第六章 証言記録
男性の証言


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避難の体験記

玉城※※(渡慶次・※※)昭和五年生

上陸直前の米軍攻撃とやんばる避難

 一九四四年(昭和十九)十月十日の大空襲以来頻繁にB29やその他の米軍機が来襲し、毎日不安な日が続き一日として心の安まることはなかった。
 一九四五年(昭和二十)三月二十三日午前九時頃、どんより曇った東の空を北から南へ、どす黒く、薄気味悪いグラマン機が編隊飛行して行くのが見えた。てっきり空襲が始まるものと覚悟し、素早く防空壕に飛び込み、私の上に爆弾が落ちないようにと祈った。来襲した米軍機は、中南部一帯へ猛爆撃を加えた。庭の防空壕にいては不安なので渡慶次地下の大きな自然洞窟へ一目散に駆けこんだ。多くの字民が身の回り品や食料を取りまとめて先に避難していた。ほのかなランプの光がところどころで灯っていたが、人の顔は近づかないと分らない程暗い。洞窟の中は空気の流通が悪いので大勢の人の吐く息と洞窟特有の臭いとが入り混じって異様な臭いだった。窮窟な思いで日中をすごした。夕方になると米軍機も何処かへ去って仕舞い、低空飛行の爆音や爆弾の炸裂する轟音(ごうおん)は止み、もとの平和なような静けさになった。みんなはほっとした気持ちで壕から這い上がり新鮮な空気を吸った。各自、家へ帰ると家畜のエサや自分達の食料の準備で、イモを掘ったり炊いたり、鬼の居ぬ間にという気持ちで寸暇を惜しんだ。
 宇座は大被害を受けているとの知らせが入り、夜になってから大人の後について恐る恐る潟野(カタノー)を通って宇座に行った。家がすっぽり入るかと思える程の大きな爆弾の跡があった。石垣も家も皆吹き飛ばされ見る影もなかった。爆弾の威力にただおろおろするばかりのところへ、「ここは※※(屋号※※)だ」と誰かが言った。渡慶次の大人達は消火作業の応援に来ていて、残り火を消していた。あちこちで火はまだくすぶっていた。屋号※※の豚と牛が焼け死んでいたので皆んなで分けてくれと連絡をしていた。
 私は手探りでイモを掘って家に帰り、明かりを外へもらさないようにしてそれを炊いた。今見て来た宇座の光景を思い出すと、明日は我が身の上かと考え、不安でならなかった。
 翌三月二十四日、今日も朝から米軍のグラマン機による空襲である。連続して二日も空襲を受けるのは初めてであり、若しや米軍は上陸を敢行するのではと不吉な予感がした。
 私は、※※の南西の角にある大ガジマルに青年達と一緒に上って対空監視を務め、洞窟(ガマ)の中にいる人達へ見える範囲内の一部始終を報告していた。そのうち、字内の上空を飛行していた数機のグラマンは何を見たのか急に旋回したかと思うと、部落内を東西に何回となく機銃掃射を浴びせ、息つく間もなかった。ガジマルの上の方に上っていた玉城※※と大城※※は下りる余裕もなく、機銃弾を避けてガジマルを楯にぐるぐる回った。私達はすぐ傍にあった露天の防空壕へ身を伏せたまま、釘付けにされ身動きも出来なかった。
 初めてまともに耳にした低空飛行の爆音、バリバリと機銃の音、これ等が交錯して押しつぶすような轟音に気も狂いそうになり「もうこれまでか」と思った途端、儀間※※が「やられた」と叫んだ。どれ位の時間がたったか非常に長いように感じられた。飛行機の爆音は遠のいた。生きてはいるか銃弾を受けたのではないかと、お互いの無事を確かめ合った。やられたと叫んだ※※は背に機銃弾で跳ね返ったピンポン大の石片が当たったことが分った。
 集落内至る所、石垣にも立木にも家屋にも無数の機銃の弾痕が残った。物珍らしそうに皆でそれを見てまわった。屋号※※の屋根の天辺が煙り、燃え始めているのを二、三人で消し止めた。先刻の攻撃で※※のメーヌヤー(離れ)、※※、※※は大火事となり消火の手の施しようもない程となったが、幸いにして隣近所への類焼は免れた。※※の※※は、引っ切りなしに低空飛行で機銃掃射を浴びせられる中で、一人で必死の消火作業を続けていたが、あとで来援した人々とともに、一間と離れていない主家(おもや)への類焼を防いだ。
