第六章 証言記録
男性の証言


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球九一七三部隊の用務員として

波平※※(喜名・※※)昭和三年生

球九一七三部隊

 球九一七三部隊・第五十六飛行場大隊は台湾からの引揚部隊で、読谷山(北)飛行場を守るためにやって来たんだと言われていました。実際には飛行場の整備や、航空機への燃料補給などが任務で実戦部隊ではありませんでした。一九四四年(昭和十九)、大雨の続く小満芒種(しょうまんぼうしゅ)の頃(五月二十一日〜六月六日頃)に私の家の東側に六軒ほどあったサーターヤーを糧秣などの保管に使うために、彼らがトラックに乗ってやって来ました。それが私が覚えている球部隊の最初の思い出みたいなものです。その数日後だったと思いますが、雨の続く頃なので保管していた糧秣が雨にぬれたらしく、名前は後で知ったのですが、横田というなりあがりの年輩の准尉が、「管理が悪い」と若い上官にビンタを張られているのを目撃してしまいました。「申し訳ありません」と年輩の者が若者に頭を下げているのを見て、軍隊というのは階級がすべてで、年齢というのは関係ないんだなと驚きました。私はその時十七歳で、軍隊という組織がどういったものかあんまり知らない頃でした。
 私は航空兵の一次試験に合格していたので、鹿児島で行われる二次試験を受けるはずでした。しかしちょうどその頃、沖縄の航空兵志願者たちが湖南丸に乗って二次試験に行く途中、米軍に船を撃沈されて全滅するという事件(一九四三年十二月二十一日)が起き、私たちからは鹿児島行きにストップがかかって、二次試験を受ける事ができなくなってしまいました。そのため、私は家の手伝いをして過ごしていましたが、長兄の※※が字の書記をしていて球部隊の兵士の目にとまり「用務員にならないか」と声をかけられ、私も一緒に用務員になることになりました。

球部隊の用務員として

 球九一七三部隊の本部は、伊良皆の後原に国場組が建てた瓦屋根の建物に置かれていました。私たちはその本部の用務員として務めることになりました。私は用務員といっても走り使いみたいなもので、兵隊たちは歳の若い私を「ちび」または「まっちゃん」と呼んでとても可愛がってくれました。
 大阪出身の森※※という軍属が、隊の炊事関係全般の責任を持っていました。私は彼のもとで、航空兵や将校たちに供する食事を作るのが仕事でした。卵焼きを焼いたり、うなぎを蒲焼きにしたり、彼らの食事は一般の兵隊たちよりはるかに豪華な特別食でした。
 読谷山飛行場にはたくさんの航空機がやってきました。隊では航空兵を大変優遇していて、特に昼の弁当にはとても気を使っていました。航空兵の食事は軍医に毒見されてはじめて食卓にのぼるのです。私は朝、本部に出勤してしばらくまかないの仕事をし、十時頃になったら航空兵たちの昼の弁当を「検食箱」と書かれた木箱に入れてリュックサックのように担ぎ、他の兵隊達の注目を浴びながら喜名のワタンジャーの井戸の近くにいた軍医の所へ運びました。私が背負っている箱には普通の兵隊が食べることのできないような料理が入っているのを皆知っていて、うらやましいわけです。しかしこの検食箱に私以外の兵隊が触れたりすることは禁じられていました。ですから兵隊たちはこの箱を担いでいる時の私には近づかず、むしろ避けて通るぐらいでした。こうして私が喜名の池島軍医大尉のもとに食事を届けると、彼は大変冗談の好きな人だったんですが「あんたが持ってきたなら上等だから、私は安心して食べようね」とおっしゃって、よく調べもしないでパカナイ(パクパク)食べて、「大丈夫、上等と報告しなさい」と言うのです。ですから検食と言っても形ばかりだったのか、航空兵の食事だから形式を重んじていたのか、私には分らないのですが、とにかくこの検食箱を運ぶのが私の日課でした。

