第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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「第四次村民移動」

 第四次受け入れは「村民受入に関する書」の「村民受入に関する件伺」によると、前原地区(二四八人)及び胡差地区(四九二人)からの七四〇人の名簿が、詳細に、本籍・現住所(前原・川田・桃原・仲嶺・宮里・高江洲・古謝・金武湾・具志川・塩屋・南風原・松本・池原・知花・胡差)・氏名・年齢・続柄等が記録されている。その文書の起案月日は一九四七年七月二十三日となっている。
 一九四七年八月十四日にはコザ・前原方面からの第四次村民移動を受け入れたと『村の歩み』にある。しかし、軍の都合で突然、一九四七年八月十五日に「移動中止」 命令が出され、コザ、石川両地区の村民代表が通知を受けている。文書の受付日は十八日である。
 この事態を受けて九月十五日には、知花英康村長は辞任している。「中止命令」から二か月後の十月十五日には、「軍道路六号線から西部は、いつでも立ち退きしなければならない」という条件付きでの「移動許可」 が再度下りた。条件に対する異議申し立てを行うことも許されず、移動が再開された。
 一九四七年十月十六日には、儀間・瀬名波・渡慶次の移住許可も出された。
 こうして第四次移動は、八月十五日の中止命令以前にほぼ完了していた。すなわち、第三次が完了した六月二十四日から一か月後の七月二十三日が村による計画的な第四次移動の始まりとなる。
 だが、翌年の五月十二日には、渡慶次・儀間が立ち退きとなり、わずか半年の帰郷となっている。この強制立ち退きは全村民の同情をかい、多くの村民の協力で移動が行われた。
 その後、楚辺(一九五一年五月命令)・渡具知(一九五三年一月命令)が「村内移動後の立ち退き」という憂き目にあっている。それは読谷村民の帰村状況の中での特異のこととなっている。
 一九四七年八月十五日の移動中止命令を受けた後でも、八月十八日に工務課長から「工務課建築員」として約一三六人の村民受け入れがあり、十月七日には衛生課長から「私物資材建築者」として石川から家族移動の申請が出されている。
 八月下旬から「移動中止」が解禁される十月中旬頃までは、申請書がほとんど見つからない。その間にあるのは、村内南部への移動の「証明書」が南部建設隊長や、他市町村からの村への復籍や移住の申請が区長から出されている程度である。
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