第六章 証言記録
男性の証言


<-前頁 次頁->

読谷からやんばる、そして投降

宮城※※(大湾・※※)大正十四年生

十・十空襲

 当時、私は青年師範学校に通っており、十・十空襲の日も学校に向かって比謝矼の集落内を通っていました。※※の前にさしかかったとき、「実敵!実敵!」と兵隊たちが大声で叫びながら避難を呼びかけてきました。私は「実敵」と言われても、その実感が無く、すぐには敵機来襲を現実のこととして認識することが出来ずにいました。二、三分は経ったのでしょうか、ガタガタ震えながらやっと家に走って帰り、家族を防空壕に避難させました。爆発音が家の周辺近くで聞こえ、しばらくは壕の中でじっとしていたのですが、落ち着いてくると攻撃の様子を見たいと思い、外に出ました。龕屋(ガンヤー)の近くに「ホーイガジマル」と呼ばれた枝振りのいいガジマルの木があって、そこに隠れていれば大丈夫だろうと、そこから様子を窺うことにしました。すると、北飛行場方面の上空を敵の攻撃機が編隊を組んで攻撃しているのが見え、たまにはこちらに向かって来るものもありました。近くの高射砲陣地からも反撃しているようでしたが、ほとんど当たりませんでした。
 夕方になって、攻撃が終了したので字内の様子を見ると、家が傾いたりしていました。しかし、焼けたものはなく、亡くなった人もいませんでした。

長田の避難壕へ

 一九四五年(昭和二十)三月の米軍の上陸前の攻撃が始まった頃は、「渡慶次ヌ山」の防空壕に居て、日中はそこで過ごしていました。屋敷内の家族用の竪穴式の防空壕では危険だということを十・十空襲で感じていたからでした。しかし、攻撃が段々ひどくなり、フルギンガー(古堅の神井戸)の近くでは防衛隊員が爆弾でやられたということで、私たちの居た壕に防衛隊員が避難してくるようになったので、二十四日に長田の方に避難することにしました。当時わたしの家には日本軍の炊事場と、後ろの方に離れて医務室がありましたので、家の周辺はいつ攻撃されてもおかしくない状況だという思いもありました。
 私たちが移動したのは長田の茶園近くの大きな壕で、それは日本軍によって作られたものでした。中は大きな松の坑木で支えられており、しかも厚みがあって直撃を受けても大丈夫のように思われました。その壕には外から見えないように銃座があり、中から攻撃できるようになっていました。また、この壕は掘り取った土を壕の周辺には積まずに遠い所まで運んだのか、周辺は見事にカムフラージュされていました。私たちがその壕に避難していると、次々に地元の人が入ってきました。
 三月二十五日は朝から攻撃があり、午後からは後に「トンボ」と呼んだ米軍の偵察機が飛び始め、飛行場の方角から艦砲弾が落ちるのが聞こえはじめました。この避難壕周辺にもどんどん砲弾が落ちてくるようになり、艦砲弾はちょうど川沿いに、二〇メートルぐらいの間隔で二つずつ落ちていきました。そして、私たちのいた壕の上でも爆発し、壕の入口が詰まるくらいの土砂が崩れ落ちてきました。「ここは狙われている。大変だ、家に帰ろう」と攻撃が止んだあと集落に帰りました。すると、避難する時はきれいだった道が艦砲弾ででこぼこになり、木はなぎ倒され道をふさいでいました。それを見て誰かが「戦いというのはこんなもんだ」と言いました。
 家に戻って中に入ろうとすると、爆風で家がゆがんだのか雨戸が開かなかったので、台所の方から壊して入りました。裏に回ると幹回りが優に二メートルはあった松や、一・五メートルほどの赤木が根こそぎひっくり返されていて、周辺の岩は砲弾で砕かれ真っ白になっていました。私たちが味噌や砂糖などの食料を運び出していると、立ち退き命令を伝えるために嘉手納警察署から巡査が来ました。
 そうこうしているうちに七時か八時ごろになりました。私の家の二階は高射砲部隊の食糧倉庫になっていたのですが、そこに日本兵らが食糧の運び出しにやって来ました。その中に親しくしていた井口曹長もおり、私たち家族のもとにわざわざ挨拶に来ました。そしてありがたいことに「非常時だから」と救急薬品等を分けてくださいました。井口曹長が「我々は、これから首里に引き上げる」と言うので、私が「高射砲はどうしますか」とたずねると、「対戦車砲に使う」と答えました。私はハッと気付いて、もう敵が上陸するという事なんだと、思わず気が引き締まりました。
 二十七日の晩に大湾の住民が揃って国頭に避難するということで、屋号※※の前に集められました。その日は激しく雨が降っていました。「年寄りは馬車に乗るように」ということでしたが、年配の方があまりに多く七十七歳の祖母さえ馬車に乗ることができず、歩くことになりました。
 夜の十時ごろだったと思いますが、喜名の新しい校舎が燃えさかっていて、その熱が、県道を歩いている私たちにまで伝わってくるほどでした。県道は北部に向かう人でいっぱいでした。久良波山田を下りた海岸は米艦艇からのサーチライト等に照らされて明るいので、隠れ隠れ歩きました。

