第六章 証言記録
男性の証言


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戦中戦後を生き抜いて

比嘉※※(上地・※※)昭和五年生

フルジマ

 元々上地はもっと上の方、座喜味城の近くにあったといわれる。私から三代前のウフオジー(曾祖父)達から、現在の場所に移ってきたと聞いている。私が十歳頃に、おじいさんたちと一緒に、フルジマへ拝みに行ったことがある。フルジマは現在の座喜味城跡公園の裏あたりで、子供ながらに、なんでこんな何もないとこで拝みをするのか不思議に思った記憶がある。「上地」という地名から考えても上の方にあった部落ではないかと言う人がいる。
 戦前、※※、※※、※※の家が大きくて、これらの家で字の行事をよく行なった。字の行事は、一年間交替で大きな家で行なうことを決めていた。

※※のウカミヤー

 上地の中で一番古い家は、通称※※である。戦前はハタスガシー(悪霊払いなどの行事)の際の旗、鉦、またムラアシビで使う衣装などを※※が管理していた。戸主の新城※※は戦後すぐに亡くなり、長男※※はブラジルに移民した。しかし、上地の祖先、ムートゥヤー(発祥の家)をなくすことはできないということで、戦後数年経った頃に※※の屋敷のあった場所の一角に、上地のムートゥ(元)としてウカミヤー(神屋)をつくってある。

上地に生れる

 私は一九三〇年(昭和五)七月四日、屋号※※の父比嘉※※、母※※の三男として、上地で生れた。六歳になり、読谷山尋常高等小学校の尋常科一年へ入学した。一九四一年(昭和十六)には小学校は国民学校となり、私たちは一九四三年(昭和十八)に同校の高等科へ進んだ。学校は現在の役場庁舎がある辺りにあったが、この頃、飛行場用地として接収され、現在の喜名小学校敷地にあった喜名分教場へ移ることになった。

北飛行場

 一九四四年(昭和十九)には、島尻方面から飛行場建設のためにたくさんの人が徴用されて上地に来ていた。私の家にも知念村あたりから来た人が五、六名、一番座で寝泊りしていた。※※や※※にも人夫としてきた人が泊っていた。
 当時、屋号※※の戸主は相庭※※といい、達筆で頭の切れる人だった。彼は※※に婿入りしていて上地に住んでいた。県庁勤めをしていたというが、定年で退職したのか読谷の飛行場建設の時は、国場組の指導員の仕事をしていた。終戦から三年程経った頃、上地の土地調査が行われたが、それは彼の指揮によって行われていた。
 上地集落のすぐ前が飛行場だったので、私はよく飛行機を見に行った。家の近くに掩体壕(えんたいごう)があり、飛行機をすぐ近くで見ることができた。
 上地の井戸の使用は飛行場建設関係が優先であった。字民が自由に井戸を使うことができなかったため、大変不便であった。徴用された馬車持ちの人達が上地の井戸へ来て、ひっきりなしに水をくみ出しては飛行場に運んでいた。

長兄(比嘉※※)の出征

 出征する兵士があると、「出征祝い」を部落全体で行なっていた。このような祝い事は、部落内で大きな家屋をもつ家庭で行なわれていた。私の長兄※※は、一九四三年(昭和十八)頃には長崎県の佐世保にあった軍需工場で働いていた。兄は佐世保で徴兵検査を受け、陸軍に入隊することになった。それで沖縄に戻ってきて、一か月ほど過ごしていた。兄は上地に婚約者がいた。兄が出征して、しばらくしてから「南海に渡ります」という内容の手紙が来た。それ以来、兄からの連絡が途絶えた。終戦後、一、二年経ってから戦死公報が届いた。そこには「昭和十九年三月三日、ボーゲンビル島で戦死」と書かれていた。島で死んだのか、船上でなのか、どういう状況で亡くなったのか、何も分からなかった。兄からの手紙を受け取ったっきり、もう兄とは会えなかった。遺骨も何もない、ただ一枚の紙切れが送られてきて、兄の死を告げられただけである。

