第六章 証言記録
男性の証言


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「投降勧告」の役目をやらされて

山内※※(上地・※※)昭和四年生

戦前の上地について

 上地部落は、昔は座喜味グスクの前に集落があったといわれる。そこは「フルジマ」と呼ばれている。戦前上地にもサーターヤーがあったが、サトウキビを栽培していたのは、割に裕福な家庭だけであり、そのような家は数軒しかなかった。サーターヤーを使うのもこれら数軒の家のみであった。
 私は一九二九年(昭和四)、上地十六番地で生れた。私が六歳くらいの頃、十二、三軒しかなかった上地が運動会で活躍した選手を出したことがあった。戦後上地が校区の運動会に参加したのは一、二回しか覚えていないが、戦前の運動会のことは、印象的によく覚えている。また、学事奨励会もあったが、それはいつも家屋敷が上地で一番大きい※※でやっていた。※※は、二〇〇坪くらいの屋敷に大きな赤瓦の家があった。北飛行場建設のために兵隊が入ってきたころは、※※に日本兵もたくさん寝泊まりしていた。私の家は、小さな茅葺きの家で、軍隊が使うということはなかった。
 戦争当時の家族は、戸主が母の山内※※で、一八九七年(明治三十)生れだった。父親はすでに亡くなっており、長男も戦前から奄美大島に移住していて沖縄にはいなかった。家は農業で生計をたてていた。

戦時体制下へ

 私は一九四二年(昭和十七)、十四歳の頃から上地の佐事小(サジグァー)(用務員)を務めていた。当時の部落の役員は区長、書記、佐事小であった。佐事小の主な仕事といえば、字費を徴集したり、字の行事のときの手伝いをするというものであったが、日本軍が駐屯するようになると、軍への供出物を集めたことも一、二回あった。
 当時はほとんどの家で、各屋敷内に小さな防空壕を掘っていた。読谷での飛行場建設が始まると、まず次兄の※※が徴用された。私は座喜味の当山さんという人が防衛隊にとられたので、その人の馬車を借り受けていた。軍属というわけではないが、当時はバサムッチャー(馬車持ち)は、誰もが軍の仕事をしていた。それで、私も徴用され、山部隊(新城隊)のバサムッチャーをすることになった。
 新城隊では、山で木を切って馬車に積み、夜のうちにそれらの材木を豊見城まで運ぶ仕事をした。これは防空壕をつくるための坑木だった。それだけでなく、読谷山飛行場建設の仕事もした。飛行場では、一九四三年(昭和十八)から四四年にかけて一年ほど働いた。最初は石を運んだり、土手を壊し、土を運んだりする仕事をした。飛行場造りには長女の※※も手伝いに行っていた。
 上地の屋号※※の相庭※※は、国場組の社員で、読谷山飛行場の建設指導員だった。私も彼の下で働いていた。飛行場建設現場では、徴用された人夫たちが寝泊まりする飯場が仮設されていた。その飯場に馬車で座喜味や上地の井戸から水を運ぶことも私の仕事だった。私も普段は飯場で寝泊まりしていた。

十・十空襲

 一九四四年(昭和十九)の十月十日に空襲があった。この日、私は前夜に行われた出征兵士激励会の後片付けをしていた。当時は出征する兵士があると、広い家に字中の人が集まり、山羊を潰して激励会をやった。十月九日の激励会は誰のものだったのか記憶にないが、※※の家で行われた。私はその夜、飛行場の飯場には戻らなかった。翌十日の朝は、早くから※※の家で、前日の激励会の後片づけをしていた。
 空襲が始まったとき、私はちょうど※※の前の畑にいた。私のすぐ近くに機銃弾が飛んできた。しかし初めてのことだったので、怖さは感じなかった。薬莢が目の前に落ちてきたが、「何でこんなのが落ちてくるかなー」と思いながら見ていた。最初は本当に米軍からの空襲だということも、気付かないくらいだった。
 激しい空襲がおさまって静かになってから、私たちが寝泊りしていた飛行場の飯場に戻ってみると、何もかも焼かれていて、私の持ち物も全部焼けてしまっていた。