名護の幸喜へ

 大湾を出発した私たち一家は、恩納で一泊し、二泊目に幸喜に着きました。幸喜には、戦前に私の家の一番座を借りておられた宮城※※先生がいました。戦前の農林の先生で、私の名づけ親でもあり、古くからの付き合いでした。先生から私たちに「戦世は長く続くはずだから、是非国頭避難の際は幸喜に来てくれ」という便りを前々からいただいていました。その頃は、まさかほんとうにお世話になるとは思っていませんでしたが、この先生を頼って幸喜に行ったのです。先生は「マチカンティー シテイタヨー(待ちかねていたよ)」と言って温かく迎えてくださいました。「ここは飛行機の音は聞こえない、戦世のようにも思えない」とおっしゃっていたのですが、なんと先生は私たち一家の避難小屋と避難壕も準備してくださっていたのです。先生が「※※君、戦争は長引くはずだからここで田んぼを耕し、稲も植えて頑張ろうね。そのために田んぼも準備してあるよ」と言われ、私は「それではお願いします」と言って、先生と田植えをしました。
 しかし、それから三日もすると幸喜でも米軍の爆撃を受けるようになりました。先生が大事に飼っていた牛も空襲でやられてしまいました。先生は泣いていましたが、仕方のない事だからせめて肉だけでもとろうということで、その肉を取り、アンダンスー(油みそ)をたくさん作りました。先生は「これはあなた方の分」と言ってたくさん分けてくださいました。その後、このアンダンスーが命をつなぐ大きな役割を果たすことになりました。
 私は四月一日の現地現役入隊を待つ身であり、じっとしてはおれず、国頭村奥間の仮役場に行くことにしました。祖父と祖母は幸喜に置いて、私は母と妹を連れて幸喜を後にしました。許田にさしかかると、橋が破壊されていて川を渡れないため、たくさんの避難民が立ち往生していましたが、それでも干潮になってからなんとか川を渡り、名護にたどり着きました。その時はもう名護も艦砲射撃が激しく、名護の街も燃えていました。艦砲弾が「ヒュー、ドン ヒュー、ドン」と飛んで来るので、夜でも隠れ隠れしながら進まなくてはいけませんでした。道中には道案内の巡査が立っていて、「ここから行きなさい」と案内してくれました。名護を越えてからは昼でも歩ける状況で、塩屋湾をずっと迂回して奥間に着いたのは、幸喜を出発して二日後の夜九時頃でした。
 後で聞いた話ですが、幸喜に残した祖母は家に残したアヒルや家畜のことが気がかりで読谷に帰ると言いだし、引き止める祖父らを振り切って宮城※※先生宅を出ました。途中でアメリカ軍の憲兵隊に捕らえられ、石川の収容所に連行されたようです。二、三日経っても祖母が帰らないので、祖父は読谷まで無事に行けたんだろうと思いこみ、自分も読谷に向かうことにしました。しかし、同じようにアメリカ兵に捕らえられ石川に連行されたということでした。

