第六章 証言記録
男性の証言


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二度も召集されて

大城※※(高志保・※※)大正六年生

大分歩兵四十七連隊への入営まで

 私は一九一七年(大正六)四月生まれです。一九三二年(昭和七)の三月高等科を卒業し、農業に従事しましたが、廬溝橋事件が勃発する四か月ほど前の一九三七年(昭和十二)三月二十七日、二十歳の私は北玉尋常高等小学校で徴兵検査を受けました。読谷山村からは私の同級生も含めて一七〇人ぐらいが検査を受け、うち三五名が甲種合格し、私もその中の一人でした。
 検査に合格後、入営するまでの間は、青年学校で軍隊に入隊する前の基礎訓練をすることになっていて、私は渡慶次尋常高等小学校で一〇人前後の青年達と一緒に、後で考えると基礎のそのまた基礎という感じの簡単なものでしたが、週に二回ぐらい、三、四時間ほど訓練を受けました。
 一九三八年(昭和十三)一月四日、いよいよ入営のため生まれ島を出発する日が来ました。字から出征するのは私を含む六人ぐらいでしたが、家を出発する時には百人ぐらいの字の人たちが見送りに来てくれ、中には嘉手納駅までついて来てくれた人たちもいました。私は皆に盛大に見送ってもらいながら「勝って来るぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに 瞼に浮かぶ旗の波」という歌を思い出していました。
 那覇の大正劇場に集合した私たちは船に乗り、鹿児島に上陸し、そこで一泊してから汽車に乗って大分県に向かいました。そして一月十日、大分歩兵四十七連隊の四中隊に入営しました。

営舎での訓練と「満州」派遣

 雪がちらつく頃に入隊したので、沖縄生まれの私の身には寒さがこたえましたが、翌日から訓練が始まり、その激しさが寒さを忘れさせてくれました。
 最初の一週間は速足行進訓練をし、実弾射撃訓練や銃剣術などいろんなことを教えられました。中でも速足行進訓練は非常にきつい訓練でした。大分の山を歩き回るのですが、完全武装すると、装具は三〇キログラムほどの重さになるので、ただ歩くのとはわけが違いました。それぞれ体格に差はあっても持つべき荷物に差はありませんから、体力のない者、体の小さい者は落伍していきました。相当辛い訓練でしたが、そうした中で経験から学んだのは「水筒に水を長く残すことができた者が、倒れずに歩き続けられる」ということでした。
 こういった訓練が三か月ほど続き、桜が風に散る四月には、私は一期の検閲を終えました。その月の中旬ごろ新設部隊が編成され、私は二十三師団歩兵六十四連隊、第一大隊二中隊に編入されました。部隊の編成は私達初年兵と、一九三七年(昭和十二)八月に入隊した補充兵の二年兵、そして「満州国」牡丹江省の国境警備から帰隊した三年兵等からなっていました。なかでも関東軍から帰ってきた三年兵はその他の兵隊達に比べて鼻息も荒く、私達の隊の中で主導権を握っていました。
 私は七月八日付けで陸軍歩兵一等兵となり、私の部隊は同月二十三日「満州国」駐屯警備の任が決まりました。
 当時日本軍は日中戦争で相当の戦果を上げていたため、私たちが「満州」へ向かう際の見送りは盛大でした。大分駅や博多駅で国防婦人会や近隣の方々の歓呼の声に送られて日本を発ち、七月二十六日に大連に上陸、同月三十日に関東州を通過、八月一日に駐屯地の浜江省一面坡(イーミェンポ)に到着、着いた日から警備にあたりました。

雪に咲く桜

 一面坡ではハルピン銃工兵の講習を受けました。壊れた銃を直したり、整備したりするのが銃工兵で、戦地では必ず必要になる技術だと言われました。銃工兵の講習以外にも、行軍などの軍事訓練を受けました。一面坡はそんなに寒くもなく、静かな過ごしやすいところでした。
 やがて季節は冬になり一九三八年(昭和十三)十一月十一日、私たちはソ満国境警備のため汽車に乗って「満州国」興安北省ハイラルに移動しました。非常に寒い所で気温は零下二〇度ぐらいだったと思います。駅から兵舎までの約四、五キロを行軍しましたが、途中イミン川が凍結し始めていたのが、この地の寒さを改めて感じさせました。私は見渡す限りの銀世界を見て「北満だより」という歌の歌詞を思い出しました。「銃後の友よ満州も いよいよ冬が来ましたが ソ満国境警備する 赤い我らの殉血は 雪にかがやく桜です」まさに歌のとおりだなと思いました。
 十二月の下旬、私達の部隊は冬季大演習を一週間行いました。寒さの厳しい、雪深い土地での初めての演習は非常に厳しく辛いものでした。

