第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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郷土の建設へ

 移動許可がおりた八月六日から六日後の八月十二日には、村建設隊を組織し、村長以下六〇〇名が郷土建設のため高志保・波平の一部に入った。建設隊員たちは、波平の東門(アガリジョー)辺りに茅葺きを建てたり、残存家屋を利用して住んだ。
 村建設隊は、波平の東門で、「読谷山村建設隊綱領」 を協力一致・公正明朗・謙譲親和の心意気で宣誓(山内※※氏)し、建設式を終えて理想郷の建設に就いた。その緒が高志保・波平であり、二二の旧字の復興が最終目的であった。
 戦前(一九四四年)、総数で三一七九棟あった(『村の歩み』一二三頁)住宅も、建設隊の調査では戦争被害から免れた家や修理可能な家も含めて一三〇棟と記録されている。実に九八%が戦禍に見舞われたことになる。実見では、「石垣は壊れ木は倒れて通れる路もない、家は焼かれ井戸は埋められ焼け残つた木や壊れて転つた石の間には草木が生い茂って所々に山羊、牛馬の骸骨も見受けられその惨状は目も当てられないものであった。マングースは盛に往来にいる」(『村治十五年』一一頁)などとある。
 村建設隊の組織を村建設隊編成表にみると、村長の知花英康隊長を中心に、総務部、建築部、農耕部、衛生部、食糧部となっている。
 それぞれの活動を『村の歩み』からみると、建設部では、山城亀吉隊長以下部員が屋敷の整理、規格住宅を建てる。衛生部では、大湾梅香隊長(衛生課長)以下部員が井戸を凌渫(しゅんせつ)して飲料水の確保にあたり、さらに便所を建てる。農耕部では、花城景孝隊長(産業課長)以下部員が野生化した甘藷や野菜を採り、隊員の食料に供し、農耕計画を立て実施する。総務部の監視隊では神谷乗敏隊長外一一人は村内を巡視し、「戦果あさり」(農作物や米軍軍需品を盗むこと)を監視するなどとなっている。隊員は各字ごとにまとまり、残存家屋を修理して宿舎にし合宿生活をした。「隊長」という呼称も、戦後間もない頃の世相が反映されている。
 また、役職名の食い違いも、花城景孝氏の談話からすると、次のようになる。花城氏は建設隊編成表では「部長」、村では「課長」となっているのは、花城氏自身が読谷村技手として県農政部から出向の形となっているためであろう。つまり、建設隊では農耕部長として活躍、村では産業課長兼技手として活動したことが窺える。
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