第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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建設隊の再入村

 九月十一日には、中止命令が解かれ「居住許可」が下りた。しかし、当初の長浜・高志保・波平の移住許可から「長浜ハ居住ヲ許サズ」と「居住部落ハ字波平字高志保トス但シ字波平中南部ノ一部ハ居住並耕作スルコトヲ得ズ」という新たな条件が付けられての許可であった。村建設隊は各地区懇談会で推薦された人々を集め、陣容を立て直した。そして、九月十六日に再入村した。
 農耕部長の花城※※氏によれば、「農耕部隊二〇〇名の先遣隊を指揮して、波平・高志保の許可地区の農地を自由区と禁止区に分け、残存甘蔗・芋等の管理から始めた。共同作業班でキビ刈りや芋掘りを行った。高志保に残っていた黒糖製造小屋で、県から配当されていた馬一頭を使って製糖した」「耕地作業には民政府からトラクターを借りてすき起こしをした」などの回顧談がある。そして、農耕班では、農耕地拡大のために、使われてない軍用地に目を付け村長に具申し、村長が民政府から許可をもらった。その時のエピソードとして、「使われているかどうか分からない土地に作付けをして探りをいれ農耕地の既成事実を作った」こともあったという。また「明らかに立ち入り禁止区域と分かりながらも、芋掘り作業班を喜名の県道東側に入れ米軍に捕まり、沖縄市上地のスターケイジ(拘置所)に世話になった」という話しも残されている。
 さらに、民政府職員としての農業改良普及委員でもあった花城氏は、毎月の農産物生産状況を報告していた。その中で、芋増産に努めていた読谷村民は「芋のカロリーが高い」のを理由に、食糧の配給が減らされ、村民から苦情を受けたという苦労話も付け加えられている。ちなみに、一九四五年八月二十日現在のカロリーは、一日当たり一五三〇カロリー、労働者は二〇〇〇から二五〇〇カロリーであった。
 建設(築)班では、池原※※氏の話しによれば、資材は「軍の払い下げや残存家屋の材料や米軍使い古しのトゥバイフォーを使った」「移住する村民のための家は規格住宅と呼ばれ、二間×三間の茅葺き」であった。また、渡久山朝章氏によると、生活の知恵として個人的にドラム缶を切り開いて「屋根を差しのばして拡張」したり、ドラム缶をそのまま「トイレ・風呂・水ため」などにも使い、重宝であったという。兵舎跡のコンクリート土間を切り取って、規格住宅の台所壁に使うこともあったようだ。
 村建設隊の努力は「筆舌に尽くしがたい」苦労がともない、資材運搬中に一名、井戸凌渫中に二名の犠牲者が出たと記録にある。
 その頃、建設が進むにつれ村長外書記二名では職務も激務となり、村長は書記三名の「吏員増員並経費補助申請」 を民政府総務部に提出している。民政府は石川市東恩納から玉城村親慶原に十月に移動した。
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