第六章 証言記録
男性の証言


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八幡製鉄所でアメリカ人捕虜と

新垣※※(喜名・※※)大正十二年生

出稼ぎにいく

 私は一九二二年(大正十一)に喜名で生まれた。一九三九年(昭和十四)、十七歳になった私は、家が貧しかったので南洋へ一年間の出稼ぎに行った。サイパン島近くの離島で、そこには警察もなく学校もない、無人の島だったところに日本の企業が鉱山を開き、何百人もの鉱員を雇ってリン鉱石を採掘していた。私は鉱山にあった事務所でお茶くみなどを三か月ほどやった後、鉱山で肉体労働をした。
 この島から運ばれるリンで、戦争をするための爆弾を作っているんだということだったが、ただ同然で島から鉱物を運び出していたのだから、日本にとってそこは宝島みたいなものだった。
 その後、大東島で一年間働いて沖縄へ帰った。一九四二年(昭和十七)、二十歳になった私は、仕事もない沖縄にいるよりも出稼ぎに行ってお金を稼ぎたいと思い、今度は内地へ行く事にした。しかし内地へ行くにも交通費が必要だと困っていた私に、八幡製鉄所の募集係をしていた同じ字の島袋※※が、「八幡製鉄所で働くなら、行きの運賃は製鉄所持ちだ」と教えてくれた。それで私は単身、福岡県八幡市にあった八幡製鉄所に行った。

八幡製鉄所での日々

 八幡製鉄所には沖縄出身者が多く、同じ字の人もたくさんいた。中には私の従兄弟もいたので心細い思いはしないで済んだ。
 私の仕事は石炭おろしだった。船などで運ばれてくる石炭はクレーンで一旦陸揚げされ、工場内まで引き込まれた貨物列車に載せかえられる。それをスコップでかきおろすのであった。八幡製鉄所にはアメリカ人の捕虜が働かされていて、私のいた「ヒサトミ」組という石炭の運搬部門でも、五人から多い時で一〇人ほどのアメリカ人捕虜を使っていた。食料事情が悪い割には彼らの体格はがっしりしていたので、日本人よりも仕事がこなせた。また、勤務態度もいたって真面目だった。このアメリカ人捕虜との出会いは、後の私の人生の中で重要な意味を持つものとなった。
 私たちは「ゆうえい館」という一〇〇〇坪ほどの学校に似た四角い建物で集団生活をしていた。八人部屋で、各自に寝台が与えられていて、風呂は共同、食事は食堂でとれるようになっていた。私たち沖縄出身者は一階に住んでいて、二階はアメリカ人捕虜がいた。彼らは職場でも寮内でも常に日本兵による監視を受けていた。銃剣を持った監視兵が一〇分おきに寮の外周を巡回し、風呂場や食堂でも四六時中監視されていた。
 こんなことがあった。寮の風呂は日本人とアメリカ人捕虜の利用時間が分けられていた。ある日私は、風呂場でちょっとゆっくりしている間に日本人の利用時間を五分ほど超えてしまい、気づけば誰もいなくなっていた。すると、アメリカ人捕虜が風呂場にどんどん入ってきて、日本人は私一人になってしまった。私は怖いとも思わずにそのまま風呂に入っていたのだが、銃剣を持った見張りの監視兵に「危ないから、早く出ろ」と引きずり出された。
 寮には監視兵以外に、私たち日本人工員を見張るために雇われたやくざ者が一人いた。この男は、背中に彫った刺青が良く見えるようにか、いつも上半身裸で、手には私たちを殴りつけるための木刀を握っていた。私たちが逃げ出したり、ずる休みしないようにと朝と夜の二回、見回りに来たが、具合を悪くして寝ていても、すぐに布団を剥ぎ取られて寝台から蹴り落とされた。「何で仕事に行かないか!爆弾つくるんだよ!早く行って爆弾作らんと戦争負けるだろ」と怒鳴られながら、みんな泣く泣くズボンをはいて仕事に行った。

