第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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順調にすすんだ「第三次村民移動」

 一九四七年五月一日から六月二十四日にかけては、漢那・中川方面からの第三次受け入れを完了と『村の歩み』にある。具体的には、「村民受入に関する書」によると一陣と二陣の合計二二五七人の受け入れとなっている。
 一陣は「漢那地区」からの移動申請 でその内訳は、座喜味二八六人・波平一八八人・上地八人・喜名二五人・伊良皆六四人・親志一一人・高志保一一五人・渡慶次八〇人・儀間五二人・宇座一三六人・瀬名波四六人・長浜四二人・比謝九人・大湾五八人・牧原二人・大木四人・古堅七人・渡具知一六人・楚辺三〇人・比謝矼九人・長田九人(一九四七年四月三十日申請)などとなっている。
 二陣の移動申請 は「宜野座地区・城原地区及び金武村」からで、内訳は高志保一五一人・儀間三八人・宇座八五人・瀬名波三四人・長浜二二人・波平四五人・座喜味一八〇人・喜名一一四人・大湾三人・楚辺二七人・渡具知四人・伊良皆三九人・渡慶次四〇人(五月十六日に申請)などである。以上が第三次移動として、一定期間に役所の計画の下に集団的に移動した人数である。
 だがここでも、第一次・第二次移動のときのように期間外の受け入れがみられる。七月から八月にかけて主に石川地区からの申請書が多く出されている。その内容は、「共同耕地指導者・手持ち資材移動・鍛冶職・扶養・大工・工場従業員・軍作業員・教員・波平売店員・村有山羊飼育」等々で前回とほぼ同じである。視点をかえて申請者からみると、産業組合長大城又次郎が「鍛冶職」を、読谷製作所の波平※※が「鋳物職」 を、読谷工業所長知花※※が「従業員」をというように産業の芽だしも現れている。
 また、「私物資材や理髪師・井戸掘り」等の申請者である衛生課長は七月三日から知花繁助氏に代わっている。
 弾薬監視員を石川より同僚の連名で呼び寄せているのは、許可が一段と緩やかになったと言えるだろう。それでも、村内移動は依然として「許可制」である。例えば、理髪師の大湾※※氏が波平から楚辺へ、衛生業務者が井戸掘り業務として波平から大木へと、衛生課長の申請なくしてはできない時代であった。収容地区以外の北谷からの移動を区長が、村民であることを証明して申請する例もある。後には久米島具志川村・八重山郡与那国や竹富からのものもある。
 また、座喜味も一九四七年(昭和二十二)八月には東川(トーガー)地域が開放され、居住が許可されることになった。座喜味の旧集落は米軍の弾薬集積所になっていたため許可が下りず、トーガーへの移住になったものだった。
 その頃の六月二十七日付け新聞 では、「土地返還要求は違法・耕地分配の適正へ・民政府再び市町村へ通牒」とあり、農耕地の分配は土地の所有権とは何等関係なく、軍政府の依嘱で知事が市町村にまかしてある、と再通告の形をとり、自給自足のための耕地分配が行われた。
 第三次受け入れが完了し、大半が帰村できた頃の五月二十三日付けの新聞では、「初の戦没慰霊祭・月末から各地区で執行」の見出しで、「沖縄戦で犠牲になった軍人(連合軍・日本軍)及び人民に対する慰霊祭を行うこと」と、民政府の指導が入っている。ただし「地区の教会と連絡し祭祀を行うこと」とされ、北谷・読谷・美里地区は、美浦教会(泡瀬)が指定されている。更に細かく、祭儀を行うときは「花・十字架・ローソクで装飾しお供えは用いない」とされている。読谷では、六月七日に読谷初等学校で「今次戦争で戦没した村出身軍人軍属一般人の全英霊を郷土にお迎えして」の慰霊祭が行われた(『村の歩み』一九頁)。
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