第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動


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各字移動状況年表

各字への復帰状況

*ほとんどの字民は、一九四六年から四七年にかけて、ひとまず高志保・波平に帰村した。以下はその後の各字ごとの状況である。
波平  一九四六年 八月  一部開放
         一一月  一次移動で復帰
高志保 一九四六年 八月  一部開放
         一一月  一次移動で復帰
大木  一九四七年 四月  旧集落に居住許可
楚辺  一九四七年 四月  旧集落に移動
    一九五二年 三月  再び米軍に接収され、現在地に移住。旧集落地は未だに未開放
座喜味 一九四七年 七月  トーガー(板針原)に移動
    一九五二年     旧集落大部分を開放、その後徐々に復帰
渡慶次 一九四七年一〇月  居住許可が下り移動
    一九四八年 五月  米軍の立ち退き命令が出されて再び瀬名波、高志保へ移動
    一九五二年     旧集落への居住許可
儀間            渡慶次とほぼ同じ
瀬名波 一九四七年一〇月  旧集落宅地部分、居住許可
喜名  一九四八年一二月  国道五八号西側に移動
親志  一九四八年     喜名とほぼ同じ時期に現共同販売センター付近に移るが、
              米軍が近くにまだ駐屯していたため、
              現親志公民館付近に移った。旧集落地は未開放
上地  一九五〇年 六月  宅地部分開放、移住す
都屋  一九五〇年 六月  宅地部分開放、移住す
渡具知 一九五一年 五月  居住許可が下り移動
    一九五四年     再び接収され、比謝西原、大湾に移住。
              その後再開放で旧集落へも移動
伊良皆 一九五一年 五月  宅地部分開放、移住す
比謝  一九五一年 五月  宅部分開放、移住す
大湾  一九五一年 五月  宅部分開放、移住す
長浜  一九五一年     宅地部分開放、移住す
古堅  一九四七年 四月  大木等へ移動
    一九五四年 六月  旧集落の北側に集団移住。その後旧集落へも移動
牧原  一九四七年 四月  大木等へ移動
    一九六一年     比謝伊保堂原と伊良皆西佐久原に敷地を共同購入。
    一九六二年     新集落建設に着手。
    一九六五年     移動完了。旧集落地は未だに未開放。
宇座  一九四八年     長浜の地籍である高志保西北一帯にややまとまって移住、
              その後一部は旧集落へ復帰
比謝矼 一九四七年     大木地域等に移住。大湾、比謝とともに国道五八号東側の
              開放を関係当局に再三陳情するが軍施設の関係で未開放。
              一九五一年頃から旧比謝矼の一部に移住する者あり
長田  一九四七年     大木地域等に移住
              大木、伊良皆地域などに分散居住し、旧集落地は未だに未開放

参考文献

第一種 西暦一九四六年以降 庶務ニ関スル書類 讀谷村役所
第一種(永年保存)陳情請願書類 讀谷村役所
一九四六年度 村民受入に関する書 読谷村役所
『村の歩み』一九五七年 読谷村役所発行
『村治十五年』一九六二年 読谷村発行
『平和の炎 第一一集』一九九八年 読谷村役場発行
『琉球の文化 第5号』所収「石川学園の記録 曽根信一」
一九七四年 琉球文化社発行
『日暮れて道遠し』大湾梅成著 一九八五年 大湾稔発行
『ウルマ新報 一九四五年八月〜一九四六年十二月』
『うるま新報 一九四七年〜一九四八年』
「沖縄戦戦災実態調査表」読谷村史編集室
『沖縄市町村三十年史 上巻 通史編』
一九八三年 沖縄市町村三十年史発行委員会
『沖縄市町村三十年史 下巻 資料編』
一九八二年 沖縄市町村三十年史発行委員会
『読谷小学校創立百周年記念誌』
一九八三年 創立百周年記念事業期成会
『沖縄県史 10 沖縄戦記録2』所収「中頭郡」(石原昌家)
一九七四年 沖縄県教育委員会発行
『コザ市史』 一九七四年 コザ市発行
『石川市史』 一九八八年 石川市役所発行

