第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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帰村「移動区分」を振り返る

 一九四七年十二月調査の移動済人口は、男六八一八人、女七七七二人。計一万四二(ママ)九〇人、戸数にして三二七三戸となっている(『村の歩み』七六頁)。それらのすべての人々が収容地区からの移動ではなく、前にも述べたとおり「他地区・引揚者等」を含めたものであろう。
 これまでに帰村に関することで、二度の中止命令がでて、移動業務に大きな支障を来したことがあった。一度目は一九四六年八月三十一日に「建設中止」の命令が下り、再許可になったときには「長浜・波平の中南部は不許可」と狭められたこと。二度目は一九四七年八月十五日「移動中止」となり、再び許可になったときは「六号線より西側はいつでも立ち退き」を条件に許可されたことである。
 これまでの第一次から五次までの移動区分の根拠は『村の歩み』によった。しかし、「村民受入に関する書」などの資料では第三次までは詳細に記述されているが、四次以降はそれまでのような詳しいものとはなっていない。それは、受け入れ状況が多岐にわたり、移動の実態が複雑であったことを反映しているのであろう。
 行政の計画で「第何次」と区分し、計画的な受け入れを実施してきたが、それ以外にも、日常的にと言うか波状的にと言うか、さまざな形での移動があったことを現存する資料は教えている。
 波平・高志保への移動許可が帰村の基点であった。波平には旧読谷校区(波平、上地、座喜味、喜名、親志、伊良皆、長田の一部)と旧古堅校区(比謝、大湾、比謝矼、牧原、古堅、渡具知、楚辺、大木、長田の一部)が入り、高志保には旧渡慶次校区(渡慶次、儀間、宇座、瀬名波、長浜、高志保)の人々が居住した。その後、楚辺・大木地域(俗称「南部」)への移動許可が下り、旧古堅校区の住民はそこに移動した。その後、渡慶次、儀間、瀬名波の移住許可がでて移動したが、儀間、渡慶次の「立ち退き命令」で渡慶次、儀間の人々は再び高志保、瀬名波などへ移住した。また、座喜味は一九四七年七月トーガー地域へ移住し、間もなく喜名の一部も開放されて、喜名、親志の人々が移住した。その後もそれぞれの字(集落)への帰郷も計られたが、米軍基地との関係で、現在でも旧字地域への復帰が実現していない字もある。
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