アメリカ人捕虜との寮生活

 アメリカ人捕虜は毎朝列をつくって、日本兵の厳重な監視のもと工場まで出勤していた。約一〇分ぐらいの道のりで、街なかも通った。彼らは民間人のおばあさんや、おかあさんたちに「おはようございます」と陽気に手を上げたりしていた。通勤中に脱走した者もいたが、結局は憲兵に連れ戻されていた。
 食堂の食事は非常にまずく、私たちは給料日には町に出て美味いものを食べるのが楽しみだった。それに比べアメリカ人捕虜は食事さえ満足に貰っていないのか、いつも腹を空かせていた。タオルを私たちに渡して、「そうめんやご飯と替えてくれ」と英語で言ってきたり、しきりに自分たちの持ち物を食べものと交換してくれと頼むのだった。
 私もよく彼らに食事を分けたりしたが、私が残った弁当をあげるとアメリカ人捕虜が非常に喜んで、お礼だと言って私にハブラシをくれたことがあった。このときのハブラシがアメリカ人捕虜から貰った唯一の物であった。彼らの物を貰って、もし監視兵に見られでもしたら大変なことになるからである。仲良くするなと直接注意されたわけではないが、あまり親しくすると監視兵の怒りを買うということを知っていた。だから、彼らのうちの一人が金の指輪を私に差し出して食べ物と交換してくれと言ったときも、私は「こういうことはできない」と断って、食べ物だけをこっそり彼に渡した。
 食べ物に不自由していたアメリカ人捕虜が、それにもまして不自由していたのは酒やタバコなどの嗜好品だった。タバコは仕事の休憩時間に、監視兵から一本ずつ支給されていたがもちろんそれだけで足りるはずもない。そこでおもしろい物々交換の方法が私たちの間に生れた。彼らアメリカ人捕虜は欲しい物があると、寮の二階から食べかけのまくらパン(食パン)などを紐に結んで、窓からスーッと下ろしてくる。一階にいる私たちは下りてきたものをとって、代わりにタバコや酒を紐に結びつけてやる。すると彼らは紐をスーッと引っ張りあげて目当ての物を手に入れるのだ。しかし、一〇分ごとに監視兵が寮の周りを巡回しているので、やり取りには十分な注意が必要だった。それでも私たちは彼らのために、下りてくる紐に酒やタバコを結んでやった。
 アメリカ兵と親しく接するうちに、彼らから単語や片言の会話を習ったりして、そのうち私もごく簡単な英語なら理解できるようになっていった。それで昼食の時間にはアメリカ兵と話をしたり、また寒い冬には倉庫や待合所のストーブで一緒に暖をとりながら、身の上話もした。「自分はこうやって捕まった」「私は妻も子どももいる」「子どもは何人だ」とか、そんな話が出てくる。手振りなんかも入れながら話していると、彼らが海兵隊で、船の上で日本軍の捕虜になったことなどがだいたいわかってきた。
 こうした八幡での日々は、私に「アメリカーもおんなじ人間なんだなー」という強い印象を与えた。

