第六章 証言記録
男性の証言


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中国の戦野を転戦

山内※※(宇座・※※)明治三十四年生

○現役志願

 山内※※は一九〇一年(明治三十四)、読谷山村字宇座に生まれた。渡慶次小学校を卒業後、向学の志を果たせず、家業にしたがっていたが一年生と五年生の担任、曽根※※先生のお勧めにより母校の使丁となった。
 その頃の山内のことについては屋良朝苗がその著『私の歩んだ道』に書いているのでそれを引用してみたい。
 「私の母校渡慶次小学校では、学校の使丁(小使いさん)が独学で勉強して上級学校へ行ったり、先生になったりするようなことがあった。その歴史を作ったのは当山※※先生であった。(中略)この次は山内※※氏が、当山氏のあとに渡慶次小学校の使丁として入ってきた。頭もよく達筆であった。当山氏のあと二、三か年働いて教員を志望、試験をうけて合格した。はじめは代用教員だったが、渡慶次小学校の校長だった福原さんが、具志川村の仲喜洲の校長になったので、山内氏も福原校長によばれて仲喜洲に赴任、りっぱな洋服を着て仲喜洲の学校へ赴任していったのを、うらやましく思っていたものである」(一四頁)。
 その後、山内は思うところがあって教員生活を二年で辞め、一九二〇年(大正九)、現役志願して合格し、福岡(小倉)歩兵第二十四連隊に入隊した。
山内※※氏壮行記念撮影
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 一九二二年(大正十一)、陸軍伍長に任ぜられた。翌一九二三年十月、臨時編成第三中隊分隊長として満州へ派遣され、長春警備を終え、一九二四年(大正十三)六月に原隊復帰した。
 昭和改元。山内は第二大隊本部付炊事係、第三中隊付、連隊本部付を歴任し、一九三二年(昭和七)十二月、予ねて憧憬の陸軍士官学校(市ヶ谷)に少尉候補生として入校した。
 教養・武技・兵学・騎乗・戦闘実兵指揮等、広範多岐に亘る座学訓練に邁進し、一九三三年(昭和八)二月に卒業し、三月に陸軍少尉に任官した。
 折しも満州に戦雲漂う多難なる一九三四年(昭和九)三月、公主嶺独立歩兵第一連隊第二中隊付を命ぜられて渡満した。
 一九三六年(昭和十一)、陸軍中尉に任官、一九三八年(昭和十三)二月、黒河(ヘイフ)第七国境守備歩兵第二中隊長を拝命、引き続き同年九月、黒河高山(コウシャン)陣地警備中隊長となり、ソ満国境警備に当り、翌一九三九年(昭和十四)、陸軍大尉に任ぜられた。
 一九四二年(昭和十七)二月、第七国境守備隊兵器委員、翌年六月孫呉第四軍司令部を経て、一九四四年(昭和十九)八月、陸軍少佐に任ぜられた。

○部隊再編

 戦局の逼迫(ひっぱく)により部隊再編を余儀なくされ、一九四四年(昭和十九)二月十日第百一動員、第十二野戦補充隊第三大隊の編成が下命され、「満州国」浜江省殊河県一面坡(イーミェンポ)第五独立守備歩兵第二十七大隊において編成に着手し、同年二月二十日第一次編成を完結し、ここに山内部隊が誕生した。
 同年二月二十五日、鉄道輸送により編成地一面坡を出発。二十八日、満支国境山海関を通過し、北支那方面軍司令官の指揮に入り、同日、河北省塘沽(タンクー)に到着、内地部隊応召の喜多主計中尉以下一四七名を掌握し、第二次編成を完結した。