十・十空襲

 十・十空襲の日、私は伊良皆の本部に出勤するため、朝七時半頃に家を出ました。飛行機がたくさん飛んでいるのが見えて、周りにいる人も私も空襲とは思わずに「今日の飛行機は凄いもんだなー」と眺めていたのです。すると機体のマークが見えて、それがアメリカーのマークだったので大慌てで家に引き返しました。家に大きなガジマルの木があり、私も怖いもの知らずだったのかその上に登って、伊良皆の本部が空襲を受けているのを見ていました。大きな瓦屋根の建物が数軒並んで建っていたので、私の家からでも燃えているのが見えたのです。
 空襲がやんでから、本部のあった場所に行ってみるとそこは焼け野原になっていました。私は近くにいた人に「うちの部隊、何処に行ったでしょうか」と聞きました。その人が「トーガーだよ」と教えてくれたので、すぐに私も向かいました。前々から、本部が攻撃されたらトーガーに移ることは決まっていて、私にもそれとなく耳に入っていました。
 十・十空襲後、読谷山飛行場に二〇〇機以上もの日本軍の航空機がやって来ました。飛行場は空襲で相当な被害を受けていましたが、滑走路だけは使えるようにいつのまにか直してありました。飛行場が航空機でうめつくされているわけです。読谷山飛行場にこれほどの飛行機が並んでいるのを見たのはこれが初めてで、私は「こんなにたくさん日本の飛行機が残っていたのか。まだ日本は大丈夫だ」と胸が躍りました。
 その日、私たちの特別食を作る炊事場に、航空兵用のおにぎりを二百何十人分か作るようにという命令がきました。また、その晩に航空兵の壮行会があるので、「酒注ぎなんかを手伝うように」とも言われました。
 森さんが「行こう、※※ちゃん」と言うので、私は一緒に喜名の観音堂近くの三角兵舎に行きました。兵舎には航空服を着た二十歳前後の若い兵隊がたくさんいて、出陣前夜の壮行会という趣があり、酒肴が供されていたのです。
 私は読谷山飛行場に降り立つ彼らを、いつもうらやましく思って見ていました。「私もこんなことできたらいいのに」と憧れて、「国のために死にたい」、「死ぬ事なんて怖くない」と本当に思っていました。しかしその日の搭乗兵たちの姿はどこか悲壮感が漂い、私は自分の役目も忘れ、怖くなって逃げ帰ってしまいました。彼らが、読谷山飛行場に降り立った最後の大軍でした。

トーガーにて

 トーガーとは喜名観音堂から座喜味に向かって五〇〇メートルほど行った北側の谷間にある川の名前でしたが、私たちはその川が流れる谷間やそこに連なる小山なども含めて、その地域一帯をトーガーと称していました。正式にはそこは板針原(イチャバーイバル)と呼ばれる地域です。谷間には、背丈ほどのかん木に表面を覆われている斜面の急な小山が、波打つようにいくつも連なっていました。小山と小山の間の細長い間(はざま)に水田があり、その水田に接して小山を貫くようにいくつも掘られた大きな壕が、球九一七三部隊の新しい本拠地になっていました。
 山の中に掘られた壕は迷路のように、中でいくつかに枝分かれして外部に続いていました。また、防空壕の外にも山のなだらかな斜面を段々にして、一番上が炊事事務所、二段目がこめつき場、三段目が釜炊き場、間に接する一番下に特別食を作る場所があり、それぞれちゃんと屋根もついていました。
 私がトーガーに着くと、森さんが特別食を作る炊事場で私が来るのを待ってくれていました。私はまたその日から森さんと二人で、将校たちの特別食を作りました。森さんは軍属でしたが、五つボタンの服を着て軍刀を下げていました。若い将校たちさえも森さんとすれ違う時には敬礼していきました(註)。
 私たちがトーガーに移った頃から読谷周辺にいた各部隊は次々と南部に移動し、事態が刻一刻と悪化していることが肌で感じられました。

召集令状

 一九四五年(昭和二十)二月中旬、私の家に召集令状が届きました。そこには長兄※※と私の名前がありました。私たちは防衛隊として召集されたのです。
 召集令状を受け取った村の青年たちは役場の広場に集められました。二〇〇名ぐらいはいたんではないでしょうか、みんな番地順に並んで、私も兄と一緒に並んでいました。すると、広場の向こう側から球部隊の本田主計大尉が馬に乗ってやって来るのが見えました。「アイエーナー、ワッター部隊から本田主計大尉が来ているな。なんでかねー」と私は不思議に思いました。すると、拡声器で「※※の波平※※、本部まで来なさい」と呼び出されたのです。行ってみると、本田主計大尉が何やら知花清村長と話し合っている様子でした。
 本田大尉は私を見ると「※※ちゃん、あんたは行かさない。何処に行っても同じ日本の軍なんだから、あんたは私が引き取るから、私と一緒に戻りなさい」とおっしゃいました。私は驚いて「兄さんと一緒に行って、星を貰いたいです」と言いました。私は国のために戦い、手柄を立てたいと願っていました。航空兵になれなかった私にとって防衛隊に行くのは絶好の機会に思えました。しかし大尉はそれを聞くと「あんたには五つの流れ星をあげるから」とおっしゃいました。「何処にも行くな。同じ日本の兵隊だから、一緒に、私と一緒に帰りなさい。おまえはほかには行かせない」そう言って、本田大尉は自分が乗ってきた馬の手綱を私に掴まえさせました。
 こうして私は、役場の広場に集められたたくさんの若者の中からただ一人、連れ戻されたのです。本田主計大尉の手綱をもち、私は大尉とトーガーに戻りました。
 後日、私は自分が連れ戻されたいきさつを聞きました。本田主計大尉のもとに「波平※※も召集令状がきて、役場で並んでいる」という連絡が入ったようです。それで大尉は慌てて馬に乗り、一人で私を連れ戻しに来てくれたということでした。

