第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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「第五次村民移動」

 一九四七年十一月九日には、第五次村民移動として石川地区から村民を受け入れて、それまでに総数約一万四〇〇〇人の帰村が完了したと『村の歩み』にはある。
 また、「読庶号外」(一九四七年十一月十一日付け) によると、村長代理から古堅初等学校長への返信として、教員及び家族の受け入れについては、今回の石川市よりの移動の中に含まれているから、石川市の村代表知花幸安氏と連絡の上、本人に連絡することとある。村長代理助役が許可するのではなく、石川代表とよく連絡をとって、移動するようにとの通知である。
 「村民受入に関する書」(「読谷村民移動(石川ヨリ馬力ニテ)」によると、一九四八年一月三日に二〇台の馬車で一七戸七五人、一月五日に馬車一五台で一一戸四九人、一月一七日に一五台の馬車で九戸三六人、一月二十四日に八台の馬車で五戸一七人が移動したとの記録がある。
 一九四八年一月末日の「字別移動状況調べ」 では、四二一戸、一八〇七人が未移動になっており、その移動計画も二月二十二日から四月二十日までの毎週日曜日の九日間、のべ一八〇台(実台数九〇)で輸送するとメモが残っている。また、二月十日現在でさえ「石川残留者数並びに各旧字代表者名」では、四二一戸一八〇七人が残留していることになっていて、移動作業が順調には進んでいない状況である。
 石川地区では、十月と十二月にも申請移動が続き、前述のように一月と二月には馬車による集団移動があり、最終的には四月一日の「石川残留者調査」でも三〇五戸、一三八一人が残留と記録されていて、帰村できない人々がいる。そして、四月十五日には移動完了祝賀会が催されたが、その三日前の四月十二日にも、残っていた田井等地区屋部村から波平への移動もあり、その後もわずかながら移動は続いていた。
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