第六章 証言記録
男性の証言


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戦時中のこと

山城※※(座喜味・※※)大正七年生

工員募集で三重県へ

 私は一九一八年(大正七)の生まれです。小学校を卒業後は使丁をして働いていましたが、子どもがいなかった伯父(父の兄)のところへ養子に行くことになり、伯父の家の手伝いをするようになるからと使丁を辞めてしまいました。しかしどういう訳か、私が伯父の家に行ってみると、「養子にならなくてもいいから」とだけ言われて家に帰されてしまいました。私は乗り気の話でもなかったので喜んで家に帰りましたが、もともと養子縁組に反対していた母は「やっぱりそうなったか。せっかく使丁をして給料を貰っていたのに。お前は勉強も良くできたのにねー」と、とても残念がっていました。母はいつも私の幸せを一番に考えてくれているんだなと、親心のありがたさを感じました。
 その後しばらくの間、畑仕事をしていましたが、ある日畑に出ていると近所に住んでいた友人に「おーい、山城君、内地で働かないか、募集があるから」と声をかけられました。私は「働く!」と即座に答えて、後日三重県の軍需工場から来た工員募集の面接を受けました。給料がいいので私はこの工場で働きたいと思っていました。この面接試験では私を含めて読谷から七人が合格しました。私たちは一緒に三重県に向かいました。

軍需工場での出来事

 この軍需工場では、炭酸カルシウムを製造していました。山から運び出した原石を砕き、幾つかの工程を経て炭酸カルシウムを取り出していました。
 私たちが働き始めて一か月後の給料日、午後五時ごろ仕事をあがって給料袋を受け取った私たちは、あまりの金額の少なさに驚きました。私たちが沖縄で面接担当者から聞かされた給料の半分ぐらいしか入っていなかったのです。読谷から共にやってきた私達七人は、今後の進退についてすぐに話し合いました。誰かが「こんなに給料安いんだ。どうしようか」と私たちの中でまとめ役になっている人に聞きました。その人は「大阪に逃げよう」と言ったので、私も「いいよ、親戚が大阪にいますから」と答えました。
 やがて話がまとまり、私たち七人はその日の夜中に職場を逃げ出しました。山奥に職場があったので、バス停まで二キロメートルぐらい歩いてからバスに乗ったのですが会社の人に追いつかれてしまい、停留所でいったん降りて話し合うことになりました。追って来た人も沖縄の人だったので、ちゃんと話せば分かってくれるんじゃないかと思ったのです。私達の言い分を認めてもらって、仕事を辞めることができたので、翌日みんなで奈良に行って丸一日観光して楽しみました。それから、お互いの親戚を頼って大阪に行きました。

大阪にて

 大阪に着いて皆で梅田の駅前をぶらぶら歩いていると、巡査に呼び止められました。不審人物だと思われたのでしょう。ですが私が「沖縄から働きに来ました」と言うと、「そうか、一生懸命働きなさい」と励ましてくれました。
 私たち七人は、いったん仲間内の一人の親戚の家に泊めてもらい、その後互いの親戚を頼ってあちこちに散りました。私は三重から一緒だった従兄弟がいたので、彼と二人で親戚の家を頼ることにしました。しかし親戚宅は私たちが厄介になるには手狭だったので、そちらでは食事を世話してもらうことにし、近くの喜友名という家で寝泊まりをさせていただくことになりました。
 就職活動を始めた私たち二人でしたが、数日もするとお互いに仕事がみつかりました。私は北村製缶という軍需工場に就職が決まり、車を使って運搬係をすることになりました。運搬という仕事柄いろんな工場に行きましたが、大阪は日本を代表する大都市で、広さといい、働いている女工さんの数といい圧倒されました。