撃たれた娘たち

被弾した女性
画像
 炊事係りには一般の兵隊たちの分を作る徴用の人たちもいました。そうした徴用で集められた人たちの中に泡瀬から来た二人の娘がいました。彼女たちはこめつき場で働いていました。段々畑のように山の傾斜を利用して作られた三段の炊事場の二段目が彼女たちの働く場所でした。私のいた特別食を作る場所はその下で、私のいる所から見上げると彼女たちがいた二段目はもちろん、三段目まで見渡す事ができました。
 ある日、米軍機が座喜味城跡の方向から一機飛んできて、二段目のこめつき場に「ダッダッダッ」と銃撃を加えました。彼女たちの一人は胸を打ち抜かれ、もう一人は足のスネから下が吹っ飛んで、「アイエーナー、アイエーナー」と泣き叫んでいるのが見えました。私たちはすぐに二人を担いで、喜名の池島軍医大尉の所へ連れて行きました。十七、八歳の娘たちでしたが、助かったのは一人だけだったと後で聞きました。

隊と別れて

 三月二十三日か二十四日だったかはっきり覚えてないのですが、米軍の上陸前の艦砲射撃と空襲が激しくなり、森さんが私に「あんたは足手まといになるから、どこへでも好きなところに行きなさい」と言うのです。私はまだ子供で、助かる見込みがあるから逃がそうとしてくれたんだと思います。私がためらっているので、森さんは私の尻を蹴飛ばしてまで、私を追い出しました。それで私は、家族がタマタグチの壕にいることを知っていたので、家族のところに行くことにしました。
 喜名の人たちは、シージャー(川)から一〇〇メートル上流のタマタグチにあったいくつかの壕に避難していました。私は家族の避難していた壕を見つけて一週間ほど一緒に隠れていました。四月一日、とうとうアメリカ軍が上陸して、私たちのいる壕の前を徘徊するようになりました。壕の中からもアメリカ兵の姿が見えて、もうみんな死ぬんだなと思いました。山原へ逃げようかという話しになりましたが、姉は二歳にしかならない小さい子がいてとても連れて逃げられそうにないと言いました。家族は私に「お前だけでも山原へ逃げて、もし生きて帰れたら家族の遺骨を拾ってくれ」と言って私を送り出しました。
 私は夜を待って山原への突破を試みました。読谷山岳を越えたら石川だということは知っていたので、山を越えようとするのですが頂上の方にはアメリカーがいてどうしても通れませんでした。米兵の声も聞こえるし、砲弾がボンボン目の前に落ちて来るし、近くで砲弾の破片に当たった人が「アイエーナー、アイエーナー」と叫んでいるのも聞こえるので、どうしても先へ進むことができませんでした。それで引き返し、四月二日、家族のいるタマタグチの壕から二、三〇〇メートルほど離れているナガサクの壕に行きました。そこには何百名もの喜名の人が避難していました。