 三時頃また爆音がして来たので壕へとんで帰った。ドシン、ドシンと爆弾が落ちた振動が伝わった。壕内がその度に揺れて小石が落ち、土くずれが起こった。人々は、今にも壕がぺしゃんこになるような恐怖感に襲われた。胸を圧迫するような爆風と目もくらむような閃光が襲い、壕内の者は奥の方で一塊になり、肩を寄せ合いブルブル震えながらじっと恐怖をこらえていた。壕内がひどく揺れることと、圧迫するような爆風からして、爆弾の投下されている位置はここから非常に近いと思った。だとすると、集落を片端から破壊していてやがて頭上にも投下され、壕もろとも木っ葉みじんに吹きとばされてしまうのかと思い、ますます死の恐怖は募るばかりで、死ぬのはイヤでどうしても生きたいと思った。
字渡慶次の地下には地下洞窟群がある。その中の一つ屋号※※の洞窟内部(琉球新報社提供)
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大人が立って歩けるところも
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当時のものか、かまどが
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 夕刻米軍機は姿を消し、地上はもとの静けさにかえり昼間の出来事は夢のようであった。
 三月二十五日、今日も朝から米軍機は編隊を組んで飛んで来る。遠くの方を爆撃しており字内は無事に一日が終わりそうであった。昼下がり飛行機の爆音もすっかり消えたので壕から這い出た。
 残波岬から那覇にかけて海上一面に黒い艦船がぎっしり浮かんでいた。「いつの間にどこからやって来たのか」、「夢か現(うつつ)か」自分の目を疑った。「敵か」「味方か」「いや日本の連合艦隊が沖縄を守りに来たんだ」「敵だ、やがて上陸するに違いない」とそれぞれかってな憶測をした。友軍か米軍かは全然見当がつかない。艦船からも上空からも攻撃はなく、艦船は動く様子もなかった。ぎっしり詰まった艦船を足場にすれば慶良間まで渡ることができそうであった。夕やみがせまる頃、不気味に静まり返った様子に嵐の前の静けさかと思った。
 郵便局長の幸地※※、区長の玉城※※それに玉城※※の三人が郵便局へ行き、電話で「下にいる艦船は敵か味方か」と問い合わせたら、向こうも「分らない」との返事で、仕方なく引き返した。
 しばらくすると比嘉巡査と新垣※※警防団長(※※)が壕を訪れ「ここは間もなく艦砲射撃が始まり米軍が上陸するので、住民は危ないから早く国頭へ避難するように」との避難命令を伝えた。静かに聞いていた一同は大いにうろたえ、中には泣き叫ぶ者もいた。そしてある人は「我々は向こうまで歩けないし、どうせ敵が上陸したら、どこにいても殺されるんだ。我々はここにいるから、向こうに行く人は米を配ってから行ってくれ」と区長に頼んだ。しかし、区長は「米の配給は上から指示がない限り勝手に配給する事は出来ません」と断った。
 各自家へ帰ると、食料、衣類、寝具等を取りまとめた。男たちは天秤棒でそれらをかつぎ、女たちは頭にのせ、馬車のある家庭はそれに積み込み、それぞれの家を後にして国頭の避難先へ急いだ。
 私たちが出発する頃はもう日はすっかり暮れ、あたりは暗くなっていた。瀬名波を通り長浜の橋を渡り、山田で県道に出ると中南部から北部へ、避難地に向かう人達で道はごった返していた。二月から三月にかけて家族を国頭村桃原、辺土名等に疎開させた人達はそこをめざして歩いていた。何時間歩き続けたか、どこまで来ているのかも知らなかったが、もうだいぶ疲れが出て口を利く者はなく、北へ北へ黙って歩き続けた。
 名護の近くだったかはっきりしないが、我々とは正反対に南へ大砲を運んで行く三〇人位の友軍の兵隊に出会った。避難して行く者の中から「兵隊さん頑張ってようー」「頼みますようー」と言うと、彼等は「大丈夫だから皆様も元気でなー」と応えた。「あの大砲で今に敵兵をやっつけるのだ」と思うと心強くなった。
 夜が明けて明るくなると米軍のグラマン機が現れ、低空しては我々に機銃掃射を浴びせて来るので、昼間はフクギの陰に避難した。特に馬車は第一の攻撃目標だったので、見られないように隠した。昼間敵機の攻撃がある間に、腫れ上がった足を休め、疲れをいやした。
 夕方米軍機が姿を消し、安全となったのでまた北へ向けて歩き出し、三月二十七日の夜半、先に避難していた国頭村桃原の家族の元へたどり着いた。
 桃原の東方にある小山に壕を掘り、昼夜の別なくそこで避難生活が続いた。