長崎へ徴用

 一九四〇年(昭和十五)頃、私は沖縄に戻り、嫁を探そうかなと思っていたのですが、帰って二か月も経たないうちに「長崎の香焼島(こうやぎじま)の造船所に徴用する」との通知がきました。
 造船所に徴用される者は全員那覇に集められて、一か月の訓練を受けました。毎日六時に起床して健康維持のための持久走をしたり、標準語の日常会話の練習をしたりしました。そして一か月の訓練を終えて、私達はいよいよ長崎県の香焼島に出発しました。
 香焼島の工場に着くと、そこには沖縄以外からもたくさんの人々が徴用されて来ていました。工場に着いた私たちを迎えた先輩方は、私たちの手をとって、一人一人の手のひらを見て、造船所の力仕事に耐えられる身体かどうかを調べました。沖縄から来た者のほとんどは、日頃の畑仕事で鍛えられて骨格が頑丈にできていましたので、この検査にひっかかる者はいませんでした。
 新入りの私たちは、最初の一週間を「体作り」のために使いました。「体作り」と言っても、ハンマーで大きな丸太を一日中叩くことをそう呼んでいたのですが、想像以上に辛いものでした。「体作り」の後、私達はいくつかの部門に分けられましたが、私が配置されたのは船の煙突作りの部門でした。船大工が指示するままに、私はみんなと必死になって働きました。一日の仕事が終わると寮に戻るのですが、力仕事でくたくたになっているので、同じ寮内に県人が住んでいてもこれといって一緒に楽しみに興じるということはありませんでした。
 しばらくすると、アメリカ人だったんじゃないかと思いますが、捕虜が工場に連れてこられ、一緒に作業をするようになりました。五、六〇人はいたのではないかと思いますが、彼らも私たち同様に幾つかの部門に分けられました。その時は、私達が仕事のやり方を教えたりしました。彼らはわりと静かに、私たちの指示に従っていました。彼らは私たちと同じ建物に住んでいました。
 長崎の造船所生活も長くは続きませんでした。私は作業中に煙突から転落して怪我をしてしまったのです。家に帰りたかった私は、ここぞとばかりに上司に「ここでは治りませんから、沖縄に帰してください」と申し出ました。上司は「ゆっくり治しておいで」と言ってくれて、私は沖縄に帰ることができました。

召集され津堅島へ

 沖縄に帰っても徴用は義務なので、長崎の造船所から「まだ怪我は治らないのか、怪我が治ったら戻るように」と書かれたハガキが度々実家に届きました。しばらくして怪我が治った私は、長崎に戻ろうと那覇の港に行きましたが、この頃には戦争が激しくなったため長崎行きの船が出なくなっていました。私は何度も港に通いましたが、結局船は出ませんでした。そうこうしているうちに一九四三年(昭和十八)五月に私は沖縄で召集を受け、同年六月に与那原の部隊に入隊しました。
 与那原で一週間の歩兵訓練を受けた後、津堅島で三か月の要塞重砲手としての訓練を受けました。日本のあちこちから集められた兵隊が五班に分けられ、島の南にあった灯台の下で、大砲を撃つ訓練をしました。中でも辛かった訓練は隊長を大砲の上に乗せて、一〇人ぐらいでその大砲を引っ張って三キロメートルぐらいの道を走るものでした。まるで輓馬(ばんば)代わりの扱いでした。私たち沖縄出身者は体が小さかったので「体力勝負」の訓練では本当に辛い思いをしました。
 三か月の訓練終了後、上官に集められた私たちは「この中に造船所経験者はいないか、手を挙げろ」と聞かれました。私は家に帰れるものと思って手を挙げたのですが、上官は手を挙げた私達に向かって「造船所経験者は山口県に行って船舶工兵の任に就け」と命令したのでした。

母との別れ

 山口県へ行くことになった私たちは、いったん津堅島から本島へ行き、そこで外泊許可を貰うことができました。私はこの時間を使って家族に面会することにし、大湾に移り住んでいた家族を訪ねました。夕方家に着きましたが、一泊したら翌朝には部隊に戻らなくてはならなかったので、私は母に「面会に来たけど、またすぐ行くよ」と言いました。私はその夜、一晩だけ家族と過ごしました。
 私は翌朝早くに本家のトートーメー(先祖の位牌)に手を合わせると、家族に別れの挨拶をして汽車に乗るため嘉手納に向かいました。母は嘉手納まで見送ると言いましたが、私は母に「私は急ぐから、お母さんは孫(兄の子)も連れてるから、見送りはここでいいから、もうお家に帰って」と言いました。しかし母はそれでも見送ると言って孫をおんぶしてついて来てくれたのです。古堅国民学校のところで再度「もう戻ってください」と言っても、結局駅まで一緒に行ってくれました。母は何度も「身体に気を付けて」と私に言い、二人で別れの涙を流しました。

