第六章 証言記録
男性の証言


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徴用、十・十空襲、そして避難

佐久川※※(比謝・※※)大正十四年生

徴用で輸送船員に

 私が徴用されたのは一九四三年(昭和十八)の初夏だった。職種は輸送船の船員で、希望して行ったわけではなかったが、その頃就職希望の願書に「船乗り希望」と書いていたので、それを見てのことだったのかも知れない。給料もあり、危険手当込みで月給二五円程だった。当時中等学校卒業者の初任給が五円程であったが、軍属ということで優遇され、代用教員並の高給であった。
 最初は鹿児島市内で一か月間、船員としての訓練を受けた。本来ならば一年間の訓練期間が必要であったが、戦争が激しくなり、船を失い船員が少なくなっていくにつれ、その期間がしだいに短縮され、私の行った頃は一か月間になっているということだった。船員には機関員と甲板員がおり、私は甲板員としての乗船だった。機関員は船のエンジン部分を見る仕事で、甲板員は、船の舵取りや備品の整理、またペンキ塗りやロープの点検などが仕事だった。
 一か月の訓練を終え、門司港へ行きそこでしばらく待機した後、近海航路の船に乗ることになった。この船は定員一二名の小型船で、元々は大分県の大きな製錬所のある佐賀関(さがのせき)の民間船で、「佐賀関丸」といった。しかし徴用された後は「二十三番」と呼ばれていた。私はその船に乗り、奄美大島の瀬戸内町に古仁屋(こにや)という軍港があったが、その奥にある海軍のセソオ基地を起点に、喜界島や南大東島の陸戦隊に、二五ミリの二連砲や機関砲、弾薬、食糧、糧秣を輸送していた。
 南大東島には港がなく、岸壁に船を横付けし、島からクレーンで物資を陸揚げしていた。一度目の輸送の時、錨がひっかかり手間取っている間に、別の船が先に陸揚げすることになったのだが、その船が岸壁に横付けした時に米軍の攻撃を受け魚雷が命中した。私達の船が予定通りに行っていたらやられていた。その時「人の運命はどうなるかわからない」と思った。
 航海するときは、輸送船だけでなく、敵の攻撃に備えて護衛艦、駆逐艦、海防艦など七〜一〇隻で船団になり移動していた。輸送船には機関員四名、甲板員六名で乗船したが、食糧は一二名分の配給であったので入港するときには、倉庫で余っている食糧を海に捨てていた。これは配給が減らされては困るので、全部食べているように見せるためだった。

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 この写真の裏には
「昭和6年9月21日より10月7日に亘り海軍演習にあたり本島に特設航空隊設置さる。9月23日飛行機6機飛来着陸す(丸山飛行場に於て午後1時撮影) 他に飛行艇5機軍艦カシ(駆逐艦)24号大東島で初めて飛行機を見る」
 と記されている(南大東島まるごとミュージアム島まるごと館提供)

十・十空襲は南大東島沖で

 一九四四年(昭和十九)十月十日、二度目に南大東島へ向かう途中に空襲が始まった。我々の船団をめがけて、米軍のグラマン機からの爆弾が落とされた。それが一隻の護衛艦に命中し、その船が黒煙をあげ沈んだ。指揮艦からは「各船自由行動せよ!何時何分に大島沖に集まれ!」という命令が出て、九隻の船団は蜘蛛の子を散らしたようにその場から逃げた。我が二十三番船の船長は全速力で南大東島を旋回するよう機関員に命じた。島には高射砲があったため、敵も島には近づきにくいという考えからだったと思う。沖縄本島では早朝から空襲があったと後で聞いたが、この日の午前十一時頃には大東島方面にも米軍機が来ていた。その後奄美大島沖に集結し、船団はそのままセソオの基地に戻った。そこで鹿児島の方へ向かうように言われ、鹿児島へ行った。そこで食糧などを積み込んで今度は北大東島に向かおうとすると、硫黄島に米軍が上陸するというような情報があって、また古仁屋の方で待たされた。実際の硫黄島への米軍上陸はもっと後であった。
上下とも、南大東島の海岸線に現在も残る銃眼の一部
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家族に面会、そして米軍上陸

