第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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教育の再建

 移動許可とほぼ同時に許可された学校設立も、一九四六年十一月六日に読谷初等学校長に大湾梅成氏が任命され動き出した。十二月二十日には、役所敷地広場で帰村した児童生徒三五〇名と教師一五名、来賓に沖縄民政府文教部から安里延課長と渡嘉敷真睦視学が参列して開校式が行われた。当時の村教育課長は宇座信篤氏で、村建設隊の作業小屋を仮事務所としてスタートした。教室はなく、授業は開校式の翌日から青空教室で行われた。その時の教職員は次の方々である。
 宮城※※・※※、大城※※、大湾※※、玉城※※、奥原※※、比嘉※※、比嘉※※・※※、曽根※※・※※、真玉橋※※、野村※※、新崎※※、安仁屋※※(現喜瀬川)、新垣※※(現照屋)、宮城※※(現伊佐)、松田※※、比嘉※※、大城※※(現比嘉)の二〇名。
 学校敷地の開放を待ちながら、十二月には高志保與比原(アカムヤー)の松林に高志保分校の設立。翌二月には米軍から、学校敷地が波平のターター毛(現読谷中学校敷地)に許可されて移転。トタン葺き職員室一五坪とテント張りの校舎が、村建設隊と職員の協力で完成した。その時の資材は、テントは天願や瑞慶覧の米軍集積所から譲り受けたが、支柱はなかった。そのため支柱は、屋良朝乗氏(屋良朝苗氏の兄)が「魚つき林」(影があると魚がよってくるための林)として育てたモクマオウ林から、「教育には変えられない」ということで寄贈されたとの渡久山朝章氏の談があり、大湾梅成氏の記録にも残っている。一九四七年四月からは、青空教室からテント小屋教室で授業が行われるようになった。
 また、一九四七年には渡慶次初等学校(宇座信篤校長)、古堅初等学校(山内繁茂校長)が開校し、その後喜名初等学校(石嶺伝盛校長)が開校した。こうして村全体の初等学校が揃い、村一円で教育が行われるようになり、幼稚園も随時開園していった。
 一九四八年四月一日「六・三・三制」が施行されると、政府文教部の方針は一村一中等学校であった。ところが読谷村では米軍施設の関係で文教部の方針どおりにはいかずに、やむなく各初等学校に中等学校が併置された。一年一か月後、読谷・渡慶次・喜名の中等学校を統合し、読谷中等学校が設立されて初代校長に大湾梅成氏が就任した。当時の在籍は、八三一名の生徒に一八名の職員であった。古堅はそのまま古堅初等学校内に中等学校を置いた併置校として残った。
 三中等学校の統合に伴い、読谷初等学校が高志保の苗代原に移転したのは、一九四九年四月のことである。区民の協力で茅葺き校舎一六棟を建設し、校長に真壁松徳氏が就任した。当時の校舎は、馬小屋校舎と呼ばれ、雨風をしのぐだけの作りであった。屋根は茅葺き、資材は村有林から切り出し、壁はテントかススキで、床は土間、一棟二教室の仕切もテント、机腰掛けは打ち込み式で室内は薄暗かった。また、教室の天井骨組の木材は男子児童の格好の遊び場にもなった。一部に煉瓦校舎ができたのは一九五一年で、政府文教部の割り当てであった。それ以前の校舎建築は、村民の奉仕作業等の労力で作られた。
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