ノモンハンへ出兵

 月日は瞬く間に流れ、一九三九年(昭和十四)の四月十五日頃、四年兵が宮崎県都城の歩兵二十三連隊へ帰隊し、その補充として初年兵が入隊してきて、私たちは二年兵になりました。
 それから約一か月後ソ満国境での武力衝突が起き、五月十三日、私達の部隊に応急派兵が命ぜられました。ソ連軍を撃退するため私達の一大隊と工兵隊がトラックに分乗して出動しました。しかし私たちが到着した頃には一時戦闘状態が終息に向かっており、結局一発の弾も撃たずにハイラルへ戻ることになりました。隊の中には、戦う心構えで非常に興奮した様子の者もいたので、河合大尉が私たちに「戦争というものは、血を流さず、戦わずにして勝つのが本当の勝ち戦である」と訓示して彼らを静めました。
 それから一か月後の六月二十日、ソ連軍が再び越境したという情報が入り、私たちも再び応急派兵を命ぜられ、二十三日、戦闘に参加するためハイラルを出発しました。戦場はノモンハンで、ハイラルからは約六四、五里(約二五〇キロメートル)の距離でした。その長い道のりを私たちは徒歩で行軍していくことになりました。暑い夏の日、完全装備で重い荷物を持って、一日八里(約三二キロメートル)も行軍しました。距離もさることながら、高原が続く地帯なので川もめったになく、飲み水の確保がままならないという悪条件でした。目的地へ向かってまっすぐ進むのではなく、飲み水を求めてあっちこっちの水溜りを探すので、余計に長い道のりに感じました。
 水溜りの汚れた水を飲み、飯もその水で炊くのでごはんは黄色くなっていました。そのせいか赤痢になり倒れるものが続出する中、ハイラルを出発して八日目の六月三十日にやっとの思いでノモンハンに到着し、その日の夕方には戦闘に参加しました。
 その日の戦闘で、第四分隊の大分県出身の野尻※※一等兵が戦死しました。彼は擲弾筒(てきだんとう)を一五〇メートル程先にいたソ連軍戦車に向けて発射したため、かえって戦車の目標になり首と頭を撃たれてしまいました。彼が隊の最初の戦死者でした。分隊長の命令だったと思いますが、戦車に向かって擲弾筒なんか撃たせて、何の攻撃にもならないばかりか、かえって彼を犠牲にしてしまってかわいそうなことをしたと私は思いました。
 私たちは戦死者を出したため一応陣地を移動し、四、五〇〇メートルほど後退しました。
 それから二、三日後の夜半、私たちの大隊が転進するため陣地を出発したところ、敵の戦車七、八台が止まっているのを確認しました。戦車を撃破すべく敵戦車まであと約三〇メートルという地点まで接近し、携帯していたガソリンをサイダービンに入れて火炎瓶(当時のソ連外相の名にちなみ「モロトフカクテル」と言った)をつくり、戦車に向かって投げつけて発火させ、内三、四台を撃破しました。その晩は前進せずに元の陣地に戻りました。この戦闘でも隊から数名の戦死者を出しました。
 また七月十日、私たちの中隊は敵の敗残兵一四、五名と出くわしました。私たちは突撃し、敗残兵を全員掃討しました。

