第六章 証言記録
男性の証言


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護郷隊の一員として

松田※※(喜名・※※)昭和三年生

軍事教育を受ける

 当時の学校制度では六年間の尋常小学校が義務教育でしたので、それを卒業した私は、高等科に進み、そこで二年間の教育を受けました。それが終わると、青年学校の普通科と本科がありまして、私は本科に通いました。
 青年学校では、主に軍事教練を受けました。私が通っている頃は松田軍曹が青年学校の教官をしていました。学校には小銃なども置かれていて、銃の使い方など軍隊の予備知識をつけることができました。体格が大きくて頑丈な者は、徴兵検査で甲種合格が狙えるということで、教育する側も特別な力のいれようで、私も同級生の中では体格が大きい方の部類でしたので、期待もされていました。
 一九四五年(昭和二十)二月末、青年学校の本科二年生だった私にも赤色の召集令状がきました。私はまだ十六歳と数か月の若さでした。令状にはこう書かれてありました。
 「球一八八一四部隊、歩兵第二補充兵松田※※ 昭和三年十二月生 入隊三月一日、場所 恩納村安富祖国民学校、前日午後四時に読谷山村役場前集合。」

読谷出身の護郷隊員

 役場前には、私を含む読谷山村出身者八人が第二護郷隊に入隊するため集合しました。
  読谷校区  松田※※(戦死)、天久※※、
        松田※※
  渡慶次校区 大嶺※※(戦死)、大城※※
  古堅校区  幸喜※※(戦死)、比嘉※※、
        池原※※
 第二護郷隊の新里軍曹が、北谷、越来、美里、具志川の各村から集められた四〇名ほどの、徴兵適齢前の少年たちを、集合場所であった嘉手納の農林学校から、私たちのいる読谷山村役場前まで引率してきました。そこで護郷隊の歌の歌詞が書かれた紙を配られ、皆で歌いながら、歩いて安富祖国民学校をめざしました。その歌は、こういう歌詞でした。
 護郷隊の歌 その一

 一、運命かけたる 沖縄島に 我等召されて
   護郷の戦士 驕敵米英 打ちてし止まん
 二、お召しを受けて 感激の日に 死所を求めて
   ああ死所得たり 郷土を護るは この俺たちよ
 三、丹き心で 断じてなせば 骨も砕けよ
   肉また散れよ 君に捧げて ほほえむ男児
歌を繰り返し練習しながら、護郷隊の精神を打ち込み、士気を高めるのです。到着後にすぐ点呼をし、軍服、小銃、銃剣などの支給を受けました。
 翌日の明け方前、支給された軍服に着替えて、国頭、大宜味、東の各村から召集された少年たちと共に、隊長と教官の訓示を受けると、すぐに新兵訓練が始まりました。毎日夜まで続く猛訓練は、三月の二十三日を過ぎた頃には激しい空襲の中で行われるようになりました。
 三月二十五日、私たちは恩納岳へ移動しました。読谷山村と大宜味村の出身者は第二中隊に配属され、松崎少尉が隊長になり、戦闘配備につきました。後で分かったことですが、私たち護郷隊は、大本営が直轄し、遊撃を任務とする秘密部隊だったそうです。ですから私たちはゲリラ訓練なども受けました。大本営から派遣された幹部は非常に若く、しかも優秀で、特に松崎少尉は当時二十四歳ぐらいの若さではなかったでしょうか。これも後で聞いたことですが、松崎少尉は「中野のスパイ学校」と俗称される陸軍中野学校を卒業したそうです。ですが率いられる私たちのほとんどが、まだ青年にもなりきれていない徴兵適齢前の少年でありましたし、軍隊というものは末端の兵たちに任務の内容などは教えませんから、そういった詳しいことは、すべて戦後知ったことです。