山口県から北海道へ

 一九四三年(昭和十八)九月上旬、私は八部隊に転属しました。上陸用舟艇の修理を担当する技術部隊で、五〇人ほどで構成されていました。山口県から上陸用舟艇に乗って大分県のある浜に上陸する訓練が六か月間ありましたが、私たちはその訓練が行われている間に故障した上陸用舟艇を直したり、また整備したりしました。
 一九四四年(昭和十九)四月、新しく轟六一五五部隊が編成されました。この部隊は、アッツ島への敵前上陸を任務としており、その前に北海道の小樽に派遣され逆上陸の訓練をすることになっていました。
 小樽では私たちの部隊は民家に寝泊りすることになり、私は佐藤呉服店という商家に宿泊することになりました。北海道に到着した日の翌早朝、私達は通りに集められての点呼のおり、上官から制裁を受けました。宿舎の近くにバーがあり、上官は前もって私たちに「バーがあるが、そういった淫らな所に行ってはいけない」と注意していました。ところがある初年兵が到着するやその日の晩に、バーで酒を飲んでいたところを憲兵に見つかってしまいました。上官からそのことを聞かされてびっくりしましたが、それ以上に驚いたのが、「全員着ているものを脱いで、雪の上に正座しろ」と命令されたことです。一人の過ちでも全員を罰するのかと思いました。制裁を受けた後、みんなで「もう、こんな目に合うのは嫌だなー」と話しました。
 こうして始まった北海道での上陸訓練は一か月ほどで終わり、当初からの任務であったアッツ島上陸のため五月中旬、千島に渡りました。しかし、戦況の悪化のためアッツ島上陸を断念し、一九四五年(昭和二十)五月に再び北海道に戻ったのです。

「沖縄玉砕」そして終戦

 アッツ島上陸を断念後、沖縄への派兵が決まり、五月からは沖縄行きの準備をしていました。しかし準備半ばで、「沖縄が玉砕した」という知らせが伝えられました。それを聞いた時の落胆は、言い表すことができないほどでした。
 任務の変更が相次いだ私達部隊でしたが、今度は船舶工兵の工場を壕の中に作るため、全長二〇〇メートル程の壕作りをしていた大賀中隊に合流することが決まりました。私たちは壕作りの手伝いもしましたが、壕を掘るために徴用されてきていた人もたくさんいましたし、機械も導入されていましたからそれ程の仕事もないので、私たちの部隊は近くの山などへいってそれまでと変わらず訓練を続けていました。また、雪かきなどをして過ごした日もありました。
 そうこうしている間に壕が貫通し、八月十四日に貫通式をして皆で盛大に祝宴を張ったその翌日、終戦になってしまったのです。
 私たちの中隊は六〇人ぐらいで、中には沖縄出身者が私以外にもう一人いました。終戦の日、「玉音放送」を聞くと、中隊長が私達全員を近くの山に連れて行き「戦争は負けたから、もう死んでもいいと思う者は、ここで死んでもいいから。私が責任を持つ」と言いました。そうは言われても今さら死ぬ者もいなくて、みんなぼんやりと立っていました。結局全員で山を降りましたが、その日の昼食後にまた私達は中隊長に集められ、「これからは、お互いを大事にして、くれぐれも身体には気をつけてくれ」と言われたのです。昼食を食べたら、朝とは違うことを言うので何か妙な感じがしました。
 沖縄は玉砕したという情報だったので、北海道の人たちに「もう沖縄には帰れないでしょう、ここに竈(かまど)を持ちなさい」と言われました。つまり所帯を持って永住すればいいよというアドバイスでした。心配して助言してくれて有難かったのですが「私は、親兄弟が何人残っているか分からないし、九州に行けばそれも分かるかもしれないから、ひとまず九州に行きますよ」と言って、同じ隊で沖縄出身者の大城と一緒に九州に向かうことにしました。すると、それを聞いた中隊長が「山城さんと大城さん二人は、沖縄には帰れないだろうから、私の家に泊まりなさい」と言って留守宅の住所をくれたのです。中隊長は福岡の人だから丁度いいと思い、そこに滞在しようと決めて復員船で北海道を後にしました。