ソ満国境警備

 ハルハ河は国境線になっていて、日ソはこのハルハ河を奪い合っていました。ハルハ河まであと約一キロメートル近くまで行軍した私たちは、午前六時前ぐらいにソ連軍へ払暁(ふつぎょう)攻撃を仕掛けました。しかし夏は午前五時頃には空が明るいので奇襲攻撃にならなくて、かえって私たちはこの戦いで相当の戦死者を出しました。
 私も敵の小銃弾が右腕を貫通し、負傷しました。手当てを受けるため後方の陣地に戻る途中、何人もの戦友が戦死しているのを見ました。また私が陣地に入ると、そこには五、六名の遺体が既に収容されていました。私は負傷者の一人沖縄出身の伊敷※※らと一緒にトラックで陣地の後方にあった野戦病院へ護送され、応急手当を受けました。しかし次々と負傷者が出て野戦病院は負傷兵でいっぱいになったので、私は浜江省の病院に移されました。
 その後私は七〇日も入院してしまいました。九月に退院するとその月の半ばには日ソ停戦協定が締結されました。まもなく今回の戦闘に関する様々な調査が行われ、負傷者は本土に帰すという命令がでました。寒い季節が近づいておりこの地は零下三〇度以下にもなるので、負傷者がここに残ると命が持たないという考えだったのでしょう。でも私は現役が満期になる前に帰ると一等兵にしかなれないので、「私はもうどうもありませんから、現役が満期になるまで本土には帰りません」と言い張って満州に残りました。やがて私を含む一部を警備に残して、隊は日本に帰りました。
 十二月一日付けで私は上等兵になり、停戦協定の結ばれた後の満州で中隊の週番や風紀衛兵の歩哨係などを勤めていました。
 ハイラルでは凍傷予防のため、冬になると連隊本部の前に赤い旗を掲げ、それが一本なら気温零下二〇度以上、二本なら零下三〇度以上、三本は零下四〇度以上というふうに皆に気温を知らせていました。毎年一月には本部の前に三本の赤旗が掲げられていました。
 いよいよ満州にきて四年が経ち、待ち望んだ満期除隊が間近に迫った一九四一年(昭和十六)の三月初旬にハイラルを出発し、七日頃には宮崎県都城西部十七部隊に戻りました。

除隊後、読谷へ

 一九四一年(昭和十六)三月十五日をもって現役満期除隊になった私は、予備役に編入され、自宅で農業をする日々に戻りました。その後、座喜味経由で喜名に至る区間の道路建設工事が始まり、私も従事しました。私は荷馬車で土石を運搬するのが主な仕事でした。座喜味から大勢の男女が働きに来ていて、毎日の作業は私の楽しみの一つでした。当時の労務賃金は年齢によっての差異はあったものの、一日八時間働いて男の人夫が三円前後、女の人夫が一円五十銭前後ではなかったかと記憶しています。私は荷馬車を扱っていたので一日七円の賃金を貰っていました。
 一九四二年(昭和十七)には青年団長になり、村葬にもよく出席しました。その頃までは校区や村の運動会等は開催されていて、みんな楽しみにしていました。しかし綱ひき等の字行事は、私が青年団長を務めている頃はすでに統制されるようになっていました。嘉手納警察署に許可を申請しても却下されるようになっていたのです。
 一九四三年(昭和十八)に結婚し、子供が生まれました。従事していた道路工事が終わると、一九四四年(昭和十九)の六月始め頃から飛行場建設に従事していましたが、私は再び召集され、一九四四年(昭和十九)九月十六日付けで、球一八八〇一部隊の指揮下にある球六四六一部隊二中隊へ入隊しました。何処に行くのかも聞かされず那覇に集められ、二十二日に船に乗せられました。