食料を求めて

 四月初旬の夜、「米軍が上陸する」の情報が入り、荷物をかついで全員山へ上った。与那覇岳の中腹あたりで、集落から約二里の道程だといわれた所に、避難小屋があった。この小屋は県庁の命令で地元の方々が建てたものであった。床も壁も竹で出来ており、釘は一本も使わずつる草でゆわえてあった。
 避難中誰でも先ず要求されるのが食料で、避難中は食料探しの明けくれだった。時には共同で馬を買い入れ、つぶして食料不足を補った。他所から馬肉を少しでも良いから分けてくれと頼まれても、分けてやるにもまともな物はないので、馬の足の部分をあげたら喜んでかついで行った。
 桃原の避難小屋でいろいろ思案し、食料を求めるために読谷に行けるかどうかと、玉城※※、玉城※※の二人を探検隊として送ったが、川田、平良の近くまで来た所、電話線の張られている傍に友軍の兵隊が殺され、倒れているのを見てびっくりし、東方の山中に入って身を隠したと言う。そこには布団や木刀等が捨てられていたが、木刀には渡慶次小学校知花※※と書いてあったという。
 大人の話を聞いていると、いつかは餓死してこの山の樹木の肥料になるのかと思うと、淋しいような、悲しいような気持ちでいたたまれなくなった。しかし、どうしても死ぬのはいやで、どうにか生きようと気持ちを切り替えていた。
 避難生活中は、たとえ米の一握り、イモの一つでも、分けてくれる人はなかなかおらず、金で買おうと思っても売ってもくれなかった。そもそも買う金もなくなっていった。
 山での避難中は食べられると思ったら、何でも片っ端から食べた。例えば、ミーンム(メイモ)、イモの葉、タマナ(キャベツの下葉)、パパヤ木の芯、チーパッパー(石蕗(ツワブキ))、ヘゴの芯、ニンブトゥカー(すべりひゆ)、桑の若葉、グミの実、椎の実、馬肉、蛙、カタツムリ等であった。味付けする塩がなくなってからは、ビンに海水を汲んで来て使用した。
 このままでいると餓死するので、悪い事とは分かっていたが夜、畑からイモを盗んで来てイモ汁を炊き、一杯づつ分けあって食べ、飢えをしのいだこともあった。地元の人達からは「避難民は皆盗人(ヌスルー)だ」と白い目で見られたが、背に腹はかえられなかった。時が経つにつれて地元の人達も理解し、一諸に生き延びようという事になった。
 米兵はヒージャーミーで、夜はものが見えず夜間行動が出来ないので、夜陰に乗ずれば食料取りも安全だとの噂が伝わり、夜の食料取りが始まった。最初の頃は楽に二、三〇斤のイモを取って来たが、地元民や大勢の避難民が毎晩取るのだから、たちまち減り、小イモさえも入手困難となった。そうなると危険を承知の上で米軍陣地のすぐ近くまでも腹這いになって行き、イモをあさった。
 陣地の周囲は鉄条網を張り巡らし、それに缶詰の空缶をぶら下げてあった。陣地の近くまで来ているのに気付かず、鉄条網に触れ、空缶がガランガランと鳴った。すると、突然陣地から照明弾が打ち上げられ、パッと音がしたかと思うと、遠くまで煌々と照り輝き真昼のようになった。それと同時に機関銃が猛烈に発射されてきたので、素早く地面に身を伏せ、畑の溝までゴロゴロ転がって行き、窪みで雨のように飛んで来る機関銃弾を避けた。照明弾も次々打ち上げられ、青く光る曳光弾はビュービューと飛んできて、自分の近くにプスプスと無気味な音を立てて突き刺さった。この間五分ぐらいだと思うが、長い時間のように感じられ、生きた心地はしなかった。そのような状態が毎夜二、三回もあり、しかも辺土名、鏡地、比地でも同様なことが起こった。あっちこっちで、銃撃を受け死傷者が出る痛ましい事件も増えた。
 山の中ではシラミ取りが日課の一つになった。着物を脱いでは裏返して、縫目、折目にぎっしり詰っている奴を片っ端からつぶした。脱いだ着物を鍋でゆでても、又二、三日すると元通りに集まるありさまで、今でも身の毛がよだつ思いでゾッとする。
 ある日、山内※※(※※)は食料を取って帰り道ハブに足を咬まれ、非常に苦しんでいた。最初、※※は刺(トゲ)にでもささったのだろうと軽い気持ちでいたが、※※のおばあさんが見て「クレー、ヤナムンルヤシガ(これはハブに咬まれた跡だよ)」ということで、早く手当てをしなさいとせきたてた。※※のお父さんがカミソリで切ってしゃ血をし、二倍にも腫れ上がっていた足は、日々快方に向い後日全快した。山原は非常にハブの多い所で知られているが、避難生活中私の知るハブの被害はこの一件だけである。
 七月頃になると米軍は掃討戦に入り、与那覇岳に迫撃砲を打ち込んで来た。頭上をビュービュー越える音や近くで炸裂する轟音は肝を冷す思いだった。避難小屋は片端から火をつけて焼かれていった。彼等が立ち去った後を見て来た人の話によると、手榴弾を投げ込まれたのか、天井、壁、床などに人間の肉片が飛散し、むごたらしい光景だったという。
 南の方には奥間の避難小屋があり、そこが焼かれた時は、火の粉や灰がしきりに私達の避難小屋の周辺にも降ってきた。その頃からは、身の危険を感じ昼間は小屋から遠く離れた山奥の、ワラビの茂みの中へ身を隠し、米兵に気付かれないように息を押し殺し、子供が泣いたら手で口を押さえて声を出させないように、大層気を配った。折からの雨にびしょぬれになり、一日一日が何十時間にもなったように長く感じられた。この騒ぎも四、五日で終わりほっとした。

