第六章 証言記録
男性の証言


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長崎で被爆

勢理客※※ 大正七年生(本籍地 読谷村字牧原 アルゼンチン在住)

毒ガス兵

 私は一九三八年(昭和十三)に徴兵検査を受け、第一乙種で合格しました。そして、一九三九年(昭和十四)八月に宮崎県都城に配置されていた歩兵二十三聨隊に入隊しました。そこでは、行軍や射撃演習などの訓練があり、大変厳しいものでした。少しでも態度が悪いと思われたら樫の棒で殴られて、私の頭はでこぼこでした。一緒に入隊した牧原の冨里※※(屋号※※・大正二年生)さんは、戦地に行って帰って来ませんでした。同じ歩兵聯隊の中でも機関銃隊などいろいろありましたが、私の所属した八中隊はガス部隊で、毒ガスを撒く役目でした。ガス兵は背嚢(はいのう)に毒ガス筒を入れて背負って行き、戦場で毒ガスを撒くと同時に、敵の毒ガスを探知するのが任務でした。そうした任務に対応するため、防毒面を付け二キロほど走って行き、聨隊に戻りそのまま防毒面を付けてガスの充満した部屋に二〇分くらい入る訓練などがありました。防毒面の性能実験だったのかも知れません。そのせいかどうか分からないのですが、二週間ほどしてから熱発し、急性肺炎と診断され一週間ほど入院したことがあります。
 入隊して三か月を一期としてくくり、兵士に訓練や教育をしてから戦地に送っていました。その年の十一月二十日に、私の同期入隊組でも戦地に派遣する兵士を選ぶ検査がありました。その検査の時、私は胸膜炎(肋膜炎)で合格することができず、戦地(中国)に行くことはできませんでした。一緒に入隊し合格した人たちは、十二月二十五日に中国に向けて出発しました。その頃はお国のためにと思っていたので、一緒に連れて行って下さいと上官にお願いしたのですが、上官は「戦地に行くだけが名誉じゃない。故郷に帰って銃後を守るのも国のためだから、郷里に帰って早く病気を治して銃後を守りなさい」と言っていました。

帰郷

 私は、一九三九年(昭和十四)十二月二十八日に沖縄に帰って来ました。自宅で療養しながら、北谷の病院に通い胸膜炎の治療をしていました。胸膜炎には猫の肉がよく効くということで四回くらい食べたことがあります。病院には歩いて行くのですが、呼吸するのが苦しくなって牧原から嘉手納駅まで行くのに二、三回も休んでいました。そのうちに畑仕事ができるくらいにまで回復したので、一生懸命働いていました。そうしているうちに、今度は「白紙召集」されました。白紙召集というのは軍需工場への徴用のことです。一九四二年(昭和十七)七月のことでした。

長崎県の川南造船所へ

 私は長崎の西彼杵郡(にしそのぎぐん)の川南(かわみなみ)造船所に徴用されました。その時読谷から一緒に行ったのは、喜友名※※(高志保)・岳原※※(長田)・山内※※(長田)・山城※※(座喜味)・山内※※(宇座)の五人です。各地から徴用で来ていた若い人達でも、徴兵年齢になると造船所から入隊していきました。
 私は最初の一年は足場工をやっていました。足場工は、船を造るための足場を組み立てる仕事を担当する、今でいう鳶の仕事です。二年目からは「かしめ工」といって、船の木と木の継ぎ目を鋲であいうちして隙間を埋める仕事をしました。
 当時の日課は、朝六時頃に起床して六時二十分頃朝食を食べ、八時には出勤でした。十二時から一時までが昼休みで仕事は五時まででしたが、戦争が激しくなってからは毎日十時頃まで残って仕事をしました。ひどい時には二十四時間ぶっ通しで働くこともありました。敵が日本に向かっているから一日でも早く、一隻でも多く船を造らなければということで、海軍の司令長官が激励に来ていました。その時は工員を広場に集めて「日本は勝つ。もし負けたら日本人は玉砕して国だけを渡す」というふうな訓示もありました。だから一生懸命やりなさいということでした。夜作業をする時は、明かりがもれて空襲の目標にならないようにとテントを張っていました。金属を溶かしたりするためにコークスを燃やしていましたが、テントを張っているために空気が入らず、二酸化炭素中毒で亡くなる人もいました。たまに空襲を受けることもありましたが、その時には朝鮮の人達が掘ってくれた防空壕に避難しました。一九四四年(昭和十九)の空襲の時に、防空壕に逃げる途中機銃掃射を受けたこともありました。