福岡へ

 福岡に着くと、もらった住所を頼りに中隊長の家を探し歩きました。中隊長は私たち兵隊とは別の船だったので、道案内してくれる人はいなかったのです。上官たちの中には、戦時中に厳しい制裁などをして隊員に恨まれていた人もいましたから、私たちと同じ船に乗れば復讐されて海に突き落とされるかもしれないと思ったようです。ですから上官たちは隊員からの復讐を恐れ、私たち兵隊の船よりずっと出発の遅い別便で復員しました。
 中隊長の家に着くと、中隊長の家族が迎えてくれました。家の人たちは、私達が沖縄の出身だからてっきり魚捕りが上手いと勘違いしていて、私たちが来れば魚に不自由しなくなるものと期待していました。しかし私達は二人とも魚捕りなんてできないので、「大変なっているなー」と驚きました。中隊長の家にお世話になるのは無理だなと感じた大城が「自分の親は熊本に疎開しているから、明日熊本に行くよ」と言うので、私も「自分も一緒に行く」と言って、翌日には中隊長の家を出ました。

熊本にて

 熊本に着いた私たちは、熊本城址に沖縄の世話部があると聞いて、すぐに熊本城へ向かいました。そこに着いた私たちを世話部の元大尉が、「ご苦労さん」と迎えてくれました。この元大尉は石塚という名前で、沖縄で暮らしたことがあり、奥さんも沖縄の人だったりと何かと沖縄に関係のある人でした。元大尉は私が標準語を話しているのを聞いて「なんで、ヤーはウチナーンチュ ヤルムンヌ、標準語、ワカインナ(あなたは沖縄の人なのに、なんで標準語が分かるんだ)」と話し掛けてくれました。私が「もう、ヤマトゥンチュー トゥ ユヌムンドゥ ヤイビンデェー(私はもう大和の人間も同然ですよ)」と言うと、石塚大尉は「アンネーイランケー ナー ウチナーグチシ アビレー(そんなことは言わずに、沖縄口で話しなさい)」と言うのです。すぐにうちとけました。
 熊本城まで一緒だった大城は、世話部にあった名簿で家族の居場所が分かったのですぐに別れました。私は熊本城址に作られた小屋にしばらく泊まることにしたのですが、その小屋は畳が敷かれていて、わりと住みやすかったように思います。熊本城址内では見たことのある顔を見ると自然に声を掛け合うので、寂しい思いはしませんでした。ある時など、以前から面識のあった同じ字の人に声をかけられました。その人は私より二歳下でしたが、来ている軍服を見るとかなり上の階級のものだったので驚きました。
 こうして私は熊本城址で一か月ほど生活しました。石塚大尉から頼まれた農作業の手伝い等をして過ごしていたのですが、手伝いを終えた私に石塚大尉が「芋飴作りの募集がきているが、そこに行くか」と尋ねたので、私は「はい、どこでも行かなくてはいけないでしょう」と答えて、芋飴作りの工場で働くことにしました。

芋飴作り

 私が就職した芋飴工場は、経営者がとても良い人で、他の工場に勤めていた人たちに比べると、私達はとても良い待遇で働いていました。この工場には沖縄出身者が私以外にもう一人伊波※※という人がいて偶然にも読谷の人でした。彼は怪我をしていたので芋飴工場の中での仕事をしていて、私は馬車に乗って工場から二、三キロメートル離れた畑に出て芋作りをしていました。私たちが働くようになって、この工場の経営も安定していったので、社長は私たちが沖縄に帰らないように、お嫁さんをさがしてきて結婚させ、熊本に永住させようとまで思ってくれたようでした。しかし私たちは「沖縄に帰れる日まで、一緒に頑張ろうな」と二人で話していました。
 その間も三男の※※がブーゲンビルに出征していたので、沖縄の世話部である熊本城に帰ってくるかもしれないと、ずっと捜していました。捜し始めて三週間ほどが経ったころ、いつものように弟を捜して歩いていると、弟の同級生が私を見つけて声を掛けてきました。「お宅の※※さんは死んだですよー」と言うのでした。私が弟を捜していた頃、弟も熊本に復員し、栄養失調のためにすぐさま病院に運ばれていたのです。私は弟が運ばれ、亡くなったという病院を訪ねました。弟の最期の様子などを聞きたいという思いからでした。医者は私の話を聞き「ああ、なぜあんたは弟が病院にいることも知らせてもらえなかったのか。一生の別れなのに残念ですね」と言いました。沖縄出身の看護婦は「弟さんはかなり弱っていて、元気になれるような状態ではなかったよ」と私に言いました。弟が亡くなったのは、一九四六年(昭和二十一)三月九日だったと教えてくれました。
 その頃、私は日々忙しさにかまけて、手紙を沖縄に出すといったこともしませんでした。家族の安否も沖縄の様子も全く知らない状態で、工場に勤めて一年以上が経っていた十一月か十二月、沖縄行きの船が出るという知らせがきました。伊波と私は一緒に沖縄に帰ることにし、経営者に工場を辞めることを相談すると、とても残念がっていました。