○北支の戦野を歴戦

 一九四四年(昭和十九)三月十二日、塘沽(タンクー)を出発し、同十四日、蘆龍県蘆龍(ルーロン)に到着。同地において中西部隊長の指揮下に入り、同地の警備に当った。
 同年三月二十八日、第一次春季鉄北(ティェペイ)作戦に参加し、翌二十九日、瑩山(インシャン)付近に敵匪団を捕捉し、三名の戦死者を出しながらもこれに大打撃を与えた。さらに同年四月二日より五日まで、第二次鉄北作戦に参加した。
 同年四月六日、京漢(ケイカン)作戦に参加のため蘆龍(ルーロン)を出発し、同日、県(グヮンシェン)に集結を完了した。
 五月十三日、十五時頃前里(チェンリー)村付近において敵と遭遇終日交戦し、夜暗を利用して敵陣を強行突破し、安楽窩(アンラウォー)に進出した。
 五月十四日、正午頃我が第一線に対し敵の大逆襲があり、通信隊の一部兵力をもってこれを撃退するも、通信隊に勤務中の兵長高橋※※が戦死した。
 翌五月十五日早朝、歩兵砲中隊が追及攻撃をする。当時、上清宮(シャンチンゴン)在の敵による反撃のきざしがあったため、大隊は正午出撃し、その企図を封じた。この戦闘に於て三名の戦死者を出した。
 五月十六日、安楽窩を出発、塚頭(ジョントー)・西渉溝(シーシャーコー)・東渉溝(トンシャーコー)を経て、五月二十一日元の巡閲史(ジュンユェシー)公署に進出した。
 五月二十一日、旧巡閲史公署に到着し、洛陽城に進出の準備を行なった。この日、第一大隊に配属中の第十中隊は、洛陽東南方史家屯(シージャートゥン)に於て敵と交戦し、二名の戦死者を出した。
 五月二十二日、洛陽城攻略のため洛陽城西関に進出。約一か月前、同地に進出警備中の第百六十三連隊稲垣大隊と連絡し、洛陽城西関の柴市街に於て、西北角よりの攻撃準備に着手した。大隊は二十二日夜暗を利用し、洛陽城西北の角より対戦車壕を乗り越える突破路を準備し、突入の研究訓練を行なった。明二十四日の総攻撃を目前にして、二十三日夕刻、西南の角より攻撃の稲垣大隊と攻撃位置の交代を命ぜられ、暗夜西関外の万安街(ワンアンジェ)を占領し、夜を徹し西南の角よりの攻撃を準備した。
 五月二十四日、西北の角より西南の角に攻撃位置の変更を命ぜられた我が大隊は、二十三日徹夜の強行作業を実施し、二十四日払暁その準備を完了。同日十二時三十分、第九中隊の右翼第一線・第十中隊左翼第一線・機関銃歩兵砲中隊の全火力をもってこれを掩護、それに楢山工兵隊の第二小隊(小隊長松尾正信工兵中尉)、栗栖大佐の指揮する戦車連隊支援のもとに、攻撃準備を完了し、十三時、野戦重砲の砲撃、続いて野砲兵の支援射撃とともに攻撃を開始した。特攻隊発進後間もなく、洛陽城一番乗の蜂巣軍曹の打ち振る日章旗が高々と掲げられた。時に十三時五分であった。山内部隊の戦死者を含め、戦死者合計一六名。
 五月二十五日、大隊は終夜にわたり城内の掃蕩(そうとう)を行い、二十五日の攻撃部隊数々の中から、我が大隊のみが名誉ある晴れの入城行進を行った。
 この京漢作戦は東西二八〇キロ・南北二〇〇キロにおよび、河南省全域にわたる約五万六〇〇〇平方キロメートルで、我が九州の一倍半の広さがあり、これに投入された兵力は三か師団一四万八〇〇〇名と言われ、一方敗戦を重ねた敵軍は、国運を賭け全兵力を結集しての一大決戦であった。
 五月二十八日、残敵掃蕩のため洛陽を出発、西安に向かい進撃したが、六月一日鉄門(ティエメン)北方において洛陽城警備の命を受け、ただちに引き返し、六月三日洛陽に帰着し同地の警備に就いた。
 六月三日、洛陽城警備。この間、大隊の対民衆軍規が厳正であることを上司に認められ、引兵団長より賞詞を授与せられた。

