第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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復興に向けて


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 一九四八年二月には、公選村長として松田平昌氏が就任した。一万五四〇〇人の村民の移動を終え、四月十五日には建設隊への感謝状贈呈並びに移動完了祝賀会が開かれた。これをもって役場の計画的な帰村の取り組みは終了し、その後は復興に向けて力が入れられた。
 四月二十八日の「村民居住並農耕許可申請」において、村長松田平昌氏は、二二部落中復帰できた部落は、高志保・波平の一部・喜名の一部・座喜味・楚辺・大木・渡慶次・儀間・瀬名波の九部落であり、旧部落に帰れない残る一三部落のために四か所の許可を申請している(添付図より)。村全体からすれば足場はできたものの、村の復興という意味では二二部落の復帰が目標であったことに変わりはない。
 旧部落に帰れない一三部落の中でも、渡具知のように、南部の開放で楚辺に移住し、その後渡具知に一九五〇年に束の間の移住が許可され、一九五二年に比謝地番に再度強制立ち退きさせられたところもある。渡具知と同様に楚辺は一か所にまとめられて、本部落から現在地へ強制移住させられ、現在に至っている。
 そして牧原・長田・比謝矼などは未だ本籍地に帰れずにいる。親志・喜名の一部・伊良皆の一部などが同様な扱いになっている
 戦後の帰村すなわち収容所等からの帰村は終わったかも知れないが、帰郷すなわち字(旧部落)に帰るという意味では、まだまだ完全に終わっているとは言えない。

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戦後復興期の住宅
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高志保にあった頃の渡慶次中等学校の
バレーボールの選手たち(中学校併置校時代)
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「馬小屋校舎」と呼ばれた当時の校舎と児童たち
(1953年の1年生・渡慶次小学校)
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