兵隊の駐屯と住民の様子

 飛行場人夫と入れ替わるように、今度は兵隊が入ってきた。※※では、兵隊が一番座を事務所として使っていた。三名くらいの兵隊が常駐していた。兵隊のいるところに入ることはできなかった。私たちは、兵隊とあまり話しをしなかった。うちの母(※※)は、兵隊をすごく怖がっていて一番座と二番座の中戸を閉め切っていた。上地で兵隊が入っていたのは、うちと※※だけだった。
 飛行場が近くにあったので、上地には日本兵がたくさん出入りしていた。彼らはよく家に来て、「何か食べるものはないか」と言ってきた。日本兵にあげる食べ物はほとんどなかったが、なかには日本兵相手にあん餅を売って商売する人もいた。餅はタピオカのデンプンでつくっていた。あんは豆を煮てつくっていた。当時砂糖はほとんどなかったと思うのだが、どうして入手していたかはわからない。

壕掘り作業と卒業式

 一九四三年(昭和十八)、四四年の二年間が、私の高等科の時代であった。しかし、学校敷地は飛行場となり、また移転先の喜名の校舎も建築中だった。それで、私たちは山へ行って、学年も関係なく字ごとに集まって勉強したりしていた。やがてそれもなくなり、児童は防空壕掘りなどの奉仕作業をするようになった。喜名に移ってからは、教室で勉強することはなかった。喜名で建築中だった新しい校舎には、完成を待たずに兵隊が入ったということだった。
 そして私たち児童は兵隊を手伝うため、多幸山(現在の恩納村、「琉球村」のあるあたり)まで歩いていって、そこで壕掘り作業をし、夕方また歩いて帰ってくるという毎日だった。勉強がしたくて高等科へ進んだのであったが、教室もなければ、落ち着いて学ぶという環境では全くなかった。
 一九四五年(昭和二十)の三月に卒業する予定だったが、その時は米軍の上陸前の空襲や爆撃で、もっと大変な状況で、卒業式どころではなかった。いまだに卒業式を終えていないし、卒業証書もない。このことを思うと残念でならない。

十・十空襲

 空襲の前日、何の集まりかは忘れたが、何かの祝いごとがあり、部落の人たち全員が※※に集まった。翌日の十月十日は、私もその後片付けをしていた。そのときに空襲があった。初めは演習だと思って見ていたが、飛行場に駐機してあった飛行機が燃えているのを見て、本物の空襲だということがわかった。
 私の次兄、比嘉※※は徴用を受け、八重山へ飛行場造りへ行っていた。徴用を終え、帰りに十・十空襲に遭っている。一九四四年(昭和十九)十月十日、兄が乗っていた船が久米島南方の海上で撃沈された。兄は死んでしまった。海でのことなので、どこで亡くなったか分からない。