原爆投下、死体を片づける

 一九四五年(昭和二十)八月九日、長崎に原爆が落とされた日も私達は造船所で作業をしていました。川南造船所は爆心地から一〇キロメートルほどの距離にありました。その日はとてもいい天気でした。稲妻のように光った瞬間、造船所のガラスが割れて落ちてきました。空襲警報だからということで逃げる時に、そのガラスの破片でけがをする人もいました。私は船の一番底の方で仕事をしていましたがピカッと光るのは船の底に居てもわかりました。外に出て見ると、爆心地の上空はタイヤを燃やした時のように真っ黒い煙が上がっていました。爆心地から離れているので直射はうけていません。その頃は原子爆弾なんて知りませんから、みんな大型爆弾だと言っていました。川南造船所は香焼島(こうやぎじま)にありましたので、長崎市内に行くには船を利用していました。その時はそんなに大変な爆弾だとは思っていませんでした。
 空襲警報も解除になり、お昼時間になってから、長崎は火事になっているから作業服も着替えて、救急作業に行くことになりました。それまでは自分で繕(つくろ)った継ぎ接ぎだらけの作業服や地下足袋を履いていたのですが、その時に新しい作業服や地下足袋を支給されました。三時の定期船で長崎に行きました。県庁付近に大豆や米がたくさん入った大きな食糧倉庫があったのですが、そこまで火が近づいていました。消防隊は水をかけ、私達は二人一組でその食糧を運び出しました。その日はお寺に泊まりました。夕食はおにぎり二個でした。翌日十日の朝は六時から死体を片づけました。真っ黒に焼けた死体もあるし、半焼けの死体もありました。数日間救助作業や死体の片付け作業をしました。
 戦争というのはほんとに怖いものです。原子爆弾が落ちた爆心地に近い所では、かなり頑丈で奥行きがある防空壕に入っている人達も死んでいました。死んだ人は担架に乗せて一か所に集め、トタンの上に乗せて石油をかけて焼きました。それが三間(約六メートル)ほどの間隔でいくつも焼かれていました。川は死体で堰き止められるほどでした。水を求めて川に飛び込み、そのまま死んだ人達がたくさんいたのです。また、出産直前の妊婦がショックで産み落としたのか、あかちゃんが飛び出て、そのまま死んでいましたが、かわいそうでとても見ていられませんでした。夏ですから四日目ぐらいからは臭くて大変でした。道路にある死体は山羊を焼いたように真っ黒に焼けていましたが、そこまで焼けている死体はあまり臭いはありませんでした。半焼け状態の死体はとても臭かったです。まだ生きている人は「助けてくれー。水を飲ませてくれー」とすがって来ました。半身以上焼けている人は助かりませんでした。助かる見込みのない人には衛生兵が毒を注射していました。

敗戦

 数日後、造船所の寮に帰ることになり波止場に着いた時、アメリカのグラマン機が低空で飛んで来ました。どうして攻撃しないんだろうと思っていましたが、寮に帰って初めて日本が無条件降伏したことを知りました。寮長に「戦争に負けたから、君達は早く出て行きなさい」と言われた時はみんな泣きました。軍需工場に働いていた人達は、ここにいては米軍の捕虜になるから一日でも早く退避しなさいということでした。本土出身の人達は自分の故郷に帰って行ったのですが、沖縄の人は軍需工場が所有していた農園で一時働くことになりました。八月二十六日、造船所にいた頃から友達だった中城出身の人が「私の知り合いが東京にいるから、会いに行こう」と言いました。私も一緒に東京に行きました。東京に行くのも一週間がかりでした。東京に着いてすぐに靖国神社に行き、それからその人達を探し始めました。ところが、東京も焼け野原で、靖国神社のあたりもかなり変わっていました。人を探すのは大変でしたが、交番で尋ねてその人達に会うことができました。

沖縄引き揚げ

 その後長崎に戻りましたが、家族の消息はまったく分からず、沖縄は玉砕したと聞いていましたので、あるいは家族ももしやとの思いでいっぱいでした。
 私の家では長兄は一九二九年(昭和四)、次兄は一九三五年(昭和十)にアルゼンチンに移民していましたので、私が沖縄に帰らなければ家族の遺骨を拾う人がいないからという覚悟で、一九四七年(昭和二十二)八月に沖縄に引き揚げて来ました。インヌミ屋取(現沖縄市高原)から軍のトラックで嘉間良に連れて行かれました。そこに楚辺の人がいて、私の家族が石川で元気に暮らしていることを教えてくれました。私の父は若い頃足を痛めて普通に歩けないので、避難することもできずに亡くなってしまったと思っていたのですが、両親も三人の姉や妹も生きていて、石川にいるとのことで喜ぶと共に、この幸運に感謝しました。
 八月二十四日か二十五日頃、石川に行きました。配給所の前にはたくさんの人々がおり、そこで親戚に会い、家族に再開することができました。家族は山原に避難していたそうです。その時確認はしませんでしたが、福岡の沖縄連絡事務所に登録をしてありましたので、家族は私が生きていることを知っていたのかもしれません。その後しばらくして結婚しました。
 読谷では各字から何名かずつ割り当てして、建設隊が既に村の再建に頑張っており、私も行くことになりました。その割り当ての係をしていたのが私のいとこで「軍作業に行った方が儲けられるが、建設隊に行ってくれないか」ということでした。最初は波平に、それから大木に行きました。五、六年ぶりに見る故郷はとても変わっていました。
 一九四九年(昭和二十四)からは軍作業に出るようになりました。測量部に属して道路建設のための測量をしていましたので、村内の立入禁止区域にも入ることができました。
 その後、一九六〇年(昭和三十五)一月二十日にアルゼンチンに渡りました。(アルゼンチンでの生活の様子は割愛しました。編者)

被爆について

 二次被爆による後遺症はありません。一九八五年から長崎・広島から、被爆して外国に行った人達のための「海外派遣医療」というのがあり、アルゼンチンで三年続けて検診を受けました。被爆者の人達で被爆補償の要請を一九八九年に日本の国会に出していますが、何の返事もありません。南米にいる被爆者が、原爆が落とされた日に集まって、その当時の話をすることもあります。アルゼンチンには私を含めて一八人、ブラジルには一五〇人ほどいるそうです。
(一九九〇年八月三十日採録)
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