 一九四五年(昭和二十)一月、この二十三番の輸送船は、空襲を避けるために無理な運航を重ねたので機関部の修理が必要になり、地元大分の佐賀関にドック入りさせることになった。私はその間を利用して、一か月間の休暇をもらって、二月に沖縄へ帰った。沖縄は十・十空襲で全滅したという話を聞いていたので、家のことが気になり、願い出て帰してもらったのであった。
 沖縄の家族に面会にきて無事を確認したのも束の間、一週間後には父親に徴用令が来た。小禄飛行場の下方に壕を掘るためということだったが、父は腰を痛めており、私が代わりに行くことにした。徴用の期間は一か月ということであった。しかし、しばらくすると空襲や艦砲射撃が激しくなり、小禄飛行場での徴用は解除になって比謝に帰ってきた。
 初めは比謝東のヤチミーグスク近くにある古墓を避難壕にしてそこに居た。しばらくすると米軍の艦砲射撃や空襲が頻繁にあり、荷造りして喜瀬武原に避難することにした。しかし食料が不足気味で心配だからと、祖母と妹達を残して両親と叔母、※※のおじさん(松田※※)と私の五名で、比謝の家に食べ物を取りにいくことにした。
 三月三十一日の夕方、私達は喜瀬武原を出た。歩いて親志辺りまでくると、艦砲射撃が激しくなり、喜名からはさらにひどくなった。これ以上進むのは無理だからやめようと思ったが、喜瀬武原に残してきた祖母や妹達のことを考えると、ここまでは来ているし、いまさら引き返すわけにもいかないと、何とか進んでいった。ようやく比謝の自宅にたどりついたが、古堅国民学校辺りの兵舎をめがけていたのか、米軍の攻撃がすさまじく、身動きが取れない程の状態になっていた。これじゃもう食料どころではないと、走って持って行けるぐらいの分量の米とフシカブ(切り干し大根)を担いで、四月一日の夜明け前に隣組で掘ってあったフカサクの壕に入った。そこでは大湾の※※の家族三名を含め八名が一緒だった。私達家族はここで夜になるのを待って、すぐに年寄りと子どもだけを残してきた喜瀬武原に帰るつもりでいた。
 しかし午前十時頃、戦車の轟音と共にアメリカ兵がどんどんやってきた。壕の入口から外を見ると、見慣れないアカガンター(赤い髪のアメリカ兵)がいっぱいで、話声も聞こえた。私達は暗くなるまでそこにじっと潜んでいたが、夜になると※※の兄さんと私達の家族でその壕を出た。どこもかしこもアメリカ兵がいる中へ出ていくのだから、と動きやすいように食料も持たなかった。ただ逃げるだけで精いっぱいだった。※※のおじさんとおばさんは壕に残ったと記憶している。
 私達は県道沿いを歩いて喜瀬武原まで行くつもりだったが、そこにはアメリカ兵の野営テントがたくさん張られているのが見え、喜名入口には大砲がありドドーン、ドドーンと砲弾を撃ち続けているので、とても行ける状態ではなかった。そこで山の中を歩いて行くことにしたが、喜名東の山中で敵の陣地に入り込んでしまった。音のする物を張り巡らしてあるのも分からず、その中に入り込んで音をたててしまったので、手榴弾を投げられ、さらに機関銃の掃射を受けた。もうおしまいだと思ったが、それでも岩の間に伏せ、地を這って逃げまどっているうちに家族はちりぢりになって、私はひとりぼっちになっていた。時間にすればほんの数分のことであったはずだが、私には一時間にも感じられ、生きているのは自分だけだろうと思った。
 それからその日は一日、大きな木の根に身を隠してじっとしていたが、五、六〇メートルも離れてないところを、アメリカ軍の車が次々通っていた。今思えば、伊良皆のサシジャーガーの近くだったと思う。夜を待って、これが最後の水かもしれないからとお腹いっぱい水を飲んで、また暗い山の中をさまよい歩いた。その時、アメリカ軍の小銃の弾やケース、鉄かぶとなどを見つけては、穴を掘り土に埋めていった。なぜこんなことをしていたかというと、アメリカ軍にあんな豊富な物資があるとは知らず、日本軍は演習時に薬莢(やっきょう)一個を紛失すると一か月かけてでも、見つけだすまで捜し続けるぐらいの執念深さであったから、アメリカ軍も同じだろうと考えて少しでも弾を減らせばいいと考えていたのである。これだけでも相当の戦果を挙げたつもりであったが、後日考えてみたら、馬鹿らしくて、でも笑えない話である。
 一人で地を這いながら、道もなく、方向も分からなくなってしまって、堂々めぐりをしていたのか、一晩歩いても喜名方面を越えていなかった。疲れはてて食べ物もなく、歩きながら草を引きちぎり口に入れては噛んでいた。美味しいものもあったが、苦くて食べられないものもあった。人間、追いつめられて究極の時点にきたら、生きているより死んだ方が楽ではないかと考えるものである。山の中を逃げ続けた私は、疲労と恐怖と空腹が極限に達し、先の望みは全くなくなっていた。もし捕虜になったらアメリカ兵に耳をそがれ、目を潰され、苦しめられながら殺されるという先入観があり、それよりは自分で死んだ方がいいと思い、自暴自棄になって携帯ナイフを自分の首にたてた。血は少しずつ首から流れ出たが、そのナイフはあまり切れなくなっており、深い傷にはならなかった。
米軍機密資料『沖縄群島』のなかの地図では、
伊良皆よりももっと北側に「GHQ?」と記されている。
ともあれ、伊良皆から喜名にかけて司令部と思われるほどの
大きな壕が存在したことが窺える。
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 四月三日の早朝、大きな木の根元に隠れていた時、大勢のアメリカ兵が山捜しをしていて、ついに見つかってしまった。足をコソッと動かした音に、一人のアメリカ兵が気づき、ピーッと口笛を吹いたので周辺の兵隊がみんな集まってきた。五〇名程にも思えるたくさんのアメリカ兵に囲まれて銃を向けられた。その時の怖かったこと。しかし、一人のアメリカ兵が日本語で「タベモノアゲル、キズノテアテモスル、シンパイナイ」と言った。彼は黄色い腕章をつけた二世の通訳専門の兵士であった。
 その後私は伊良皆の壕に連行された。この壕は日本軍の司令部のものだったとかで中は広く電気もついていたが、そこでアメリカ兵に尋問を受けた。「部隊名は」「編成人数は」「部隊はどこへ行ったか」など色々尋ねられたが、全部答えられなかった。嘘をつくとためにならないと脅されたが、実際知らなかったのだから仕方がない。しばらくして、二世の通訳が「住民が避難している収容所に連れていく、と言っているから心配するな」と言った。
 そして、尋問に当たっていた米兵二人と通訳が、伊良皆の東にある小さな壕に住民が避難していて出てこないので、中に入って説得するようにと言ってきた。それでその壕の中に入ってみると、おじいさんとおばあさん、お嫁さんらしき女性、十歳くらいの男の子の四人がいた。おばあさんは衰弱しきっており、男の子は胸を刺されて死んでいた。お嫁さんと思われる女性は首を切られて苦しんでいた。孫を刺し、お嫁さんの首を切ったというこのおじいさんは、酒を飲んで酔っていて、「私を殺してくれる人がいたら、早く死にたいのだけど」と言った。私が「外でアメリカ兵が待っていて、食事も薬も準備しているから出て行かないか」と言うと、「今頃になって、あれたちに食べさせてもらうより、今ここで死んだ方がいい」と言っていた。そこへ米兵達が入ってきて、おじいさん、おばあさん、血だらけのお嫁さんをそれぞれ抱きかかえて外に出し、ジープに乗せて病院に連れて行くと言って出ていった。その後どうなったのかは分からない。