避難地に着いて

 仮事務所に行って「大湾の宮城※※です。現役召集令状を貰っていますが、どうしますか」と尋ねると、「すぐに軍と連絡を取るから、一番近い避難小屋に行きなさい」と言われ比地の避難小屋に行きました。そこでは、ありがたいことに係の人が待っていてくれて「よく来たね」と配給の切符をくれました。案内されて山に行きましたら、ちゃんと避難小屋が造られてありました。
 しかし、避難小屋にいたのもほんの二、三日で、四月二日か三日には米軍がやってきました。それで更に山奥に逃げ込みました。山では少ない広場に竹などで日陰をつくり、それぞれ大湾、古堅、渡具知と部落ごとにある程度まとまって生活していました。
 馬を潰したという話があり、渡具知の若者三名がそれを分けて貰おうと出かけて行きました。しかし彼らはその途中でアメリカ兵に出くわし、殺されたという話が大湾の人々の間にも伝わり、更に山奥へ逃げようということになりました。
 その翌日、今度は一緒にいた※※のおじいさんが芋を掘りに行ってアメリカ兵に出くわしてしまいました。老人ということで殺されはしなかったのですが、米軍に道案内をさせられ、大湾の人たちの隠れているところに米兵を連れてきました。おじいさんは「アメリカ―がチュンドー(アメリカ兵が来るよ)」と叫びながら歩いてくるので、皆それを聞いて蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。隠れる場所を探して右往左往するなか、誤って米兵のところに逃げた者までいる始末でした。しかし、幸い撃ち殺された者はいませんでした。
 私たち一家は、銃声が聞こえたのですぐ前にある藪の中に飛び込みました。撃たれでもすれば身の守りようもない所でした。
 この※※のおじいさんの事は語り草になっています。反対側に連れて行けばいいものを、人間というのはけっこう嘘をつけないものなのです。戦後、このおじいさんと会って「ウンジョー ムノー ウマーン(あなたはどうして私たちの所に米兵を連れてきたのですかの意)」と私が言うと「アンシ カチミラッティ アッキンリル イヤギールムンヌ」と言っていました。捕まった者としては歩け歩けと言われて歩くしかなかったというわけです。
 山中では、古堅の波平※※一家など六、七世帯が一緒になったのですが、離れてはまた一緒になるという具合でずっと一緒ということではありませんでした。特に私たちの家族には従兄弟に当る赤ん坊や、二、三歳の子供もいて、この子供たちがしょっちゅう泣くものだから同行していた人たちから嫌われていました。敵に見つかりやすいということで敬遠されたわけです。ですから、できるだけ単独行動を心がけました。

国頭山中から久志へ

 この比地の山では危ないから、南へ下ろうということで、南に向って歩き始めました。その途中で日本軍の一個小隊と出会いました。この隊の陸軍少尉に比地の情報をお話して、互いに頑張ろうということで別れました。そのすぐ後にダダーンと銃声がしましたから、もしかするとこの部隊は敵軍と遭遇し、斬り込んで行ったのかも知れません。我々は南へ南へと山道を急いで逃げて行きました。
 山の避難小屋と麓の畑の間は、避難民が歩くので自然に道ができていたのですが、そこには家族とはぐれて歩けなくなった七、八十歳ぐらいのお年寄りが点々と栄養失調の状態で座り込んでいました。私たちにむかって両手を合せ「芋ちょうだい」と言うのですが、あの時は自分の命もどうなるか分からない時なので、気の毒ではあるけれど構わずに歩き続けるしかありませんでした。このような非常にしのびない場面に何度も出会いました。
 大湿帯にはたくさんの避難民がいました。我々もそこにいて芋を掘って食べ命をつなぎました。しかし、親戚のおばあさんが栄養失調で亡くなってしまいました。そのおばあさんをそこに葬って我々は久志に移動しました。
 久志の山は米軍の野戦缶詰の空き缶やタバコなどがあちらこちらにあって、近くに米兵がいることがすぐに分かりました。叔母が先に立ち、次に妹、母、私の順で「許田の線」を突破するため久志岳を下りていくと、途中目の前に大きな軍用犬のシェパードが現れました。今にも飛びかかられるのではないかと思い、軍用犬は首筋を狙ってくるからと棒を握って緊張していましたが、しばらくにらみ合うと、犬の方が引き返して行ってしまいました。米軍が近くにいるらしいので、すぐ藪の中に逃げたのですが、叔母が逃げそびれてしまいました。
 叔母は落ち着いて米兵達に対応して、「その犬が見つけたのは小さい子供であって、それらはあっちに行ったよ」などと身振り手振りで説明し、米兵達をやり過ごしたということでした。
 私たちが軍用犬と鉢合わせになった場所は、近くに東風平の人たちの避難小屋がありました。私たちがそこを通りかかった時、近くでダダーンと銃声がして、後で聞いた話では、怪我をしていた男性は撃ち殺され、そこにいた女性たちはみんな連れていかれたそうです。途中で鉢合わせになった芋掘り帰りの女性たちも連れて行かれたということでした。久志岳には村上隊という護郷隊がいるということで米軍は厳重に警戒していたのです。殺された男性は、その村上隊と間違えられて殺されたのではないかと思います。皆、そんな厳重な警備体制の中にいたわけです。
 私たちが潜んでいたのはタンガマというところで、とても見つかりにくそうな場所でしたので、そこに私たちは避難することにしました。