帰沖後、徴用される

 一年の契約を終え、沖縄に帰るときがきた。鹿児島の港から船に乗ったが、敵の攻撃の恐れがあるからと船はいったん港に引き返した。そのころ湖南丸の事件(編者注 一九四三年十二月二十一日、米軍の攻撃による撃沈事件)があったので、警戒していたのだ。
 沖縄に帰った私は、二十一歳で徴兵検査を受けたが不合格で、その後は家にあった荷馬車を使って飛行場建設に携り、一日約七円の賃金をもらった。しかし十・十空襲で飛行場が壊滅的な被害を受け、馬車を使って建設作業をしていた「馬車ムッチャー組」は解散することになった。
 それで、同じく十・十空襲で被害を受けて運行できなくなっていた軽便鉄道に代わって、馬車で山部隊(佐久間隊)の荷物を東風平まで運搬する仕事をすることになった。この佐久間隊は私の家の東側にあった叔父(※※)の家と、その隣の私の従兄弟、※※(松田※※)の家を使っていて、※※の家の一番座では隊長の佐久間少尉が寝泊りしていた。
 そのおかげで、私は彼らと知り合いだったので働きやすかった。その兵隊たちと、大砲、爆弾、酒、タバコ、米などの荷物を夜通し運んだ。朝に読谷山を出ても、東風平に着くまでには翌日の明け方になっていた。こうして働いている間にも米軍の攻撃は続き、区長や警察が疎開するようにと言って来たが、私は「ワンネー、ヤンバルンカイイカンドー。アマーケェテェーウカーサルアグトゥ(私は山原には行きません。あそこは危ないですから)」と断った。
 日増しに戦況は悪化し、佐久間隊には島尻行きの命令が下った。隊長が私に「戦地へ赴くため、馬車を五台貸してくれ」と頼んだので私は知り合いの家などを回って、なんとか五台の馬車を用意した。私は、隊長に自分も島尻に連れて行ってもらえるよう頼もうと思い、家に帰って着替え、さっそく島尻行きの準備をした。しかし、隊長との話を聞いていた母が、「お前はなんでズボンを替えているんだ。隊と一緒に行ってはいけないよ。お前は、家にいて兄さんの嫁や子どもをちゃんとみなさい、馬車だけ貸しなさい」と言ったので、私は隊と一緒に行くのを諦めなくてはならなかった。
 私から五台の馬車を受け取った隊長は、「私たちが生きて帰ってこられたら、お前の家に代金を払いに来るから、私が書いた証明を持っておけ」と私たちから馬車を借りたことを証明する、部隊長名の証明書をくれた。
 その日は雨で道はぬかるんでいた。彼らは大砲を島尻まで運ばなければならなかったが、私が用意した馬車には、弾薬や砲、酒や菓子などが満載だった。それで大砲にはロープをかけて、引きずるようにして運んでいた。これから行く道のりを考えると、どれほど大変だろうかと心配しながら彼らを見送った。
 三月の末、佐久間隊が去って仕事を失った私は、家に残っている必要もなくなり、また米軍の攻撃も激しくなって危険だったことなどから、どこかへ避難しようということになった。それで私たち一家は隊長からもらった証明書を持って、喜名住民が避難していたナガサクの壕に避難した。