投降

 私がナガサクの壕に着いて二、三時間もすると、壕の前で米兵が「デテコイ、デテコイ」と呼びかける声が聞こえてきました。こっそり外を窺い見ると、そこには今まで見たことのない鬼のような米兵がいるので、大騒ぎになりました。すると同じ字のおじいさんが外から「皆出てきなさい、降参しましょう、詫びしましょう」と呼びかけてきました。このおじいさんは先に米軍に捕まっていて、私たちに投降を促すために米軍に連れてこられたのです。おじいさんは「一等国民にはかないませんよー、さあー、降参しましょう」と一生懸命私たちに訴えてきました。米兵のことを「一等国民」と言っているのを聞いて、壕の中にいた喜名の人たちは怒り出しました。「カンネールムノー フントォーヤ スパイドゥヤテール(こいつは、本当はスパイだったのだ)」と誰かが言いました。壕の中は騒然としていました。しかし、私たちには抵抗する力などありませんから、結局全員米軍に投降しました。
 私たちは、徒歩で役場の広場に連れていかれました。その時、大きな黒砂糖を大事に抱えている青年がいました。米兵は「ボン」と言いながらジェスチャーでこの黒砂糖が爆弾じゃないのかと聞いてきました。私が少し分けてもらい、割って食べて見せると米兵も真似して口に入れて、砂糖だと分った様子でした。
 私は役場の広場から座喜味に連れて行かれました。米軍は座喜味の民家を本部にしていたようで、そこで事情聴取を受けました。金髪の、見るからにアメリカーという感じの兵隊がびっくりするぐらいの流暢な日本語で「五十六飛行場大隊のことを知っているか」と私に聞きました。先のスパイ容疑云々の事もありますから私が答えにためらっていると、「五十六飛行場大隊、球九一七三部隊ですがね。五五〇名規模だったというのは本当ですか」などと続けて聞いてきました。「私は知らない」と答えましたが、何でこんなこと知ってるかねーと不思議なほど、彼らは球部隊に関する詳しい情報を持っていました。
 そして、捕らえられて初めて黒沢少佐をはじめ球九一七三部隊が、ニホンマーチュー(二本松)の下にあった壕でほぼ全滅した事を知りました。そこは海軍が掘った壕でしたが、海軍が南部に移動した後に入っていたようです。五百人以上もの隊員が潜んでいた壕を米兵に馬乗り攻撃され、隊員たちは外にいる米軍に斬り込んでいって、次々と殺されたようです。補給部隊ですから飛行場に最後まで残らなくてはならなかったんじゃないかなと思うんです。読谷の飛行場を守りに来て、読谷で全滅したのです。

再びトーガーへ

 私はトーガーで炊事関係の仕事をしていましたから、食料が壕の中にたくさん保管されていた事もよく知っていました。それで、都屋の収容所に入れられてから、字の人を連れてトーガーに食料を探しに行ったのです。トーガーにも残っていた兵隊がいたようで、たくさんの死体が川べりに折り重なっていました。体が膨れていて、部隊がトーガーで豚を飼っていたのですが、その豚に内臓を食べられていました。
 つぶれている壕を掘り返してみると、やはり砂糖や米、缶詰に鰹節など日本兵はトーガーに食料を残して移動していました。私たちはリヤカーにそれらをのせて運び出しました。
 都屋の収容所にいた私を、姉がMPのジープで迎えに来てくれました。喜名にあった私たちの家は無事だったので、しばらくはもとのように家族で暮らせましたが、五月になり米軍に立ち退きを迫られて、喜名にいた人たちはみんな一緒に金武に行き、そこからすぐに漢那の収容所に移されました。
 私たち一家は読谷に帰村が許されるまで漢那にいましたが、読谷山村建設隊が組織され、故郷の建設に同郷の人たちが立ち上がったと聞き、私たちも先発隊として村民の帰村のために働くことにしました。やがて波平にできた規格屋に私たち一家も移り住みました。
註 「軍属」の階級については、兼城一編著【証言・沖縄戦】『沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(上)』(高文研・二〇〇〇年六月二三日発行)には次のような記述がある。
 「一中職員は軍属扱いになった。藤野校長は佐官待遇、野崎※※教頭は尉官待遇になり、黄色い星が一列にならんだ軍属の階級章をわたされた」(六五頁)。
 また、一中の配属将校・篠原※※中尉が戦況が悪化してきた五月上旬「沖縄戦は見込みはない」と悲観的な予想を述べたところ、藤野校長が篠原中尉を叱咤する場面があったとして、次の知念※※証言を紹介している。
 「藤野校長はきっとした表情で『沖縄で負けることは絶対にない。これから連合艦隊も出動してくるだろうし、援軍も逆上陸するはずだ。戦いはこれからが正念場だ。軍人のあなたがそんなことを言ってどうするんですか。あなたは配属将校ですぞ』とたしなめた」(二四八頁)という。「たしなめた」のだから、佐官待遇の軍属が現役中尉よりも階級的に上ということになる。
 さらに、藤野校長と篠原教官が、五月三〇日に第五砲兵司令部へ行き、豊見城村保栄茂の壕から喜屋武、摩文仁方面にさらに後退するよう命令を受けた際に、藤野校長が第五砲兵司令部の和田中将から軍刀をもらったということについて、次のような城間※※証言も紹介している。
 「軍刀は階級によって房の色が異なると聞いていたので、佐官待遇の房なのか、尉官待遇の房なのかということに関心があり、校長のところに見に行った。佐官クラスの赤い房のついた軍刀だった」(三六七頁)。
 こうしたことから、軍属にも「佐官待遇」「尉官待遇」といった階級や階級章があり、中には軍刀を携帯した者も居たことを知ることが出来る。
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