伝令

 恩納村山田の「※※」という家の離れに、通信班が置かれていて、私たちの隊はそこから無電で連絡をとったり、命令を受けたりしていたのですが、上陸間近になるとアメリカ軍の電波妨害で連絡がとれなくなりました。それで伝令を出さなければならないということで、三月二十六日、宮城※※伍長のもと読谷校区の私と松田※※(戦死)と天久※※の三人、他にあと二人の計五人が伝令として、山田の※※に待機することになったんです。同じ場所に通信兵も詰めていましたが、私たちは伝令のための待機なので、彼らの任務のことはわかりません。私たちは屋嘉の中継班に情報を届け、恩納岳部隊本部からの命令を宮城伍長に伝えたり、伝令に走ることで各隊の状況をしっかりと把握して宮城伍長に報告する、などといったことが任務で、その務めを果たすのに必死でした。
 朝四時ごろに、待機している私たちはたたき起こされて、二人一組で伝令に行くように命じられました。出発するまでに五分ぐらいの時間しかあたえられませんから、すぐに準備できるようにあらかじめ着替えは身に付けやすい形に整えておき、また靴下も石鹸をぬっておいて、靴がさっと履けるようにしてありました。
 出発するのは明け方なので、屋嘉までの行きには米軍の空襲や艦砲射撃はありません。しかし帰りは空襲と艦砲射撃の戦場を駆けて行く命がけの任務でした。爆風で耳が痛くならないように耳に脱脂綿を詰めて、防毒マスクは持っていましたが、硝煙と土煙でマスクが曇ってしまってよく見えないので、僕らはタオルを濡らして鼻から口だけを被って、きつい硝煙の中を歩きました。
 三十日ごろ読谷出身の私たちは、伍長と共に親志からヤマタイモー(現在のアロハゴルフ場の南附近)に偵察に行きました。西の海は敵艦船がいっぱいで、空襲と艦砲射撃の砲弾が雨のように降っていました。現在の飛行場滑走路の東側には航空隊の本部が置かれていたんですが、そこは空襲と艦砲で滅多撃ちでした。
 座喜味から波平、そして飛行場周辺を見ると、あたりは黒煙と土けむりがたちこめ、赤い火花が飛び散っており、その一帯は全滅したに違いないと思いました。くやしさと恐怖におそわれながらも、目と鼻の先の喜名にいるはずの家族のことが心配でしたが、軍規は厳しく一目会うことも許されませんでした。

負傷

 戦況は我が軍にとって日に日に悪化の一途をたどりました。恩納岳にあった部隊本部からの命令で、我々も山田を引きあげて本部に合流する事になり、既に米軍が上陸している山路を進みました。敵軍のトラックや戦車は道から山へ向かって機銃や小銃弾を撃ち込みながら進んでいきました。私たちの経路である仲泊、石川にはすでにあちこちにテント小屋が張られて大声で叫ぶ敵兵の声が聞こえました。
 私たちは、日中は敵軍の戦車やテント小屋のある場所を図面に記すなどして竹やぶに潜んでいて、夜間にひそかに石川岳へと歩いて行きました。すると、飛行場守備隊に出くわし、当初は敵兵だと思って戦闘態勢をとりましたが、伍長が「山」と叫ぶと向こうから「川」という声が返ってきたので、友軍だとわかりました。あやうく同士撃ちするところだったのを間一髪免れて、お互いに確認してみると、彼らのほうが階級が上でした。それで腹をすかせていると言う彼らに、私たちは携帯していた食料をすべて渡さなくてはなりませんでした。軍隊ではこのように上の階級の者には絶対服従だったのです。私たちは空腹でふらつく足取りで、ようやく本隊と合流することができました。
 私たちが潜んでいる恩納岳にはたくさんの避難民と、そして飛行場大隊も集結していました。後で聞いた話によると、私たちの任務は遊撃と軍の主力玉砕後のゲリラ戦が主だったものが、飛行場大隊などの集結に伴って膨れあがった兵員の食糧をまかなうため、私たちの隊の食糧もすぐに底をついてしまい、当初の任務であった玉砕後のゲリラ戦の展開も難しい状況に至ったようです。しかも恩納岳に潜んでいることは間もなく敵軍に知られてしまい、機銃掃射や戦車砲、迫撃砲が打ち込まれるようになりました。
 四月十九日、迫撃砲弾が炸裂した破片で私は右腕と下腹部を負傷し、戦友に野戦病院へ運ばれました。前日には読谷山村出身で従兄弟の松田※※が亡くなり、また幸喜※※も亡くなっていました。私も死ぬのではないかと思いましたが、幸い一命をとりとめることができました。野戦病院は、負傷者のうめき声や痛みを訴える叫び声が聞こえて、生き地獄のようでした。みな傷口から蛆(うじ)が湧き出し、しかも蛆が湧かない者は不思議と死にました。
 六月二日、私の傷もだいぶ癒え、杖にすがって歩くことができるようになったころ、私たちの第二護郷隊が移動することになりました。負傷兵の中には、移動は不可能だと自決した者もいたと聞きました。すでに恩納岳は敵に包囲されていたので、包囲網脱出の際に負傷、あるいは命を落とした者もいました。読谷山村出身の大嶺※※もその時に亡くなりました。
 護郷隊の軍備は三九三名の総数に対して無線が一個、小銃が二九〇、軽機関銃が一六、擲弾筒(てきだんとう)が一六でした。これで戦車を伴う強力な敵と戦えというのですから、むちゃくちゃな話です。それでも包囲網を突破した時、三〇〇名以上が共に行動していましたから、部隊幹部の指揮は、非常によく取れていたということなのでしょうか。ただ、私たちは食事らしい食事も摂らず、敵の攻撃の中、一日一日を生き伸びるのがやっとという有様で、これが日本帝国軍人なのかと悪夢をみているようでした。
 多野岳に配備の第一護郷隊と合流して遊撃戦に移行するとの命令でしたが、私たちが多野岳に着いた時、すでに敵の襲撃を受けて陣地は焼き尽くされていました。

