第六章 証言記録
男性の証言


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片腕を失い、火炎放射を受けた体験を越えて

福地※※(渡慶次・※※)昭和二年生
 私は、一九四四年(昭和十九)十二月二十一日志願兵として北谷村、北玉国民学校内第二十九特舟隊、球一五〇六六海上挺進隊に入隊した。当時十八歳で整備兵であった。その頃、軍服、軍帽にあこがれ死んで靖国神社に祀られることを最高の栄誉として教え込まれた私には、軍隊生活の毎日が楽しく月日は夢のように過ぎた。
 一九四五年(昭和二十)三月二十三日未明より米軍の大空襲が始まり、三月二十六日に慶良間諸島阿嘉島に米軍が上陸したことを知った。
 三月二十八日、西海岸沖一帯に米軍の艦船が集結し、盛んに艦砲弾を打ち込んで来た。夜は照明弾が輝き、まるで真昼のようであった。日頃から一生懸命訓練を受けて自信は持ってはいたものの、いよいよ本番となると胸騒ぎがし、不安が頭をかすめた。若い乗務員は特攻舟に飛び乗りエンジンを始動させて出撃命令を今や遅しと待っていた。そして命令が出ると、指揮官を先頭に敢然と出動していく姿は、英雄を目のあたりに見る感じだった。私達は、海岸で彼等の壮途(そうと)を見送り、その成功を祈ったものだった。
 三月二十九日、私達は命令により運玉森高地に移動し、昼夜の別なく不眠不休で陣地構築に励んでいた。
 四月一日、米軍はとうとう本島に上陸、その間海と空から断続的に砲爆撃が加えられた。私は攻防戦が激しくなったため、軽機関銃隊に配置替えになり、実戦の中で、機関銃の銃身が焼けるまで撃ちまくった。
 米上陸軍の地上砲火が加わってからの戦場は次第に名状(めいじょう)しがたい惨状を呈してきた。連日夜となく昼となく海、陸からいっせいに火を噴き出す敵の砲火は、前線と軍司令部のある首里への線に集中した。
 五月五日、西原方面での総攻撃に参加することになり、崎原少尉以下一六名は、敵の砲弾下をかいくぐり、悲壮な決意で目的地に向かった。
 砲弾下を走っては伏せ、伏せては走り、道端の溝に飛び込んだりして進むうちに土砂をかぶり、泥まみれになってようやく西原集落までたどり着いた。
 午前二時頃、敵の戦車隊に発見され、機関銃と自動小銃の集中射撃を受けた。私は、小銃弾で右手四指と右腹部に二発をくらい身動きもできずに伏せていた。じっとしていると不思議なことに射撃は止まった。この攻撃で一六名中九人が戦死した。崎原少尉も傷つき、足を引きずりながら「前進、前進」と命令はするが、応戦は不可能であった。私達は二組に分かれて、夜明けまでには後方の宮城集落までたどり着いた。私は負傷者として、直ちに南風原の野戦病院に運び込まれた。
 我が軍の総攻撃失敗以後、負傷者は一時にどっと増え、野戦病院壕の通路にまであふれるようになっていた。
 私のような軽傷者は、三日目には軍医の命により再び運玉森の前線へと駆り立てられた。
 相変わらずの陰鬱(いんうつ)な空模様で、心の中までカビが生えてきそうな情け知らずの雨が降っていた。食物らしい食物もとらず、空腹と疲労で何も考えることが出来なくなっていたが、原隊に復帰してみると先輩の大多数は戦死していた。
 連日、争奪戦を繰り返し、肉弾戦が決行されたが、いたずらに米軍の砲火に身をさらし、野に屍の山を築いていくだけであった。
 運玉森も死守することが不可能となり、いよいよ五月三十日南下命令が出た。東風平村宜次まで後退してみると、立てこもる陣地もなく、兵器も食料も少なかった。
 生き残った隊員はわずか二一人、大隊との連絡を断ったまま、約一五日というものは何等する事もなく、たまには壕の中からはい出し、日なたぼっこをしながら、自分で傷の手当をしたり、シラミ退治に余念がなかった。シラミは壕の中でとくに多かった、服を裏返すと襟のあたりやズボンの腰の周辺にウジャウジャいた。
 六月二十三日にはさらに南下命令を受け、八重瀬岳付近で最後の攻撃を決行することになった。