収容所を転々と

 喜名、伊良皆辺りで捕まった人々は、伊良皆東の広場に二〇名ほどが集められていた。私もまずはそこへ連れて行かれ、その後水陸両用トラックに乗せられ旧楚辺部落へ連行された。そのトラックの中でアメリカ兵がみんなにKレーション(米軍の携帯口糧)を配った。しかし「こんなもの食べられるわけがない、毒入りで食べたら死ぬに決まってる」と言って誰も手をつけなかった。私はもういつ死んでもいいと思っていたので「まず私が食べるから、私が食べて死んだらみんなは食べるな、もし大丈夫だったら食べればいいさ」と言って、缶を開けて中のシチュウとビスケットを口に入れた。自分で死のうと思っても死にきれなかったのだから、これを食べて死ぬことができるのであればそれでいい、という気持ちだった。三日間ほとんど草の葉しか食べていなかったので、おいしく食べた。それでみんなに絶対大丈夫だからと言って勧めた。みんなヤーサ(空腹)していたので、むさぼるように食べた。
 楚辺に着いたのは、その日(四月三日)の午前十時か十一時頃であった。午後三時か四時頃になって母と叔母が連れられて来た。お互い死んでいるものと思っていたので、無事を喜びあった。そこには五、六百人程の住民が集められており、すぐに作業班を編成して共同炊事などが始まり、またアメリカ兵によって病院(屋号※※)が医療事務所でその隣りにあった)も作られた。病院前の桑畑をブルドーザーで掘り起こして、死体を埋めていたのを覚えている。そこで一〇日程暮らしたが、日本軍機の攻撃によって、収容所で亡くなった人も多かった。そのためここは危険だからと全員がトラックで石川に移動させられた。
 石川に行ってやっと落ち着けるのかと思ったが、一週間もしないうちに今度は「道路を造るから、そこをどいて金武に行きなさい」と言われてまた移動した。金武には知っている人はいないし、宜野座に隣りの家のおばさんがいるからと宜野座に行ったら、そこはいっぱいで入れなかった。それで漢那に収容施設を作っているということを聞き、漢那に向かうことになり、そこで落ち着くことになった。
 喜瀬武原に残した祖母と妹二人は、その後国頭村の浜まで逃げ、喜如嘉の収容所にいた。それで私は漢那収容所から喜如嘉まで迎えに行ったが、祖母はすでに亡くなっていた。妹二人を連れ、漢那に戻った後、一年程経って読谷に戻ることができるという話が出てから、祖母の遺骨を取りに喜如嘉まで行った。
 父も※※のおじさんも喜名東の山中でバラバラになって以来、消息がつかめない。あの時、地を這って捜して歩いたが分からなかったし、母の話では、父はあそこで殺られたのではなくて、別の所までは一緒だったが、道を捜してくると言って離れてしまい、もうそれっきりだということであった。父とおじさんの遺骨はいまだに見つかっていない。
(一九九八年八月採録)
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