月十一日)。空襲で焼かれ、艦砲射撃で破壊されてから、約一年半後の学校建設となった。
 その頃読谷山村民が収容されていたのは、石川八〇四八、コザ七六二、前原三〇六、中川一四八五、漢那二〇〇三、宜野座一二一九、久志三〇八、田井等三一九、辺土名一六一、計一万四六一一人(一九四六年九月)であった(『村の歩み』八〇頁)。
 それぞれの地区での生活は、「難民」と「地元民」との軋轢(あつれき)も無かったとは言えない。移動許可がおり、建設隊が組織された頃の八月三十日付けの新聞では、小さな見だしで「読谷も移動」とある。しかし、記事内容を見ると「各地区に散在して浪々の生活にその日暮らしをして居た読谷」「自他共に移動の希望を失ひかけて居たが読谷村は長濱・高志保・波平」に移動許可、「これで石川市辺りも無理な人口収容が緩和される」と記述されており、難民生活における読谷山村民の苦痛が読みとれる。
<-前頁 次頁->