ナガサクの壕

 ナガサクの壕には同じ字の人たちが八〇人ぐらいと、日本兵が数人入っていた。この壕は日本軍の通信施設になっていて、電話や無線機などが設置されていた。無線機は襖(ふすま)の半分ぐらいの大きさがあり、その前に二人の日本兵が陣取って緊迫した様子で戦況を追っていた。
 壕に設置されていた電話の配線は米軍の爆撃や艦砲弾ですぐにやられてしまう。それを何回も何回もひき直すのが通信兵の役目で、ナガサクの壕に来ていた通信兵の一人は私の同級生の伊波※※だった。彼らにも首里城へ集結せよとの命令がくだり、伊波は私に「※※、ワッター島尻ンカイ、集合ヤンリー。お前とは今日が最後だな、ナーワカリドー」とさようならを言いに来てくれた。あの時の身を切られるような思いは、言葉にはできないものだ。
 壕内にいた二人の日本兵も、配線のために頻繁にやってきた伊波※※たちも島尻へ行ってしまったので、壕内は一般住民だけになった。兵隊たちは壕に無線機などの通信機をはじめ、トラック二台分ぐらいはある米、また日本刀などをそのまま置いていった。この壕は一般住民で使っていいということだったので私たちはいくらか安心することができた。
 住民ばかりになったこの壕に、日本兵と朝鮮人慰安婦のあわせて六人が逃げ込んできたのは、それから数時間も経たないうちのことだ。朝鮮人慰安婦たちの家は牛ナー(闘牛場)や、私の家の近くのクシナカジョーなどにあったのだが、その日は空襲が激しく、避難できる場所を探していたのだろう、兵隊は鉄兜をかぶり、慰安婦達はナベを被って私たちの壕に駆け込んできた。
 しかし壕内の年配の人たちは、彼らを見て怒り出し「お前達は兵隊のくせして、ここは民間人の壕なのに、ここでいちゃいちゃしたら、私たちはどうなるんだ。戦(いくさ)してるんだぞ」と言った。普段は酒を飲んだりして遊んでいる人達なのだと思っていたからだと思う。私も、彼らには壕にいて欲しくなかった。「兵隊なんだから、ここに潜んでいないで、戦争しに行って来い」と皆で彼らを追い出してしまった。
 私たちは日本軍が残していった無線機から流れてくる米兵の声や、彼らがたてるカチャカチャという音を聞いたりして、米軍の様子もいくらか知ることが出来た。しかし、翌日には日本軍がやってきて、この壕を焼き払うから出て行くようにと私たちに命令した。通信機材や食料を米軍に渡すのが嫌だったからだろう。彼らが壕内に石油をかけてすべてを燃やしてしまったので、私たちは、次に避難する壕を求めて外をさまようことになってしまった。
 ナガサクの壕を出て一晩が経ったが、私たちはあてもなくさまよっているよりは壕に戻ったほうがいいと思い、ナガサクの壕に戻ることにした。