山を下りる

 母は食料を探して、自由に山を登ったり下りたりしていたので、村の状況もよく耳にしていました。母からの情報によると、いよいよ明日は久志岳掃討戦が戦車や飛行機を使って行われるということでした。私は「このままではどうしようもないから、ここで死んでもいいさ」という気持ちになりましたが、母が泣いて諭すので「明日は朝から攻撃が始まるから、山を下りよう」ということになりました。母の願いがあったればこそ、今生きているんだと思います。
 そして久志小(クシグヮー)に下りると集落があり、そこには学校もできていて人もいっぱいいました。もう六月二十七、八日になっていました。
 振り返ってみると、缶に芋を入れて炊き、その汁で飢えを凌いで、まるまる三か月間山の中を歩いていたことになるわけです。
 山を下りると納屋に入れられました。そこには大湾の当山※※がおり、奥さんはすでに看護婦として働いていました。当山夫婦は私たちが来たことをとても喜んで迎えてくれました。各家に敗残兵がいないかと米軍MPが外から顔をのぞかせるのですが、暗いので私に気が付かないで行ってしまいました。四、五日はそこで藁(わら)に潜り込んだり、屋根裏に隠れたりして過ごしました。
 当山※※は巡査をしていたので、区長の山城と連絡をとってくれました。山城を通じて今度は当銘という校長先生に連絡をとると、「実は師範学校を卒業した青年が家に隠れている」と私のことを相談したようです。その校長が「私が保証するから連れておいで」と言ってくれたので、私は着物を着て、隠れていた家を出ました。

