第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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次々と帰村「第二次村民移動」

 建設隊が入村し住宅建築が進むと、併行するかのように、つぎつぎと移住許可地が拡大されていった。
 一九四六年十一月十五日、楚辺・大木の移住と農耕許可が下り、翌年一月二十八日には楚辺・大木地区の住宅建設に着手した。そして、一九四七年二月二十一日から三月六日にかけて、第二次村民移動が開始され、主に宜野座方面から受け入れたと『村の歩み』にある。
 その状況を「村民受入に関する書」から見ると、申請人数一〇七四人の内訳は、宜野座七三三人・福山八七人・松田一二五人・惣慶一二九人となっている。「第二次移動受入日計表」(二月二十二日から三月五日)によると実受け入れ人数は一〇〇二人となっている。移動計画は緻密で、二月二十二日から三月五日までの間、日割りで人数も指定して、一日一〇台のトラックで二往復すると記録されていて、その数は一〇〇二人と合致し、行政による組織的な移動がスムーズに行われている。
 また作成された名簿をみると、楚辺出身の上地蒲家族を波平三区五班と具体的に指示し、受け付けも三月二十六日と明記されている。それらの名簿の備考欄には、「残留・現在石川・軍作業・石川移転・ハイスクール残留」等の文字が見え、事情によっては移転をひかえた者もあったことがわかる。
 移動にあたっては、宜野座地区代表から宜野座村長に「転出證明下附願ニ関スル件」 が出されている。
 第一次村民移動と同じように、「共同耕作地指導者・熟練工・教員・建築部職員・商務部職員・監視員」等については役所からの申請は変わらない。水産組合長からの「団体漁業者受入申請」 で一三戸七七人等の集団受け入れも同じである。また、移動期間後の「受入申請」が石川地区から増えている。
 期間外移動組の第一次との違いは、戸主(親)から村長への申請で、「扶養のための家族呼び寄せ」、「高校通学のため残留していた子の呼び寄せ」などとある点である。ほかにも、字代表による耕地作業員の申請も可能になっている。
 また、タタミ表並びにタタミ製造人の受け入れが農業組合長から出ており、「軍必要作業員特別移動申請之件」で、軍作業員三人知花※※、松田※※、上地※※氏の家族二六名を石川、中川、漢那から労務課長名で呼び寄せている。それを証明するのに「ケニス・M・ヨシナガ」の英文証明書(三氏が軍作業員であることを証明したもの)のサイン付きが発行されている。
 一九四七年四月二十五日には、「當校付属幼稚園官補」としての家族呼び寄せを渡慶次小の宇座信篤校長が行っている。それは、初等学校と同時に幼稚園教育が始まっていたことの証明にもなろう。
 一九四七年四月十一日からは、楚辺・大木への移動も始まった。それに関して、たとえ村内の移動(移住)であれ、「家族移動受入申請」 や「先遣隊移動ニ関スル依頼ノ件」 の表題で、「農耕指導上必要」等を理由として、島袋忠正産業課長から南部移動隊長松田平昌宛に申請書が出されて、許可を得ての移動となっている。こうして、読谷村南部地区の住民も波平・高志保から移動を始め、楚辺・大木は、南部地区の戦後復興の起点となった。
 その頃の新聞報道によれば、一九四七年一月十七日付けの見出しには「捗らぬ土地調査・当局者を悩ます・沖縄県中南部見通し困難」とあり、さらに「島尻具志川・仲里・伊平屋・伊是名を除き四六ヶ村では所有権の確認の調査を急いでいるが、住民の移動や申告の不正等で困難を来たし悲鳴を上げている」という記事が掲載されている。それからも分かるように、住民が所有地に戻るには多くの困難を伴った。だが、同時期の読谷村ではその前段階であり、とりあえず収容所から村へ戻ることが目標であった。
 この頃の村民は六〇〇〇人を超えていて、村民の健康管理のために読谷診療所も設置されている。医務官には喜世川浩氏、歯科医官には知花英夫氏が任命され、医療面から村建設に尽力している。また治安面から読谷警部補派出所も設置されている。(『村の歩み』一八頁)
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