投降する

 ナガサクの壕に戻ってからは、近くを通るアメリカ兵の声などが聞こえ、たまには壕のすぐ前を通りかかる姿を見かけるようになった。壕内の人々は「アメリカーが上陸ソーサヤー。クッターンカイカチミラリーネー、クルサランガヤー(米兵に捕らえられたら、殺されるのじゃないか)」と震え上がった。そのうちに南部から避難してきたどこかのおじーが「ナーメーメー、死ヌシドゥマシドー。ムル死ナナヤー(もう、みんなそれぞれで自決したほうがいい、みんなで死のう)」と言った。今にも殺し合いが始まりそうな緊迫感が漂い、日本兵が置いていった日本刀を手にする者までいた。しかし私は八幡製鉄所時代に仲良くしていたアメリカ兵のことがいつも脳裏にあって、この頃言われていた鬼畜米英という言葉よりも、アメリカ人も同じ人間だということのほうが実感だった。それで「ワンネー死ナビランドー。八幡鉄工所でアメリカーターンマジョーンハタラチャグトゥ、シワシミソーランケー、死ジェーナイビランドー(私は死にませんよ。八幡鉄鋼所でアメリカ兵たちと仕事をしていたから、死なないで下さい)」と説得した。それを聞いて、みんなが「なんでそんなこと言うか」と私に抗議するので、私は製鉄所でのアメリカ人の様子などを話した。すると自決は思いとどまったが、みんな放心状態に陥り、がっくりとうな垂れていた。
 アメリカ軍がガスを撒いたのか、壕内に咳き込む人が増えた。油をのどに塗ると咳がおさまると言うので、自分の油甕を探したがいつのまにか盗まれて無くなっていた。
 四月三日ぐらいだろうか、ナガサクの壕がアメリカ兵に見つかった。みんな仕方が無いんだから出ようと、あきらめて壕を出た。女の人はわざとヤナー(みすぼらしい)服を着て、ナベのススを顔に塗った。そして私は、馬車を部隊長に貸した際の証明書をアメリカ兵に見られたらまずいのではないかと思い、燃やしてから壕を出た。
 ナベのすすを顔に塗って、男やら女やら分からなくなった両親のことを、私がアメリカ兵に「ママさん、パパさん」と紹介すると、意味を理解してくれたのか持っていたタバコに火をつけて私にくれた。
 機関銃を持った四〇名ぐらいの米兵の中に、日系ハワイ二世の通訳兵がいた。なんとこの人の親は喜名の出身で、しかも母の知り合いだった。私たち一家が馬車のそばで水を飲んでいると、この二世が母に気付いて声をかけてきた。二人はお互いの顔を見ると抱き合って懐かしがっていたので、私は知り合いだったのかと驚いた。しかし米兵へのわだかまりも少しあったので、絶対に二世なんかとは口をききたくないと思い、握手や挨拶もせずに様子を見ていただけだった。
 険しい山道だったのに、壕を出て少し歩いた所にトラックと戦車が何台も停まっていて、トラックに弾薬が山のように積まれているさまには驚いた。そんな私たちに、米兵はいくつかのトラックに乗れと命令し、全員それに乗って山を下りた。途中のきび畑などは、激しい砲爆撃でほとんどが倒れていて、畑の向こう側を歩く猫が見えるほどだった。私は、変わり果てた景色を見て、山の中にいたから助かったんだと思った。
 喜名の部落に入ると、米軍がブルドーザーで家々を壊しているのを目撃して、何ともいえない気持ちになった。立派な家もあったが、滅茶滅茶にされるのをみんなで呆然と見ていた。
 やがて座喜味の瓦屋根の家に着いた。玉城(タマグスク)という家だったんじゃないかと思うのだが、座喜味城址の下にあった家だった。私がナガサクの壕で一緒だった波平※※と、持ってきた黒砂糖を食べようと思い袋から出したところ、それを見たアメリカ兵がこの砂糖を靴で割った。おそらく黒い色をしていたので火薬か何かと間違えたのではないかと思う。割られた砂糖を食べると、のどが渇いたので二人でアメリカ兵に向かってのどが渇いたと手振りなどを交えて言うと、水をくれた。それを飲んで、人心地つくことができた。
 しばらくしてから分かったことだが、私たちが米軍に捕らえられた時、喜名出身の二世が「ここは私の部落だから、ここの民間人は絶対に殺してはいけない」とアメリカ兵たちに言っていたという。