避難

 村役場から、県外に疎開するようにという話があったけれども、実際に上地から疎開した人はいなかったと思う。また、上地の県内指定避難地というものも聞いた覚えはない。
 上地地内には大きな壕があった。チーチーヤー(牛乳屋)をしていた※※の後ろ辺りで、これは座喜味城にいた高射砲部隊の近くにあった。おそらく日本軍が作ったものだったと思う。十・十空襲後、上地の住民は空襲があると、そこの壕へ避難していた。そして爆撃がおさまるとまた家に戻るということを何度か繰り返していた。しかし、このまま上地にいては危ないということで、私たち家族は年が明けて一九四五年(昭和二十)二月頃、座喜味の親戚と一緒に、馬車で金武村の喜瀬武原に避難した。一か月余り喜瀬武原にいたが、そこでもあまり艦砲射撃がひどくなったものだから、夜移動してまた読谷に戻ってきた。
 読谷に戻ってきた私達は、座喜味城址の後ろ(長浜の上)の古い門中墓を空けて、屋号※※、※※、※※の家族も一緒にその中に隠れた。一週間くらい墓の中にいた。食事の煮炊きも墓の中でやっていたので、煙が墓中に充満するというようなこともあった。
 一九四五年(昭和二十)三月三十一日の夜、外で火を使っていたのが見つかり、それが目標となって※※のおじいさん(照屋※※)と※※の相庭※※が砲弾破片を受けて倒れた。おじいさんはそこで亡くなってしまった。※※は怪我をしたものの、一命はとりとめた。そんなことがあり、またあまりに艦砲射撃がひどいので、その夜、私達はその墓から出ることにした。それからはそれぞれが散り散りになってしまい、周辺の小さな横穴や岩陰に隠れた。

米兵に捕まる

 その夜が明けた四月一日、私達は家族五人程で、座喜味裏のナカブクの岩陰に移動して隠れていた。これは、日本軍が簡易に掘ってあった横穴で、入口には松の枝や枯れ木、枯草などを立てかけて覆ってあった。この横穴が米兵に見つかってしまい、米兵が近づいて来て、枯れ枝などを取り外し始めた。そうして、入口から「カマーンカマーン」と言って、手を口の方へ何度か振るしぐさをしていたようなので、姉が「何か食べものが欲しいのではないか」と言った。そこで当時十五歳だった私は、近くにあった洗った芋を恐る恐る米兵に差し出したが、米兵は「違う」という手振りをした。そして、また「カマーン、カマーン」と言うので、私が一人で横穴から外へ出て行った。そこには銃を構えた米兵が五名ほどいて、一〇〇メートルほど離れたところまで私が一人だけ連れられていった。
 そこで私は身振りで首を切るしぐさをして「殺すのか?」と聞いた。すると米兵は「殺さない」と言ったので、手振りで「家族がまだあの中にいる」ということを伝えると、「では、呼んできなさい」と言っているようだったので、私は家族のところへ戻って「殺さないと言っているから、ここから出よう」と言ってみんなを連れてきた。そうして、離れた壕に兄たちがいることが分かっていたので、米兵に話して兄たちが隠れている壕へ呼びに行った。