家族との再会

 ここにきて、家族のもとに帰ってもよいという上官からの話もあったので、私は読谷出身の生き残りである高志保の大城※※と楚辺の池原※※と共に、これまで移動してきた道をたどって読谷を目指し、安否が気になっていた家族のもとへ帰ることにしました。
 もう七月で砲火も静かになり、戦争はもう終わったのかと思わせるほどで、余計に家族の安否が気になりました。
 漢那の山まで行った時、茅刈りをするたくさんの人々がいるのを目にして、私たちは彼らの近くまで行き、そこにあった木炭窯に潜んで彼らの話をきくことにしました。すると、話の内容から読谷山村民であることがわかり、しかも彼らの中には大城※※の知人が居たのです。私たちは外に出て彼らの話を聞き、金武村漢那に収容所が作られ、そこに読谷山村民が収容されていること、アメリカ兵たちは一般住民を保護して生活させていること、捕虜も殺さないが、民間人とは別に屋嘉収容所に入れられている事などがわかりました。彼らはこの日、米兵と共に作業に来ているので、見つかると私たち三人も捕虜収容所に入れられるから気をつけるようにとも言いました。
 私たちは着ていた軍服を木炭小屋に脱ぎ捨てて、彼らと一緒に茅を担いで山を降りました。漢那の収容所に米兵に気づかれずに入ることができ、収容所内に家族がいることがわかって、私は無事家族のもとに戻る事ができました。家族はとても喜んで、米兵に見つからないようにと私を匿っていましたが、結局私は米兵に見つかり、漢那近くの浜辺の林に作られた、小さな金網に収容されました。屋根のない鳥かごといったかんじのもので、そこに七日ほど拘留されたのですが、母が毎日米兵に手を合わせて哀願したことが功を奏したのか、負傷していた私に同情したのか、とにかく私は「CIV」と書かれた服を着せられ、家族のもとに戻されました。それは日本の降伏も間近の八月のはじめでした。

生き残った今

 私は、当時十六歳の若い命を、国家の存亡をかけての決戦に捧げようとの思いで、護郷隊として戦いました。私たちは、日本は建国以来不敗の神国であると教え込まれていたのです。私と同じように、はむかいようのない強い力にひきこまれるようにして、あの大戦に送り込まれ、そして亡くなった戦友の冥福を祈ると共に、生き残った戦友の健康と有意義な人生を祈念している今日です。
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