 五人一組で行動を打ち合わせ、八重瀬岳へと急いだ。何等米軍の状況を知らない私達は、運悪く敵の歩哨線に迷い込んでしまった。機関銃が火を噴き出したので、私達は必死に応戦したが間もなく、ものすごい炸裂音と地響きがし、同時に目の前が真っ暗になるような気がした。体は火のように熱かった。どれほどの時間が経ったであろう、おぼろげながら敵兵の話し声と、靴のような物で踏みつけられているような感覚がして、はっと気がついた。米兵たちは、私たちの安否を確認していたようである。この攻撃で崎原少尉は頭を撃たれて即死した。しばらくして殺気だった数人の米兵も立ち去っていた。
 あたりを手探りで這い回ると他の三人も戦死していた。私も左手は前膊(ぜんはく)(前腕)部より吹き飛ばされ、戦友の死を目の前にしながらどうすることもできなかった。右手と歯で、切断部を出血止の縄でしめつけたが、血は止まるどころか、脈を打って噴きだした。血まみれになって立ち上がり、よろめきながら歩いて再び倒れてしまった。のどがひどく渇いた。普通の渇き方とは違って我慢できない状態であった。こんな場合、水を飲んだら最後、助からないと百も承知していながら、どうにも耐えられなかった。水を求めて、かなり遠くまで這い回ったが、血だるまの私には誰も近寄らなかった。だんだん気が遠くなっていくように思われ、あたりが次第に見えなくなってきた。意識が次第に薄らいでいき、死期(しご)が近づいたと思った。
 だが間もなく機関銃や、砲弾の炸裂する音で我に返り、再び立ち上がりよろめきながら歩いていると、大里出身で新城という人が、「兼城国民学校北方に『びん』という森がある。そこまで行けば野戦病院がある」と教えられ、勇気を奮い起こして歩き続け、何とかそこまでたどり着くことができた。
 しかし、最後の野戦病院とあって軍医も看護婦も少なく、敵接近のため移動準備中であった。歯を喰いしばり、辛抱してここまでたどり着き、最後の命綱と頼ったが、せわしく動き回る様子にあゝこれで万事休すかと思った。傷口は痛み、一発で安楽死して逝った戦友がつくづくうらやましくなった。
 しかし、私は運よく特戦隊ということで医師に見てもらうことができたが、医療品もなく治療どころではなかった。でもこの際、是非切断部の手術をしてくれるよう頼んだが、なかなか受け入れてくれなかった。私は痛さをこらえて訴え続けた。ところが、手術をやらない理由は、麻酔薬や鎮痛剤がないので、やりたくないということであった。軍医は傷口にメスを突っ込んで「これでも耐えられるか」と言うが、かまわないから切ってくれと嘆願し、ようやく受け入れてもらった。
 私は目を瞑り、歯を食いしばり痛さをこらえた。手術用のノコギリで切断するあの音、痛さは今思い出しても、ぞっとする。
 一部残っていた上腕部の骨を、付け根付近で切り取る手術はほどなく終わった。額ににじみでている生汗をふいてくれる情けのある衛生兵がいた。神奈川県出身の彼には今でも感謝の念でいっぱいである。
 手術が終わって少し痛みも薄れ始めたころ、具志川出身の翁長という看護婦が同僚の宮里※※(現安田)と金城※※を伴って訪れてくれた。久しぶりに同郷の二人の顔を見たが、変わり果てた自分の姿では多くを語れず、二人も言葉を失ってしまい、お互いに目で生きていることを喜び合っただけだった。
 それもつかの間、夕刻から直ちに移動が始まり、軍医の診断によって助かる見込みのない負傷者には、自決用の手榴弾が渡された。歩ける者には後退命令が出たが、私はもうどこへ行っても同じことであり、これ以上苦しみに耐えられなかったので、密かに自決しようかと思っていた。
 負傷兵は、あわただしく壕を出て行った。目を包帯で覆っている者、びっこを引く者などはまだよい方で、杖にすがり辛うじて一歩、一歩うめきながら後を追っていく者もあり、観念して壕に残る者もいた。出ていく者でも数十メートルも行かぬうちに、ばったり倒れる者もいた。片足のない身で一緒に逃れようとしたものの、力尽きて入口で倒れ「水が欲しい」と叫んでいるが、傍らを行く人々は見向いてもくれない。他人にかまってはいられないのであった。私も看護婦や軍医に急き立てられ、とりあえず自決は止めて、ふらつきながら出て行った。
 摩文仁に通ずる道路には、いたる所に戦死者の屍が転がったままになっていた。もう何にも考えなかった。生きたいという生への執着があるのみで、暗い壕を転々と廻り、食べ物を求めて死体のポケットを探り、屍を越えて島の最南端、摩文仁海岸にたどり着いた。あと一口白い飯を食べてから死にたいものだとも考えた。