沖縄に帰る

 船が那覇の港に着くと、降りる乗客を迎える人々が港にたくさん来ているので、私は誰か家族の安否を知っている人がいるかもしれないと、船の甲板に立って下を眺めていました。下には迎えのトラックが何台か止まっていて、その近くに弟の同級生がいたのです。当山※※という同郷の人でした。私は「当山※※さーん!」と船の上から大きな声で呼びかけました。私は兄貴が生きていれば家族は皆無事なんじゃないかと思い、「えー!わったー兄貴、生きてるかー」と聞きました。すると※※が「ああ、元気で生きてるよー!」と答えてくれたので、私は安心して船を降りたのです。
 インヌミ収容所で、世話部の名簿に家族の居所が書いてないかと調べるのですが、記載がありません。それで、係りの人に聞いてみると「ああ、お前の兄さんは羽地にいたよ」と教えてくれました。私は「アッサミヨー、せっかく沖縄に帰ったと思ったら、また山原に行くのかー」と思いました。
 トラックはやんばるに行く途中、石川の収容所で停まりました。石川の収容所の人達の中には、自分の家族がこのトラックに乗ってないかなと見に来る人もいました。実は石川の収容所には私の父親が居たのですが、私も石川にいるとは知らないし、父親の方も私が生きて帰るとは思ってなかったのか、お互いに気づかずにトラックは石川を出発していました。私は石川を越え、やんばるの羽地に到着しました。

母の死

 羽地でトラックを降り、駐在所で「読谷の人がここら辺にいますか」と尋ねると、私の兄の家を教えてくれて、私は兄と再会しました。とても嬉しかったのですが、その後に家族の安否を聞くと、母と兄の子供が戦争で亡くなったと聞かされてつらい思いをしました。
 母は久志で米兵に射殺されて亡くなったそうです。家族と、あと何人かのグループで行動していたそうですが、米軍に囲まれてしまったそうです。母は、長男も防衛隊にとられ、私も弟も兵隊にとられていたので、ここ沖縄で残った家族が全員死んでしまったら、息子たちを迎える者がいなくなると思ったのでしょう、一人でグループを飛び出したそうです。それで、次女で十五歳だった※※も従姉妹と二人で母を追ってグループを出ました。母はその時に撃たれて亡くなったようです。道で倒れて亡くなっていたのを発見され、首に下げていた財布で身元が分かったそうです。しかし、母を追って飛び出していった※※たちは、そのまま行方知れずになってしまったそうです。兄は私に「どこに骨があるか分からん」と言いました。海で死んだのか、山で死んだのか、それも分からないということでした。行方不明は本当に悲しいです。私が沖縄を出る時には※※はまだ子供だったのに、もう死んでしまったのかと本当に可哀想でした。
 私にとって何より悲しかったのは、母の死でした。母は、私が津堅島の訓練を終えて山口に行く時に孫をおんぶして遠い道のりを歩いて見送ってくれました。そういう母が亡くなったもんだから、生きて沖縄に帰ってきても、何とも言えない気持ちでした。亡くなると分かっていたら、もっと一緒にいたかったと思ったり、私が養子に出されそうになった時も反対してくれたなと感謝したり、いろんな思いが駆け巡りました。母に手を振って、戦地に向かう汽車に乗ったあの日が、私と母の最期だったとは思いもしない事でした。
 石川にいた父が兄からの知らせを聞いて、私が羽地に着いたすぐあくる日に会いに来てくれました。「歩いてきたよ」と父は言い、私のために持ってきた衣類をくれました。もう母がいないからと、身の回りのことに気遣ってくれたんだなーと感じました。
 兄は羽地で畑を借りることができたので、私も一か月ほど手伝いました。その後、読谷へ帰村できることになり、石川にいた父を連れ、家族で波平に移ってきました。
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