石垣島にて

 この頃、魚雷攻撃などで船がよく沈没させられていました。私たちは魚雷を避けるためなるべく小さい船に少ない人数で乗りました。船体が水中に深く沈みこんでしまうと魚雷に当たりやすいためだということでした。何メートル沈むと魚雷に当たるという風に、具体的な数字で説明されたように思います。
 一隻に大体五〇人ぐらいが乗り込んで、一〇隻で向かいました。途中、危険な目に遭いながらも九月二十六、七日頃に辿り着いたのは石垣島でした。上陸後、まず石垣の宮良国民学校に行き、そこでマラリアの予防注射を受けました。その時、読谷出身で当時宮良国民学校の校長を務めておられた大湾※※先生が私に声を掛けて下さいました。その日、読谷出身者七、八名が先生のお宅で食事をご馳走になりました。
 五〇〇人ほどいる隊の兵士の中で、読谷出身の現役甲種合格者は私だけでした。あとはみんな補充兵なのに、どうして私が離島に行くことになったのかと不思議でした。本島に米軍が上陸するとは思っていない頃だったので、私はできれば家族のいる本島にいたかったし、寂しいという気持ちもありました。
 九月二十八、九日頃宮良の国民学校を出発し、白保集落に行きました。兵舎がなかったので各分隊ごとに分散して民家に寝泊りしました。私の分隊は屋号※※というお宅に厄介になりました。私たちの部隊が、石垣島最初の上陸部隊ということで皆さんには大変な歓迎を受けました。二、三日して、地元の人から、本島から徴用人夫の人たちがきていることを聞いて、私はバナナ五円分を買って面会に行きました。飛行場の飯場を訪ねると同じ字の人が五人いました。しかし内三名がマラリアにかかって寝込んでいたので、残りの二人とバナナを食べながらいろいろ話し合いました。その中の一人、大城※※は「私たちは近いうちに家に帰ることになっている」と喜んでいました。しかし、彼らを乗せた本島行きの船は、十・十空襲の日に久米島沖を通過中、米軍の攻撃を受け撃沈されました。私がそれを聞いたのは後になってからの事でした。本当に残念だと思いました。
 十・十空襲の日、朝から夕方まで米軍機がひっきりなしに爆撃していきました。大浜と白保の飛行場周辺に待機していた我軍の飛行機は、一機も出動する事が出来ず、制空権は完全に米軍に握られていました。
 数日後、白保集落の宮良牧場内に建築していた仮兵舎が完成したので、私たちは全員仮兵舎に移動しました。そして翌日から陣地構築作業を始めました。
 この年の十二月一日付けで私は陸軍兵長になり、二分隊から三分隊に移りました。年が明けて一九四五年(昭和二十)の元旦は、近くの農家から牛肉を手に入れ、にぎやかな正月を過ごす事が出来ました。その後の数日は嵐の前の静けさといった感じで何事もなく過ぎました。しかし五日か六日には再び米軍機の爆撃が始まりました。私たちは爆撃の合間を見計らって壕掘り作業を続けました。しかし、隊員が次から次へとマラリアやフィラリア症で倒れ、作業はなかなか進みませんでした。
 三月三十一日の晩だったと思いますが、米軍の沖縄本島上陸の情報が入り、同時に宮古・石垣にも上陸するだろうという予想から、私たちは戦闘配備につきました。米軍が来たら、食糧をぶんどってやろうなどと言っていました。しかし中には「米軍が石垣に上陸するはずがない。ここには兵隊もそんなにいないし、本島に上陸すれば十分なんだから」という人もいました。

敗戦

 私たちの多くの予想に反し、米軍は石垣には上陸してきませんでした。しかし私たちは八月半ばになっても陣地構築につとめていました。
 八月十五日の晩、中隊長が私たちを集めて「残念ながら日本は米軍に無条件降伏した」と口元を震わせながら伝達されました。私たちはその時初めて終戦になった事を知りました。すでにその頃、隊員のほとんどがマラリアやフィラリア症で倒れ、戦闘に参加できる者などわずかしか残っていませんでした。それでも中には、「条件降伏ならいいが、無条件降伏とはどういうことだ」と憤っている人もいました。
 終戦後は益々食糧事情が厳しくなり、私たちは現地自活という事で畑を耕したりしました。そうして四か月をなんとか乗り切り、本島出身者は十二月十八日に石垣島を離れました。浦添の牧港に到着した私たちは、そのまま米軍のトラックで金武村屋嘉に送られ、そして収容所に収容されました。私は本島に着くとマラリアを発病して一週間ほど寝込んでしまいました。

警察官を拝命

 復員しても家族の居所が分らなかったため、私は胡差安慶田の屋号※※というお宅に身を寄せました。何が幸いするかわからないもので、「どうして甲種の自分が石垣なんかに」と思っていたのが、石垣にいたからこそ命も助かったのだと、人間の「運」の不思議を感じました。恐らく本島にいれば、私は激戦地の島尻へも行かされたかもしれません。私は、自分の幸運を喜びましたが、同時に家族の安否がわからずに悩んでいました。しかし、※※に厄介になって一週間ほどで、家族が金武村の中川にいることがわかり、私は家族を呼び寄せました。
 無償配給があるので食べることに事欠かない日々でも、毎日ブラブラするのも具合が悪いと思っていた私は、一九四六年(昭和二十一)四月、二十九歳の時に警察官の募集があることを聞き、試験を受けて合格し、胡差地区警察署の配属がきまりました。月給は確かB軍票一八〇円でした。
 勤務をしながら、十一月十四日に具志川村田場にあった警察学校に入校し、翌四七年(昭和二十二)一月十四日に卒業しました。同日付で読谷警部補派出所勤務を命じられ、妻子と一緒に帰村しました。
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