ミヤランシン収容所

 私が家の外に出ると、七人のMPが私を連行するためトラックでやってきました。私はその時二十歳になっていましたが、MPの体は倍くらいに見え、鬼というのはこんなものかと怖い思いをしました。彼らは自動小銃、手榴弾、短剣、拳銃と武装していて、一言も話さずに私を久志のキャンプに連行しました。日本兵であればすぐに銃殺されるなどと聞いていましたので、半ば命も諦めていました。私が彼らに連行されて久志の収容所に行くと、民間人用の収容所の中には人がいっぱいいたのですが、私が入れられた軍人用の鉄条網の張り巡らされた金網のなかには、誰もいませんでした。後で分かったのですが、私が入れられたのは久志のミヤランシンという収容所だったのです。そこに収容されるのは主に兵士で、収容人員はあとからは二〇〇名くらいに達していました。収容所の中には病院もあり、島尻からの負傷兵を治療していました。人員収容テントの他に炊事場等があり、有刺鉄線の金網に囲まれていました。入口の銃座は県道の方を向き久志の山にいた村上隊の夜襲に備えて非常体制を敷いていました。
 収容所では、夜の八時から翌朝六時までは地域周辺を歩いては行けないという警戒令のようなものがありました。ある日、その禁を破った老人が銃で撃たれました。沖縄の人が瀕死の状態の人を病院に担ぎ込んで、何とか命はとりとめました。
 この収容所に連れてこられる人は、日本兵ではないかということを調べる事が第一で、県人だと軍関係者ではないかということを調べていました。私がそこに入れられたのはそんな疑いをもたれたからでした。
 MPが水や食べ物を運んでくるのですが毒殺されるとばかり考えておりましたので、どうしても食べることが出来ませんでした。それでこのまま衰弱していくのだななどと考えていました。食事を持ってきたMPの腕章を付けた者が「プリーズ、プリーズ」と言って自から食べてみせたのですが、それでも食べる気になれませんでした。しばらくして私よりも二、三歳年上の山城という地元の青年が連れてこられました。彼も兵隊と疑われているのですが、「一緒に死にましょうね」ということで死を前提にいろいろな話をしました。夕方、その人の甥姪が地元にいるので食べ物を持って面会に来ました。煮物とか豆腐ンブシーとか当時としては高級料理で、それをもらってたくさん食べました。
 翌日からはCIC(米軍防諜部隊)による調査が始まったのですが、調査はまず英語で、そして日本語で、更に琉球方言で行われました。調査には日系二世の三人があたりました。広島出身の木村という人、朝鮮出身の森本という人、沖縄出身の具志堅という人でした。まず本土出身か沖縄の出身かを調査するために具志堅という人が「イッター アンマーンカイ アータンドー(お前のお母さんに会ったよ)」と言うのです。私が「トー マーンジ アーイビタガ(ほう、どこでお会いになったのですか)」と応じたので沖縄出身ということが分かるという具合でした。普通はそれで済むのですが、私は沖縄の青年にしても防衛隊、護郷隊に入隊していてもおかしくない年齢であるということで厳しく追求されました。
 木村という調査官は、日本語で学歴、軍隊経験等の調査をするわけですが、部隊名をあげて知らないかと聞いたり、部隊長名をあげて知らないかと言い、さらに「配属将校は誰だったか」と聞かれたので、私は「軍隊教育は五年受けていて、特別甲種幹部候補生に合格しており、軍隊にいけばすぐ将校になれるはずでしたが、四月に現地入隊のはずでしたが沖縄戦になったため入隊できず兵士ではありません」と答えました。木村調査官は最後まで私のことを「日本人で沖縄人ではない」と言い張っていました。言葉が分かるのは沖縄に来て帰化しているのだと言い、信用しませんでした。しかし、軍事教育を受けたが兵士ではなく、また出身も沖縄にまちがいないといったことが調査の結果明らかになり、釈放されることになりました。
 私が収容所を出る時、木村調査官は私に「宮城、あなたは正直者だから、いい仕事につけるから心配するな」と言いました。しかし私は、今時分いい仕事もなにもあるものかと思って、喜びもしませんし、ありがたいとも思いませんでした。
 ところが翌日、私は「宮城はモータープールの専属にしよう」ということで、今でいう自動車整備場に配置されました。自動車へ給油したり、点検したりするのが主な仕事でした。当時の収容所では、毎日ちり拾いなどの雑役をしており、食事は空かんに汁をもらって、おにぎりと食べるということが普通だったのです。ところが私たちモータープールで働く者はコーラは飲めるし、ガムもたばこも与えられており、本当に恵まれ、思いの外いい仕事に就いていたわけです。
 私はその頃、まだアメリカに対する敵愾心があったので、いざとなったら米兵をやっつける気でいました。ですから、本土攻撃に行くB29とかB24などの爆撃機が金武湾で墜落する事故を見かけた時、私はわざと聞こえるように手を叩いて、喜んだりしていました。ウレーキという中尉が「この宮城は」というような目で私をにらんでいましたが、叱られたりはしませんでした。彼は、私が捕虜になって、いい待遇を受けていても気持ちは変わらないということを知っているわけで、私の心情を理解してくれる人でした。そんな事があっても、その後「ストロングミヤギ カムヒヤ」と私を呼んで可愛がってくれました。この「ストロング」というのは、ある日ネジを力いっぱい締めたらナットが飛んでしまって、それからそう呼ばれるようになりました。
 ある時、トラックで読谷の楚辺物資集積所に連れて行かれ、荷物の運搬に従事させられました。米兵は運転席に乗り、私たちは荷台に乗っていました。久志の収容所に戻る途中、石川収容所の傍を通過中、運転手が気付かないのを幸いに、私たちは幾つかの物資を投げ入れました。後からついてきたMP車に見られ、私たちは注意を受けました。大変心配しましたが、特別な罰もありませんでした。
 八月の下旬頃に、久志と辺野古から名前をとった久辺初等学校が開校し、そこの校長先生がやって来て、教員免許を持っている人が少ないからぜひ学校に来て子供達の面倒を見てくれないかと頼まれました。私は待遇のいい、わりあい恵まれた生活をしており、いったん申し出を断りました。ところが、その後も地域の人やいろいろな方々が入れ替わり立ち替わり説得にやって来たので、遂に十月一日付けで久辺初等学校に勤めることになりました。
 それから間もなく高校ができるということで、十二月一日には久志高等学校に勤務することになりました。その後、久志高等学校と宜野座高等学校が合併することになり、一九四六年(昭和二十一)三月には久志初等学校に移りました。そして、一九四七年(昭和二十二)四月三十日に古堅初等学校に赴任することになり、それを機に読谷に帰りました。
<-前頁 次頁->