移住即新生活運動へ

 「年中行事表」沖縄民政府制定(附 文化偉人表)が一九四七年十一月に作られ、翌月にかけて各市町村に配られている。読谷村では一九四七年十二月二十三日に受け付けられている。「序論」でその趣旨を述べているので以下に引用しよう。
  敗戦という冷厳な事実の前に、敢然と郷土復興に立ち上がった人々の多いことは、真に沖縄のために喜ぶべきことであるが、しかし、中には思想的に堕落したり目前の享楽に耽溺(たんでき)したり、物質欲にのみ走ったりして人生をあやまり、郷土を正しくない方向に進めようとしている人々もあるのは、何としても残念な事である。我々は新沖縄の建設のためにも、その人個人のためにも、正しき美しき前進を教えそして実行しなければならぬと思う。
 それには、政治、経済、産業の復興等、いろいろの方法があるが、ここに年中行事の新しき制定もまた有意義であり、この線に沿って沖縄文化の向上を皆が考えるならば、内容充実した新沖縄が生まれ出るのもそう遠くはないであろう。(旧仮名遣いは改め、読みにくい漢字には仮名を付した)。
 その基本理念は「宗教心の啓培・民主主義の確立・体育の奨励・世界文化への進展」となっている。また、旧習の弊害の改善を計りながらも、新旧併暦を「日本でも併用している」として一本化せず、両暦を採用している。さらに、各行事内容と実施方法まで記述されており、その一部を紹介しよう。
   一月一日 年始会=感謝と希望の会、公休日
   一月七日 七草粥=ナンカヌスク
        *米不足の今日、お粥でなくてもよい
  一月十九日 科学祭=科学文明の発展向上
        *コペルニクスやワットの誕生日
 旧二月十五日 麥(麦)穂祭=豊年祈願
        *交通不便の折柄、本家参拝は不要
  旧三月三日 上巳の節句(桃の節句)
        *家族そろってのピクニックはよい
   三月中旬 彼岸=悟りの世界
        *祖先の霊への感謝と自己反省の日
   三月下旬 音楽祭=音楽文化の発展向上
   四月八日 花まつり=釈迦降誕祭り
   四月中旬 害虫駆除日=アブシバレー
 四月二十四日 民政府創立記念日、公休日
        *一九四五年・民主主義沖縄発足の日
     不定 復活祭=日は毎年かわるが日曜に行う
        *キリスト教に関する世界的行事
  旧五月五日 端午の節句=男の子の健康祈願
        *「四日の日」は玩具市やハーリー、綱引
五月第二日曜日 母の日=母の恩を思う日
 旧五月十五日 稲穂祭=五月祭り、豊作祈願
  五月三十日 慰霊祭=各市町村主催。都合のよい日
        *軍人や人民の犠牲者の供養
        *仏式でもキリスト教式でもよい
        *各地未だ人骨の散在、納骨塔建立も
旧六月二十五日 稲大祭=六月祭り
        *氏神や本家の神前で五穀豊穣、質素に
        *綱引きや角力はローカルカラーを発揮して
   七月四日 米国独立記念日=敬意を表する日
  旧七月七日 七夕の節句=女子は星祭り
        *裁縫上達を願う
        *衣服や書籍等の虫干しを行う習慣
        *墓地の清掃のみならず奥深い行事に
 旧七月十五日 お盆=十三日から十五日まで
        *父母の幸福祈る仏事(地獄から救う)
    十六日 盆踊り=十五と十六日公休日
 旧八月十五日 仲秋の名月=観月会
        *句歌会もよい、各地で村芝居が多い
  旧九月九日 重陽の節句=菊酒で健康祈願
   九月中旬 彼岸=春の彼岸(三月)参照
   十月中旬 体育祭=学校の運動会と連絡
        *世界人としての体力つくり
        *文化人としての愛好の精神
        *用具は意に任せるが創意工夫を
  十一月中旬 芸能祭=芸能文化の発展向上
        *従来の弊害を廃し、芸術を尊重する
 十一月十一日 第一次大戦終戦記念 公休日
  十一月下旬 感謝祭=五穀を貧しき人に施す
        *世界三大祭りの一つ、米国理解
十二月二十五日 クリスマス=キリストの生誕を祝う日
        *二十四日はクリスマス・イブ
 年中行事を顧みると、一九四八年代という時代からして、農業に関わる彼岸やアブシバレーなどは各家庭で実行されていたようであるが、七草粥などは、「米不足」ゆえに代用品でもよいとの助言もあるように夢の世界でしかなかった。
 子どもたちが待っていたのは「正月と盆」である。正月は洋服や靴を買ってもらえる楽しみがあり、盆は村芝居を見る楽しみがあった。特に、波平のジューグゥヤーでは東門の松の古木に字の旗をたて、広場には芝居舞台が準備され、昼の青年会の棒術(ハンジャ棒)から始まり、深夜の組踊りまでの壮大な催しが行われていた。区民総出の字芝居が記憶に残る。踊りの主人公と棒術のシー番(最後に登場する人)は英雄的存在であった。
 学校に関わることとしては、運動会と青年の陸上競技が同時に開催されていることが特徴である。競技そのものへの憧れと同時に、閉会式の優勝争いのすごさと「夕風涼しく……」の歌がいつもロマンチックに響いたものである。運動会も運動会用の服が買える楽しみがともなった。
 桃の節句や端午の節句、そして七夕や母の日などは贅沢な世界ではなかっただろうか。あるいは学校行事的に取り扱われる程度はあったかと思うが、それもずうっと後の時代であろう。
 年中行事に付録として「文化偉人表」があるので、生誕及び没月別に人名だけを紹介しよう。
 一月=ガリレオ、ペスタロッチ、孟子、コペルニクス、ジェームスワット、ジェンナー
 二月=リンカーン、カント、ワシントン
 三月=ニュートン、ユーゴー、ラファーエル
 四月=ゾラ、釈迦、孔子、バイロン、シェイクスピア
 五月=レオナルド・ダビンチ、マコルミック、ナイチンゲール、コロンブス、ワグネル、
    イブセン、プラトーン
 六月=ルソー、アダムスミス、マホメット、弘法大師
 七月=ダルトン、圓山應擧
 八月=玉城朝薫、ロバート・シューマン、ソクラテス、ヘーゲル
 九月=正岡子規、蔡温、
 十月=松尾芭蕉、儀間眞常、自了、
十一月=マルチン・ルーテル、小林一茶、トルストイ、親鸞正(ママ)人
十二月=夏目漱石、ベートーベン、キリスト