一本松の峠

 夜間の芋探しは毎日続いたので次第に生活リズムみたいなものができた。
 芋を掘り終え、夜が明けないうちに帰り支度をして帰る。フーザチやターチュームイ(桃原にある二つの山)あたりから山の麓までは二キロメートルほどあって、麓と県道を越えるまでは安心出来なかった。何故なら見渡す限り平坦で鏡地や比地からは、何一つ障害物はなく狙われやすかったからであった。麓から上って行くと二キロメートルほどの所に一本松の峠があり、ここは誰が決めるともなく、行き帰りのみんなの休憩場所となっていた。そこからは鏡地の陣地も手に取るように見下ろすことができた。
 ある夕方、そこから友軍の兵隊二人が双眼鏡で陣地を覗き「堅固にされていて、斬り込みは一寸難しい」とつぶやいた。更に彼等は「首里も米軍の手に落ちた」と言った。中飛行場、北飛行場が米軍に占領されていることは、そこから難を逃れて国頭の山中に来た防衛隊員から聞いて以前に知っていた。そして今また首里もとなると、果たして日本は本当に勝てるのか、日本の必勝を信じて疑わなかった我々は、ますます不安になっていった。
 夕方用意してきた松明(たいまつ)は一本松の峠にしまってあったので、各自取り出してここからは堂々と明りをつけて帰った。途中至る所に人間の死体があり、死臭を絶えきれず鼻をつまみ、自分もいつかは、あんな姿になるのかと思うとやたらに悲しくなった。明りをつけてから二キロメートル程行くと比地川の上流にさしかかった。水深は、深い所で膝位、川幅は約一〇メートルの所を川づたいに坂を上って進み、右の谷川を更に奥へ行き、樹木(大半は椎の木)の生茂った中にある自分の避難小屋に辿り着いた。

