第六章 証言記録
男性の証言


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ヤーガーの崩落から生き残って

松田※※(宇座・※※)大正六年生

軍属へ

 私は、一九四三年(昭和十八)に大刀洗航空廠那覇分廠に軍属として配属されました。二十六歳のときです。軍属の給料は兵隊よりも高く、県外に行かされることもないので、体が小さくて兵隊になれなかったこともあり、私は軍属を希望しました。そのため一九三九年(昭和十四)に召集された同級生に比べると戦争に巻き込まれるのが遅れることとなりましたが、彼らが召集され、出征して行った頃から戦争の始まりを実感していました。
 私は飛行場で、戦闘機の燃料を補給する任務に就いていました。何処に行くにもいったん那覇(小禄飛行場)で給油をするので、フィリピン辺りから帰ってくる兵隊に、大刀洗に戻るための燃料を給油することもありました。中には「燃料をたくさん入れてくれよ」とフィリピンバナナのお土産をくれる人もいましたが、燃料はたくさん入れてはいけないという命令が出ていて、頼まれても叶えてやることはできませんでした。それは出撃する兵士も同様で、往きの分の燃料しか入れてやれませんし、それもぎりぎり足りるかどうかという量でした。
 十・十空襲で那覇が焼き払われ、飛行場も使用不能となり私たちの部隊は読谷に移りました。しかしその読谷も飛行場を爆撃され、兵舎も失ってからは伊良皆の東の山に防空壕を掘り、兵舎の代わりとしていました。また昼は爆撃がひどいので夜に飛行場の整備をする有様でした。
 年を越した三月の下旬、壕掘りをしていたところ土が崩れ落ち、私は土砂の下敷きになってしまいました。近くで作業をしていた人に助け出されましたが、私は足に怪我を負って今までのような作業が難しく、飛行場の見張りなどの当番をするようになりました。そうしているうちに、宇座も危険な状況になってきたので、家族をやんばるに避難させようと、わたしは暇をもらいました。家族をやんばるに送り届けたらすぐに戻るつもりでいたのです。

友との別れ

 三月二十二日、暇をもらった私は、家族を迎えるためにスヌヘークガマに行きました。するとその日から猛烈な爆撃が始まり、やんばるに発つのは不可能となりました。それならば任務に戻ろうと思い、爆撃の激しい昼は避けて、夜に部隊に戻りました。しかし、隊長が留守で、「明日の昼また来るように」と言われ、その日はスヌヘークに戻ったのです。すると翌二十三日には宇座の部落は米軍の爆撃で焼け野原と化していました。すさまじい爆撃で、もはや部隊に戻ることは不可能となり、私は家族や字の人々と一緒に壕で避難生活を送ることになりました。
 やがて幾らも経たないうちに、爆撃が激しかったスヌヘークからヤーガーという自然壕に避難しました。家族は壕の中程で生活しており、私は若かったので壕の入口で見張りを兼ねて数人の若者と寝泊まりをしていました。また炊き出し隊として、空爆で焼け残った家で、字から持ってきていた避難米でおにぎりを作り世帯数に応じて各壕に配っていました。艦砲射撃や爆撃の雨の中、命懸けの炊き出しでした。
 そんな中、軍属で一緒だった仲間がヤーガーに訪ねてきました。読谷にいた軍属は兵隊に同行して島尻に行くことになり、私に別れを告げに来たのでした。「私達は島尻に行くが、あなたは足の怪我で軍属を解除されているから、来なくてもいいからよ」と言われました。宇座出身の方達でしたがその方達はみな島尻で亡くなってしまったのです。
 日本軍からは、恩納村の宇加地後方の山に避難せよとの命令が伝えられましたが、「あっちもこっちも同じなのに」と誰も命令を聞く者もなくヤーガーに残ったままでいました。私の家族は母と妻と息子と娘の五人家族でしたが、私の娘は小さかったのでよく泣きました。「泣く人は嫌いだから、あっち行ってちょうだい」と、米軍に発見されるのを恐れて私達に言ってくる人もいましたが、今考えてみると、子供達を大いに泣かせてヤーガーが住民の避難壕であることを知らせておけばよかったのだと思います。ひっそりと隠れているということが、かえって悲劇を呼ぶことになるとは考えもつかないことでした。