参考資料 村の歩み年表

 一九四五年(昭和二〇年)
    二月  村民の国頭避難始まる
 三月二三日  村内へ激しい空襲が始まる
 三月二五日  村内へ艦砲射撃が始まる(『戦況手簿』によると二十六日との記述あり)
  四月一日  米軍、読谷山村西海岸一帯から上陸
  四月五日  米軍、読谷山村比謝に海軍軍政府を設立
 四月一二日  米軍、嘉手納の飛行場からB29を発進、東京を空襲
 五月二四日  義烈空挺隊(約一二〇人、一二機)北・中飛行場へ強行着陸を試みる
 六月二三日  日本軍(第三十二軍)司令官、参謀長自刃
 七月二六日  米軍政府により「ウルマ新報社」創立
  八月九日  原爆搭載機B29が長崎に原爆投下後、ボーロー飛行場に降り立った
 八月一五日  正午、「玉音」(終戦の詔書)放送
 八月二九日  マッカーサー元帥、マニラから読谷山村内の飛行場に飛来
 八月二九日  米軍政府、沖縄諮詢会を石川に設置
  九月七日  日本軍無条件降伏文書調印
 九月一二日  「地方行政緊急措置要綱」を発表
 九月二五日  一二地区で市長選挙
   一〇月  胡差市に読谷山村仮役所設置・村長知花英康任命
一〇月二三日  第一回市長会議 石川市在の沖縄諮詢会堂で開催
一〇月二九日  収容所から知念地区と中城村安谷屋への移動を皮切りに住民移動開始

一九四六年(昭和二一)
  四月四日  市町村長の任命式。読谷山村長知花英康
 四月二四日  沖縄民政府発足(石川市東恩納)。志喜屋孝信氏を知事に任命
 四月三〇日  読谷山村「村民ノ移動促進ニ関スル請願」を民政府に提出
  六月五日  米軍、住民への物資の無償配給を打ち切る
  七月一日  米軍政、海軍から陸軍に移管
  八月三日  読谷山村での農耕許可が下りる
  八月六日  読谷山村波平、高志保への住民居住許可が下りる
 八月一二日  読谷山村建築隊を組織
 八月一六日  読谷山村建設後援会結成
 八月三一日  住民移動中止命令により、建設隊読谷山村を引き揚げる
 九月一一日  移動中止命令解かれる
 九月一六日  建設隊再び読谷山村建設に着手
一〇月一七日  沖縄民政府、石川東恩納から玉城村親慶原に移転
一〇月三一日  村名「読谷山」を「読谷」に改称することを民政府に申請
 一一月六日  読谷初等学校設立認許される
一一月一五日  楚辺、大木地域に居住許可おりる
一一月二〇日  第一次村民移動(帰村)開始(一二月一二日完了。辺土名、田井等、久志方面から約五〇〇〇人が帰村)
一二月一日   読谷村役所開設
一二月一六日 「読谷山」から「読谷」へ村名改称申請が民政府より認可

一九四七年(昭和二二)
 一月二八日  建設隊南部支所を楚辺に置き、建設に着手
 二月二一日  第二次村民移動開始(三月六日完了。主に宜野座方面より)
 二月二四日  渡慶次・古堅初等学校設立認許される
 三月二二日  読谷村水産組合設立総会
 四月一一日  波平に居住していた南部地域の人達が楚辺、大木方面へ移動
 五月一日   第三次村民移動開始(六月二四日完了。漢那、中川、城原方面より)
 六月七日   読谷初等学校校庭にて慰霊祭を行う
 七月     座喜味板針原(トーガー)に居住許可おりる
 八月一四日  第四次村民移動開始(胡差方面から)
 一〇月一六日 瀬名波、渡慶次、儀間、喜名一部地域に居住許可おりる
 一一月九日  第五次村民移動開始(石川方面から、一万四〇〇〇余の村民が帰村)
 一二月三一日 喜名初等学校設立認許される

一九四八年(昭和二三)
   二月一日 沖縄群島市町村長選挙(村長松田平昌氏就任)
  四月一五日 建設隊感謝状贈呈式並びに村民移動完了祝賀会
  五月一八日 渡慶次、儀間部落立ち退き命令おりる
  七月二一日 米軍政府指令第二六号「市町村制」を公布
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