第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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新生「読谷村」へ

 一九四六年十二月一日には役所を波平一番地に開設し、同時に、前村議で構成された第一回村政委員会において、あらためて「読谷山村」から「読谷村」への改称を決議した。同時に、村民の移動を推進することや公共施設の建築場所の選定等が行われた。こうして新生読谷村が発足したのである。
 村名改称の理由は、おおむね次のとおりであった。終戦後各村はいち早く帰村が許され、苦しい収容所生活からそれぞれの郷里に帰っていった。しかし読谷村は、米軍施設が多かったため帰村が遅れた。そのため地元民から厄介者扱いされ、食糧も窮迫し、栄養失調で倒れる者も多かった。背に腹はかえられないと、夜逃げする者や物取り(当時は「戦果」と言った)をする者が多く、金網(刑務所)に入れられる者も続出し、戦前の「読谷山(ユンタンジャ)」という栄えある村名はいつの間にか「ユンタンジャー」という侮蔑(ぶべつ)の名に変わった。そこで移動が許されたことを機に、人心を一新して村の復興に望もうというものであった。
 改名に際しては、波平の四つの区と高志保の三つの区の七区長と役場幹部が話し合い、それから石川・金武・コザなどの収容所にいる村民の意向を確かめ、沖縄県知事へ申請して、一九四六年十二月十六日に許可が下りた
 村復興のようすを一九四六年十二月二十日の『うるま新報』 からみると、五一市町村の荒廃地復旧面積が、島尻が一一二七町(作付け一〇六一町)・中頭が七六八(作付け五二六)・国頭が四〇一(作付け六一九)とあり、「農村は蘇る」と報じている。しかし、中頭では、荒廃地復旧と作付け面積のトップは西原の一二〇(一〇三)、ついで具志川の八六(六五)、越来の六二(五六)、読谷の二二(一九)、最低は北谷の一一(三)となっている。米軍基地の多い中部一帯の町村がいかに戦後の出発が遅れ、復旧に苦労したかが窺える。その頃、荒廃地復旧助成金は反当たり一〇〇円・作付けには二〇円の助成金が出されていた。
 また、一九四六年当時の村財政状況は、税収はなく、歳入のトップは売店(配給所)売り上げ金三九万二一〇二円、次に救済交付金や補助金等で約一一万四〇〇〇円と続く。歳出では、商品代がほとんどで三七万四四〇〇円となっている。ほかに役所費、売店費、勧業費等が三万円から四万円台で並んでいる。商品代とは食料に関する支出であり、村民の食糧費に予算が多く支出されていることがわかる。
 同年十二月二十七日の『うるま新報』によると、一九四六年当時の民政府総務部の調査(六月から八月の三か月間の収支実態)によれば、五一市町村の内、六つの市村が黒字で残り四五市町村は赤字となっている。その時は、読谷と北谷はまだ移動してないため報告はない。
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