投降

 山の中にいても食料がなければ生きられないので、辺土名の山奥に避難していた人達は、自分の郷里に行けば畑にイモも沢山あるので、腹一杯食べられるし、何とかなると思い、飢えと疲労とたたかいながら荷物をかついで南下した。一部は安田、安波へ出て東海岸ぞいに、また一部は山の中を南へ南へと歩き続けては野宿し、雨が降ると寝具や布団をかぶってしのいだ。濡れた布団は重くて持てなくなり仕方なく山の中へ捨てた。こうして幾十日か山中を歩き続けていたが、既に食料も尽き、どうにもならないと故郷へ行くことをあきらめ始めた頃、奥間の山中避難者は前日、全員山を下り米軍に投降したという情報が入った。
 それで、我々はどうすれば良いか皆で話し合った。ある人は「自分の子供は兵隊に行って、米軍と戦っているのに、みすみす敵の前に手を上げ降参していく事は出来ない」と言い、「一緒に山を下りても男と女とは別々にされ、家族が一緒に住む事も出来ないであろう。又男は耳や鼻を切り落とされ目玉をくりぬかれたりしてから殺されるかと思えば、山を下りる気になれない」と言う人もいた。しかし大かたの意見は、この後どうなるか分らないが、一応山を下りようと決まった。
 七月二十三日午後、多くもない荷物を棒でかつぎ、食料取りに毎夜通った山道を、二度と来る事のないであろうこの山道を、全員で集団をなして下った。山を下りる時の午後の太陽は我々の胸中の重苦しさとは逆に、にくたらしくさんさんと照輝き、強烈に感じられた。
 振り返ってみると、去る三月二十三日以来今日までの一二三日間の避難生活、それは住民にとっては米軍との戦いだけではなく、飢え、病気、雨などとの死闘を続けて来たのである。目は落ちくぼみ、体は極度の栄養失調でやせ細り、骸骨の上に皮を張ってあるように、立って歩くのもやっとの事で、指先で小突いても今にも倒れそうであった。
 そして民間人収容所に行き着いた頃は、ほとんど何も食べてなく、極度の疲労と飢えによる栄養不良、さらにマラリヤ病に罹る者もおり、絶え切れず衰弱した者は次々に倒れて、一家族で二、三人も死者を出したところもあった。
 絶望のどん底に突き落とされ、この先我々はどうなるのか、アメリカの奴隷になるのか、皆目見当がつかなかった。悪夢のような戦争、悲惨な殺し合い、それは余りにも残酷で、恐怖の地獄絵図であった。何の罪もない住民を戦争に巻き込み、数多くの犠牲者を出した。その罪は一体誰が負うべきか。戦争の恐ろしさ悲惨さは、直接肌身に触れて体験した者であればこそ、その本当の恐さを忘れないのである。

〈追記〉

 「山城※※さん(※※)はスパイとなって、米兵を連れて来て私達を捕虜にするそうだ」と海抜四九八メートルの与那覇岳の中腹一帯の避難民から非常に恐れられた。「何故山城※※さんがスパイになったのか」とある人は非常に憤慨し、山中は大変な騒ぎとなった。
 一九七一年(昭和四十六)九月十三日、当人に会い、スパイ呼ばわりされた事の真相を語って貰ったのでここに紹介します。忘れかけようとしている悪夢のような戦争避難の山中での出来事ですが、当時の誤解を解きたいと思います。
 「私は昭和二十年四月中旬頃、辺土名の山すそで、馬餌の笹を刈っていたところ急に数人の米兵に包囲され銃をつきつけられて捕らえられ、羽地田井等の収容所へ連れて行かれた。そこには大勢の避難民が先に来ていて、自分一人が米軍に捕まったわけではないと分かり安心した。収容所から毎日米軍のトラックで方々の作業場へ行った。読谷辺りまでも行って作業をした事があった。米軍の物資物量が豊富にある事や、二か月足らずでボーロー飛行場をつくってあったこと等、全てを勘案した場合、日本はもう完全に負けだと思った。収容所では両手一杯の握り飯があり、腹一杯食べられたので、山中でひもじい思いをしている家族や知人を収容所に連れて来て安心させようと思い、五月の下旬辺土名の山中へ舞い戻り、その話をしたのがスパイ嫌疑の原因となったと思われる」と彼は語った。
 スパイと聞いた日本の兵隊四人が、山城さん一家を小屋の前に引きずり出し、手榴弾で皆殺しにしようとした。山城は兵隊達に「一寸待ってくれ、私の長男も貴方方同様軍人として今島尻で米軍と戦っているのだ。その父親がどうしてスパイが出来よう、また何の罪もない妻子を殺す理由もない筈だ。山を降りないから殺すなら私だけにしてくれ」と言ったら兵隊達も思い留まり、その場に居合わせた辺土名の巡査部長に身柄を預け、山城の保護監察をさせた。その後、巡査部長は山城の素情を方々で聞いて回り、山城は良い人だということを確認した。そしてスパイ嫌疑も晴れて自由の身となり、七月下旬に山を下りるまで山中での避難生活を続けたのであった。
(『渡慶次の歩み』より、玉城氏の許可を得て一部修正のうえ転載。)
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