「投降勧告」の役目になる

 兄がいた壕には高志保から避難してきた人など約一〇名が入っていた。そこには確か、渡慶次の人々もいたような覚えがある。そこへ行って「殺しはしないから、ここから出るように」と呼びかけた。そして事情を話すと「アッターヤ クルサンディナー(米兵は殺さないと言っているのか)」とみんなが聞くので、私は「イー、クルサンディ(ああ、殺しはしないよ)」と答えた。このようなやりとりがあって、そこにいた人達をみんな壕から出すことができた。そこで、一緒にいたアメリカ兵は私を、住民を壕から出す係にしようと思ったのか、また次の壕へ行き、私に投降を呼びかける役目をさせた。
 次の壕では、「※※はスパイをしている、もう大変だ」と言って、反対側の出口から全員逃げ出してしまった。そうした人たちは、山原へ行ってよけい大変な目にあったと思う。戦後になって、「あなたが呼びかけてくれて、お陰で命が助かったよ」とお礼に来る人もあれば、「スパイ」だと陰口をたたく人もいた。投降を呼びかけるという役目をやったので、もしあの戦争で日本が勝っていたら、真っ先に銃殺されていたかもしれないと思う。
 米軍上陸は四月一日と言われているが、長浜の古い門中墓にいた三月三十一日には米兵が来ていた。どこから来たのかは分からないが。

ある防衛隊員の死

 こうして、アメリカ軍に捕まってから、アメリカ兵と一緒に投降勧告の役目をやらされていた時、信じられないような光景にいくつも出くわした。中でも忘れられないのは、ある防衛隊員の死である。彼は足の付け根辺りをひどく負傷していた。その大きな傷口に自分のフンドシをねじ込んで、耐えがたい痛みに田んぼの泥の中でのた打ち回っていた。その人の前歯が金歯だったので、沖縄の人だと分かった。当時沖縄では歯に金冠をかぶせる人もいた。その人は死ぬ間際まで泥の中で苦しみ続けていた。静かになってから、私はその人の名前だけでも確認しておこうと考え、胸に縫い付けられていた名札を読もうとしたのだが、泥で汚れていて、どうしても確認できなかった。そうこうしているうちに、同行していたアメリカ兵が「埋めよう」と言うので、二人でその人を泥の中に埋めた。今ではその場所は道路が通っている。その人はもう永久に確認できないし、骨が拾われるということもないだろう。

収容所を転々と

 私達は四月一日、捕虜になり、その後収容所を転々とした。最初は都屋、それから長浜、金武、漢那へと移動させられた。
 村内で捕虜になった人の一部は都屋に集められていた。その日は朝食をとってなかったが、都屋の収容所で何か食物が配られた。しかし何を食べたのかは覚えていない。都屋には一〇日程いた。その後、長浜へ移り、約一か月いて、金武へ連れて行かれた。それからは家族が別々になった。男女も分けられ、女は金武に残され、私は漢那に移されていった。
 漢那収容所では、作業にかり出された。民家を取り壊して資材調達をしたり、日々作業内容は変わった。漢那では食糧がなくて、とてもひもじい思いをした。作業はきつい上に、一日一食のお粥がでただけだったからだ。
 収容所でも、命拾いをしたことがある。カバヤーといったテントの下で、たくさんの難民とともに座っていたときのことだ。馬か何かが収容所内であばれたのだが、それを米兵は我々が騒ぎを起こしていると勘違いしたようで、たくさんの住民がいるテントに向かって発砲した。その弾が私の頭上を通り、テントに穴が空いた。たとえ、あの弾が誰かに当たって死んだとしても、米兵からみたら、たいした問題でもなかったのだ。そんな扱いだった。
 兄の※※は嘉間良の収容所にいるとき、ダイナマイトを使って魚を捕りに行く作業をしていた。そしてある日、兄は誤ってダイナマイトを手元で爆発させて、怪我をしてしまった。兄には不慣れな仕事でもあり、その時の爆発のショックで身体を強く打って、それ以来病弱になっていった。その兄も一〇年程前に亡くなったが、最後まで後遺症に悩まされ続けていた。
 戦後、上地に帰ったときは屋根だけが残っていて、周囲の壁はなくなっていた。戦前、牛馬は飼っておらず、山羊が四頭、豚一頭、鶏は一〇羽程を飼っていたが、戦災でもちろん家畜はいなくなって、畜舎も納屋もなくなっていた。
 戦後、私は三線店を始めた。店を開いて、もう四〇年以上が過ぎた。
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