第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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「第一次村民移動」帰村始まる

 村内で受け入れ準備が整った十一月二十日から十二月十二日にかけて、第一次村民移動として、辺土名・田井等・久志方面から約五〇〇〇人を受け入れたと『村の歩み』に記録されている。この数字は、帰村終了当時の人口が約一万四〇〇〇人と言われていることからすると、実に三分の一の大量帰村となる。
 帰村の状況についても、当時役場職員であった花城※※氏と池原※※氏は「バラバラではなかった」「集団受け入れ」をしたと語っている。その状況は、「家を何軒建てたから何百人入れると各地区に割り当てた。そして、番号のつけられた波平の何号へ高志保の何号へと、建設隊と幹部会または住宅配給係が指定した家に家族単位で」受け入れた。各地区から引揚者を輸送する任にあった知花成昇氏は「トレーラーやトラック」も使われたと語っている。
 だが、「村民受入に関する書」(読谷村役所)をみると、第一次受け入れの月日からずれて、十二月十四日から三十一日の間に、いろいろな名目で移動してきた様子もみられる。
 例えば「役職員受入名簿」では、中川・城原・漢那・石川・胡差・宜野座・福山などから、配給所主任・役場直属大工・ミシン業者・乳牛飼育者・鍛冶鋳物従事者・先遣隊員・教員・瓦職人・養豚業・電気・漁業・トラック運転手その他諸技能者とその扶養家族を、役場の各課長、農業組合長・工場専務・学校長・工業所長・水産組合長が「村民受入ニ関スル件」 で村長に申請し、受け入れられている。
 申請の内容をみると、「鍛冶職並ニ鋳物職採用ノ件」 の表題では、農機具類と鋳物の製造のためを理由に、金城※※氏家族とその他の専門職として大城※※氏が単身で石川から移住してきた。鋳物職人として波平※※・山内※※氏が漢那からの移住を、農業組合長の大城※※氏が申請している(一九四六年十二月二十七日)。
 鍛冶鋳物に必要な炭を焼くため、国頭の伊地出身の仲村渠技手が、役所(波平三七番地の旧役場)の前庭にあった窯で指導していたと花城※※氏は話している。
 大量受け入れの例としては、「私物資材建築者受入名簿」 が庶務課から出され、石川七五人・中川四六人・漢那一八人・城原一三人・宜野座一七人・計一六九人の集団受け入れもある。その時には、建築部長の山城※※の「建築証明書」 を添えて申請している。この類は一九四六年十二月二十五日に二〇七人、一九四七年一月二十四日に四〇三人の申請がある。この四〇三人については「波平通信隊、及長浜部隊作業員家族並、補助憲兵ノ家族別紙ノ通リ受入然可哉相伺候也」となっており、内訳は、石川三一七人・中川二四人・城原五人・漢那三九人・宜野座一五人・胡差三人である。
 字渡具知から連名で、「漁業者として石川から通うのは不便」を理由に、班員とその家族三七人の呼び寄せを申請している。
 また、一九四六年十二月二十八日受け入れの「帰還者(引揚者)」が、波平区に波平※※家族以下一二家族の六五名、高志保区に呉屋※※家族以下四家族の二一名、合計八六人の受け入れもある。これらは、第二次の受入月日とされる一九四七年二月二十一日より前のことである。
 このような状況からすると、役場の計画に基づいた期間内に移動してきたグループと、特殊技能者とその家族、私物資材を持ち込んで期間外で移動してきた人々などが入り交じって、第一次帰村は行われた。その後もこうしたことは繰り返された。
 帰村村民は、原則として高志保以北出身者は高志保地区へ、波平以南の人々は波平に居住が指定され、建設隊の造った規格住宅や残存家屋に入った。規格住宅の割り当ては、八名以上の家族で一棟、七名以下だと二家族で一棟であった。
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