もとの部落に帰る

 喜名に戻ることが許されたが、私と家族は自分の家ではなく郵便局の後ろの家で暮らすようにと米兵に言われた。その家に行くと、アメリカ兵に捕らえられて集められた部落の人々が二〇人ぐらい居た。
 私は現在の「象の檻」あたりを一人で歩いている時に、アメリカ兵にお金をとられたことがある。その時運悪く「馬車ムッチャー」をしていた時の給料を持っていたため、それをすべてとられてしまった。代わりにという意味だったのか、彼らは私にアメリカの金を渡したのだが、私は本当に頭にきてしまった。しかしどうすることも出来なかった。彼らは私を喜名の役場の後ろに連れて行き、「行け」という感じで手を振って私を解放した。こういう危険なことがあるので、生まれ島の喜名に帰ったといっても安心して出歩けなかった。
 もとの部落で生活できたのは、米兵に投降してから二〇日ほどにすぎなかった。五、六人のアメリカーが拳銃を突きつけて、部落内の皆を外に連れ出した。「歩け、歩け」とせかされて、全員が軍のトラックに乗せられ、金武の収容所に連れて行かれたのだった。

金武の収容所

 父だけが宜野座に連れて行かれ、残りの家族は全員、金武の収容所に入った。金武は、読谷よりも食料事情が悪かった。それで私は家族の食事を確保するために、収容所から喜名までの道のりを歩いて、芋掘りに行ったりしていた。
 収容所になっていた学校が米軍輸送部隊の陣地だったので、そこに友軍が斬り込みに来ることもあり、昼でも夜でも米軍の許可なく出歩けば、殺されるのはあたりまえといった感じだった。
 金武へ移動して一〇日ほど経った頃、金武の収容所にいる班長から「今日は、何処にも行くな。捕まるぞ」と連絡が入った。恩納岳にいる日本兵を討伐するため、アメリカ軍が出動していたのだった。それで私は班長の言う通り、家で姪の子守りをしていた。ところが、子守りをしながら私がひげを剃っていると、四〇名ほどのアメリカ兵が雨にぬれて家の庭先に立っているのだ。来いと言われて行ってみると、庭先に吊るされた日本軍の軍服や水筒を指差して「これはお前のか」と聞いてきた。それは子供達が山から拾ってきたものだったので私は「違う」と言ったのだが、「絶対お前のだ」と言い張って信じてくれない。母の説明で納得したようであったが、ほっとしたのも束の間、今度は腕にあったジトウ(種痘)の痕を見られて、「注射をされたのは兵隊だからだろう」と疑いをかけられ、結局トラックに乗せられ、家から連れていかれた。
 やがて車は恩納の※※(屋号)に着き、私はそこに作られた三間ぐらいの金網に入れられた。そこには四人の人が閉じ込められていた。二人の日本兵と、一言も話そうとしない五十歳ぐらいの男で、そしてもう一人の男は裸で踊りくるっていた。
 翌朝アメリカ兵がやってきて、私と一言もしゃべろうとしない男の二人に「出ろ」と言った。アメリカ兵が米を持ってきてくれて、炊いて食べろと言われたのだが、石川行きの車が出ることになって、私たちは乗せてもらおうと思い、炊事を途中でやめて二人でトラックに乗った。

石川にて

 一緒だったこの人は本当に不思議な人で、捕まえられていたときにはずっと黙っていたのだが、石川の収容所に着くと上手な英語を話しだして、まるで通訳のようだった。この人は金武の郵便局長だったらしい。
 私はテントに連れて行かれて、そこで生活することになった。私たちがそのテント暮らしを始めた頃、顔を洗いに井戸まで行くと、傍にあったゆうなの木に首を吊って自殺している死体を見たことがあった。
 石川では日本敗残兵の夜襲がよくあった。だから夜に勝手に外出すると、日本軍の斬り込み隊と間違えられてしまうので、私は夜の外出は避けるようにした。
 海上では艦上からサーチライトの光を幾つも空へ伸ばし、飛んで来た特攻機を絡めとるように照らし出していた。特攻機は暫く旋回していたが、米軍の攻撃を受けて多くは海に墜落した。中には艦船に体当たりしたのもあった。
 石川で暮らし始めて四、五日目に仕事が決まった。東恩納を通って後原に米兵の車で連れて行かれて、毎日モータープールで働くように言われたのが始まりだった。
 ある日、モータープールで車を洗えと指示されたので、ガソリンでエンジンを洗っていた。ブラシの金具がスターターにあたり、「パシッ」と音がしたかと思うと「ボーン」という爆発音と共に私は吹き飛ばされて腕を強く打った。そばにはガソリンの入ったバケツがあり、火が燃え移って火事になってしまった。隣にあったメスホールはお昼時間でみんなが食事をとっていたので、何事かと飛び出してきた。「火事だー、火事だー」と大声をあげる人、バケツをがんがん叩いて火事を知らせようとする人、水をかけて消火しようとする人。大騒ぎのモータープールに、事務所にいたキャプテンが駆けつけて来た。キャプテンは私を現場から助け出して、東恩納にあった病院に連れて行ってくれた。それから一週間近く、私は仕事を午前中で切り上げさせてもらい、キャプテンのジープで病院に連れて行ってもらった。キャプテンは治療が終わると私を家まで送ってくれた。
 やがて私の働いていたモータープールは解散し、私は読谷に戻った。バラバラになっていた家族も、みんな読谷に戻って暮らすことになった。
 この戦争で私の同級生や仲の良かった友だち、いとこたちなどたくさんの人が死んだ。ナガサクの壕にいた私に別れを告げに来てくれた伊波※※も、あれが最後だった。戦争は怖い。死んだみんながかわいそうだ。生き残った人々が今こうして平和に暮らしていることを考えると、戦争がなければみんな、兄弟や友達と一緒に楽しく暮らせたのになと思う。
 しかし、一つだけ良かったと思えるのは、ナガサクでの集団自決を避けられたことだ。私は八幡製鉄所でアメリカ人捕虜と過ごした日々に感謝した。あの日々があったからこそ壕での集団自決を止めることができたと思うからだ。
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