 私は毎日傷の手当をしたが、日々良くなっているのか悪化しているのかは分からなかった。ただ死期を脱したことだけは自覚しながら、幾日か過ぎた。今にして思えば、摩文仁のあの先が尖った岩肌の上でよくも寝泊まりが出来たものだと思う。神経が麻痺していたとしか思えないほどだ。
 七月十三日朝、日課のように海岸捜索にくる米兵を避けるため、岩陰に身を潜めていたが発見され、火炎放射を浴びせられた。パーッと焼かれたとき、目だけはどうにかやられずに済んだが、頬から耳までただれるほどの火傷を負った。腕を吹き飛ばされたまでは何とか辛抱できたが、炎に包まれた瞬間はもうすべてをあきらめる以外はなかった。
 切断部は血を噴き出し、上半身は焼けただれ、痛みに耐える力も尽きていた。いくらもがいても、うめく力さえ失っていた。全力を尽くしてようやく波打ち際まで這い出し、右半身を海水に浸し、仰向けに倒れているところを自動小銃をかまえた米兵に取り囲まれた。その時は何もかもあきらめていた。もう私には何にも怖いものはなかった。しばらくして、タンカに移され水陸両用舟艇に乗せられた。いったい何処へ連れて行って殺すつもりだろうかと考えていたが、七月の太陽はカンカンと照りつけていて、焼けただれた顔面の痛さは何とも耐えようがなかった。
 しばらくして確か、港川付近だったと思うが水陸両用舟艇からテントの中に運ばれ傷の手当をしてもらったが、注射を受けたのはその時が初めてであった。それからまた直ぐ米軍の車に乗せられ、焼き払われた幾つかの集落を過ぎたような気がしたが、他のことはほとんど記憶に残っていない。やがて車が止まると、野原一面にテントが並んでいた。米軍の野戦病院だった。それは今の美里入口付近にあった。
 病院には南部戦線で傷ついた日本兵が大勢収容されていたが、看護婦から戦況や沖縄のいろいろな事情を聞かされ、今まで張りつめていた気持ちが一時にゆるみまったく気を失ってしまった。意識不明のまま五、六日は過ぎたという。
 米軍の病院では、なぜ快く迎え人間らしく扱ってくれるのだろうかと不審に思ったが、その時はすでに戦争は終わっていたのだ。そのうちに宜野座の収容所にいた母が、私が生きていることを知り病院に面会に来た。少しずつ回復に向かいながら、病院から屋嘉に移され、そこに三か月ほど収容されて後に、読谷へ帰った。
 不思議に私は、こうして生死の中をさまよいながら、生きながらえているが、あの時の状況は筆舌に尽しがたい。目を閉じると、眼底に照明弾と艦砲弾の炸裂する赤黒い閃光が映る。耳をすますと、あの天地も張り裂けるような砲弾の音、そして異様なリズムに乗って進む戦車の地響きが聞こえてくる。
 あれから五〇年余、思えば昔の事である。だが身を以てあの地獄絵図を体験した人には、あのうめき声や、修羅場が肌や心の奥深く染み込んでいて、忘れ去る事のできない出来事なのである。戦争というのは実に無惨なものであったし、私にとっては実に痛い思いをしたものでもあった。
 終戦直後、亡くなった戦友や幼友達の母親と道で出会っても視線をそらし、あるいは急いで道を避ける後ろ姿を見送る事も度々あった。ある同級生の母親からは「あなただけ帰ってきて、なぜ私の息子を連れてきてくれなかったの、自分だけ逃げて来て」と言われたこともあったが、何もこたえることができなかった。また、出征前に売店の売り子をしたり、字の佐事をしたりして友達もたくさんいたが、こんな風になって帰ってからは相手もしてくれなかった。そうした度ごとに、本当に寂しい思いに襲われると同時に、生き残りとしての肩の荷の重さを自覚してきたが、それは今でも変わらずに重くのしかかっている。悲惨なる戦争の体験は、いくら語り続けても尽きる事がない。
 最後に今大戦で犠牲となられた戦友、戦没者の冥福を祈ると共に再び戦争が起きないことを願いたい。
(一九七一年十一月十日付けの本人執筆の原稿に、一九九八年八月聴取分を加筆し、さらに了解を得て一部表現を改めた。なお、本人執筆原稿は『渡慶次の歩み』昭和四十六年発行に所収。)
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