避難から収容されるまで

 十・十空襲のあった数日後、このままここにいては危ないということで、※※の親戚が石川の山城嘉手苅にいたので、そのつてで※※、※※、※※、※※、※※、※※の家族と共に、石川嘉手苅へ避難した。そこで、民家のメーヌヤーグヮー(離れ)などを借りて、三か月くらい暮らしていた。しばらくしてそこも危ないということで、金武のほうが安全だという話があり、金武に向かった。金武に二か月半ほどいたが、その間も農業をするために、大人たちは上地まで通って、芋やトーマーミー(蚕豆)などを収穫しに行っていた。しかし、読谷から金武へ戻る途中で、ひどい空爆に遭い、金武まで戻れず荷物を全部金武に置いたまま、再び石川へ留まった。そうこうしているうちに、石川でも艦砲射撃に遭い、いよいよ金武に戻ることはできなくなった。そこで、また石川の山城嘉手苅に集まって、米軍に捕まるまでの二週間ほど、嘉手苅のテラの壕の中で生活していた。
 壕の中には、湧き水があり水には不自由しなかった。しかし、壕の中で煮炊きすることはできないので、夜外に出て食事をつくった。この壕の中には嘉手苅部落の人たちが避難していた。壕の中にいたのは一般の住民で、全部で一〇〇名くらいいた。壕の中には便所がないので、用をたすときは外に出ていた。
 一九四五年(昭和二十)四月の半ば頃、用をたすためか壕から外に出ていた人がいて、上陸していた米軍に見つかってしまい、手榴弾を投げられた。これによって、嘉手苅部落の人四、五名が怪我をした。そのとき、私たちは壕の奥の方にいた。壕に毒ガスをまかれたかもしれないというので、タオルを水に濡らして、それで鼻や口を塞いで、壕の奥でじっとしていた。
 その翌日、日系アメリカ人と思われる人が一人で壕の中に入ってきて、「心配ないよ。全員出てこい」と言った。それで、全員が壕の外に出て、捕らえられた。この時、私たちは竹槍を準備していたが、これでは何もできないと考えて、壕に置いて出た。この日の三日前に、この壕の中でお産があった。嘉手苅の人だったが、産後間もないその女性は、気丈にも、皆と共に歩いて壕を出た。
 壕から出た後は、トラックに乗せられて、まずは具志川の赤道に連れて行かれた。赤道に三、四日いた後、今度は与那城村の照間に行った。そこには三、四か月いたが、そこから具志川・川田の収容所に連れて行かれた。

収容所での生活

 具志川・川田の収容所では、配給もあり、たまに肉や野菜等が海岸に流れ着いた。沖にアメリカ軍の船がたくさん停泊しており、それらの船からいろんなものが海岸に流れてきたのだった。米軍は、なんでもかんでも船から捨てていたようだ。そういうわけで、収容所では食べ物に不自由はしなかった。
 このころ、波平に嫁いだ姉※※は家族と共にコザの収容所にいた。私のいた川田収容所から泡瀬のトゥールーガマまでは、六キロメートル程の道のりだった。そこを通って、姉たちのいたコザの嘉間良まで隠れて会いに行っていた。当時は収容所から抜け出すことは許されていなかったが、私は時々、姉達のいるコザの収容所まで忍んで遊びに行っていた。川田には一年程いた。

先発隊として帰村

 終戦当時、上地の人は石川、具志川、漢那、コザなどにちらばっていた。そして、一九四六年(昭和二十一)八月、波平と高志保の一部が読谷山村民に開放された。そこで石川やコザの収容所にいる人たちの間で、先発隊が結成された。しかし私がいた川田にはそのような連絡は来ていなかった。コザにいた姉のところへ行っていた私は、病気療養中の姉の夫の代わりに馬車持ちとして先発隊にならないかと勧められた。それで、私は義兄の代わりに一九四六年(昭和二十一)十月頃、先発隊として読谷へ帰った。それから三か月後の一九四七年(昭和二十二)一月、当時の知花英康村長にお願いして、川田収容所にいる家族を呼び寄せてもらった。その頃には多くの読谷の人が各地の収容所から来るようになった。
 上地部落に帰ってきたのが、読谷に帰ってから二、三年後だった。またこの頃、朝鮮人の安藤という家族が上地に来て住んでいた。戦前私の父はフルガニ(スクラップ)を集めていたが、彼は嘉手納でフルガネを買取る仕事をしていた。戦争中はどこで過ごしていたのかわからないが、戦後になって安藤家は知り合いを頼って上地に来ているとのことだった。たしか、三、四年は上地で暮らしていたが、その後家族で国に帰っていった。
 エイサーは、終戦から五年ほど経て始まった。私が二十二歳頃、宇座、渡慶次、波平、高志保から招待されて、エイサーをしに行ったことを覚えている。その頃、上地では男女合わせて二〇名程がエイサーを踊っていた。また字内では三線を作る人も、弾く人もたくさんいた。
「村民移住受入ニ関する件伺」(1947年1月13日)
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