ヤーガーを飛び出して

 ヤーガーの回りは日本軍の塹壕(ざんごう)に囲まれるようにしてあり、一見兵隊の潜む壕のようになっていましたので、それで誤爆されたのではないかと思います。三月二十九日、一般住民しか避難していなかったヤーガーは爆撃を受けて大きな岩が崩れ落ち、中に居た人が押し潰されました。私はその日も家族と離れて壕の入口付近にいましたが、家族を含むヤーガーの住民はみな死んだものと思い、大きな爆音と同時に、私は一緒にいた※※の知花※※さん(大正三年生)とヤーガーを飛び出しました。艦砲射撃から逃げ惑う私達は、海岸にひしめく米軍艦船を見ながら、隠れることの出来そうな壕を捜し回りました。私達の後を追ってきた※※の※※(昭和五年生)と、三人でした。結局、焼け残っていた家に逃げ込んだ私達は、こんな所で死ぬくらいなら、兵隊と一緒に戦って死のうという話になり、島尻へ向かうことにしました。夕方の六時頃、旅支度を済ませ、いざ出発という時に、ヤーガーで押し潰された家族のもとへもう一度行ってみよう、本当に死んでしまったのかちゃんと確認してから出発しよう、そんな気持ちになりました。海を眺めると、海岸近くにぎっしりと押し寄せていた艦船は沖の方に引き揚げていました。私達はそれを確かめると再びヤーガーに戻ったのでした。
かつてのヤーガー入口
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 ヤーガーに戻ってよく見ると爆撃でヤーガーのすべてが崩れたのではないことを知りました。爆撃による落盤はヤーガーの中程付近で起こっていて、そこを境に前後にいた人々は助かっていたのでした。そして私の家族も後方にいて無事だったのです。私達はアブ小(グヮー)(ヤーガーの側の畑から天井部分につながる小坑道)からヤーガー内部の後方に行きました。アブ小は、後方からの出口代わりになっていました。しかしとても狭く、人ひとりがやっと通れるくらいだったので、壕の外で誰かが上から引っ張り上げなければ、外に出ることはできませんでした。わたしたちがアブ小からヤーガーに入ると、閉じ込められた人々はびっくりした様子でした。とはいえ真っ暗で、声を頼りに、とにかく皆を外に出すことにしました。※※さんといっしょに、ひとりはガマの中でみんなを誘導し、ひとりは外から引っ張りあげるようにして助け出しました。悲鳴をあげて、助けを求めている人がいますが、大きな岩なので助けてやることはできません。みんな何も話さなかったように思います。恐ろしさや、緊張で気が動転していたのでしょうか。助かった人々はそれぞれやんばるに逃げたり、墓に隠れたりしましたが、私達一家は浜小(ハマグヮー)に移りました。

立ちつくす人々

 浜小は海岸近くの崖にありましたので、私達は常に艦砲射撃にさらされていました。また、米軍の潜水艦や艦船がよく見えましたので、壕の外に出て恐る恐る眺めることもありました。ひしめきあう大艦隊で、圧倒される光景でした。浜小に隠れていた宇座の人々は発すべき言葉もなく、お互い黙ったまま米艦船を見つめていました。とても勝てる相手ではない、この戦争は負けるに違いない、そう思っても恐ろしくて口に出すことはできませんでした。死を覚悟しなくてはならない立場に立たされた私達は、お互いにそのことを口にするのを避けていたのです。ただ呆然と艦船を眺めていました。
 私達が浜小にいたのはほんの数日にすぎませんでした。私は荷物を取りに宇座に戻ったところ、浜小の様子を見た人が、「浜小の回りは上陸してきた米兵でいっぱいだから戻らないほうがいい」と私に教えてくれ、私は着ていた軍服を脱いで集落に残っていました。その翌日、家族は浜小で一緒だった人達と、米軍の勧めに応じて浜小を出て集落に戻ってきました。私は、家族を監視している米兵を見て、兵隊に間違えられて殺されるのではないかと、生きた心地がしませんでした。すぐに私は家族から引き離されて、都屋に連れて行かれ飛行場の滑走路づくりをさせられましたが、私は軍属時代に負傷した足が悪かったので、家族の元に戻ることが許されました。そして※※の家で収容生活が始まったのもつかの間、一か月程後には立ち退きを迫られ、米軍のトラックで金武に連れて行かれることになりました。飛行場建設のための立ち退きでしたが、何の説明もなくトラックに乗せられました。壕に住んでいた足の悪いおばあさんなども抱えあげられて連れ出されていました。

収容所にて

 私は金武から漢那の収容所に移され、テントで寝泊まりをしながら、日中は米軍に命令される作業をしていました。家族とも離れて、会うこともできずにいました。次に私は中川に移されて、収容された民間人の飯炊きをすることになりました。他の人があっちこっちに連れまわされて作業をしている時も、私は何処にも移動する必要もなく飯炊きばかりをしていました。家族と離れ離れの収容所生活も半年が経っていましたが、妹が金武村中川に訪ねてきて、家族がどうしているのか聞くことが出来ましたので、中川での作業が終わって解放されてからはすぐに家族の元に戻ることができました。掃除などの軍作業をして生活をしていた私達でしたが、読谷に帰れるようになって、一九四六年(昭和二十一)十二月、高志保に移ってきました。
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