○蒙彊(もうきょう)地区警備討伐

 約一か月間の洛陽城警護の後、七月当初、北辺蒙彊地区への転進を命ぜられ行動を起こした。
 川幅四〇〇〇メートルといわれる濁流の黄河を帆船によって渡河するのは危険極まりない難作業であった。操舵する北海道兵の腕に全幅の信頼をよせてはいるものの、千名を越す隊員の誰もが必死決死の渡河であった。
 無事渡河を完了し、懐慶(ファイチン)より鉄道輸送により北上する。包頭(パオトー)を発起点に安北(アンペイ)・厚和(ホーフ)と京包(チンパオ)線周辺を跋扈(ばっこ)する匪賊(ひぞく)の討伐警護に、強敵八路軍との交戦、その上、水・燃料の不足に悩まされ続けながら行動を続けた部隊は、ようやく厚和新城内に居を据えたのである。
 七月二十日、駐蒙軍司令官の指揮下に入り、同二十二日、安北県警備のため包頭を出発した。途中、水や薪も不足ということで、全員薪を背負い行軍した。初日の行軍は順調であったが、第二日目の行軍には途中の部落に水は一滴もなく、道路上に前夜の降雨で溜まった雨水を先ず兵員に、次に馬に飲ませて行軍する難行軍であった。
 七月二十四日、安北県安北(アンペー)の警備に当る。この間、水管理をしていた木村武装密偵隊の武装を解除し、飲料水及家庭用水の配給権を県に行わしめた。
 従来この地区は、農業用水及び家庭用水を配給によってまかなっていたが、その配給権限を木村武装密偵隊が所有し、日次を決め各部隊および住民に配給していた。住民はこれを部落内溜池に流し込み、それを使用していたのである。相変わらずの薪・乾草不足のため、部隊は南城(ナンチョン)付近に露営し、乾草の蒐集(しゅうしゅう)を行なった。
 八月二十五日、安北出発、同二十七日包頭に着き、同地警備の任に当った。包頭への往路の行軍の際、水および燃料の不足に苦労した将兵は、自ら空瓶に水を充填し、燃料用の薪を背負い行軍を行なった。往路、飲料水無く、道路に溜まった前夜の雨水を飲んでいたが、大休止をした一帯を捜索したところ、近くに多量の清水の湧き出る地点を発見し、人馬共に十分に給水し、全員元気に行軍を為し得たのである。
 八月二十七日、包頭に着き、九月三日より三十日まで第一次厚包(ホーパオ)作戦に参加し、作戦終了後は包頭付近の警備に当り、十一月十八日、第二次厚包作戦に参加した。
 一九四五年(昭和二十)一月十三日より十六日まで冬季演習に参加。
 当時、在留邦人及び現地住民の中に、日本は大丈夫かという意味の声が出るように成っており、殊に現地住民の行動は、日本軍の戦果が上がった時は日本軍に協力的となり、日本軍の行動が思わしくない時には何か冷々しく感じるものがあり、我々日本軍の実力を疑うようになって来た感が濃厚になってきた。そのため部隊は作戦出動時、一列縦隊となり、兵の距離を一メートルとして行軍をした結果、行軍の全長約三〇〇〇メートルとなり、その反響を調査した結果、住民はこんなにたくさんの兵隊が居るのか、兵器もたくさん持って居り心強い部隊であるという事であった。
 二月二十八日、独立混成第九十二旅団独立歩兵第六百十七大隊編成が完結した。
1、編成 大隊本部 歩兵四ケ中隊・機関銃一ケ中隊・歩兵砲一ケ中隊・通信隊
2、装備 連隊砲二(四一式山砲一、一三式山砲一)・大隊砲一(九二式歩兵砲)
     迫撃砲一(北支一九式)・九二式機関銃八・軽機関銃四〇・擲弾筒二四
     九二式電話器三器・被覆線二〇巻・無線電信電話器五号三器、六号二器
     小銃九八〇・馬匹七五

 大隊本部将校及各中隊長

 ○大隊本部
  大隊長  陸軍少佐   山内※※
  大隊副官 陸軍少尉   鈴木※※
  本部付  陸軍中尉   真砂※※
  本部付  陸軍少尉   北 ※※
  本部付  陸軍主計中尉 喜多※※
  本部付  衛生見習士官 藤田※※
  本部付  衛生見習士官 福田※※
  本部付  陸軍獣医少尉 長尾※※

 ○中隊長
  第一中隊長  陸軍中尉 橋津※※
  第二中隊長  陸軍中尉 小林※※
  第三中隊長  陸軍中尉 近藤※※
  第四中隊長  陸軍中尉 仲嶺※※
  機関銃中隊長 陸軍中尉 小島※※
  歩兵砲中隊長 陸軍中尉 遠見※※
  通信隊長   陸軍少尉 古川※※

○南陽・老河口作戦

 一九四五年(昭和二十)三月四日、老河口(ラオフーコウ)作戦に参加のため、鉄道輸送により厚和(ホーフ)を出発し、五日、第十二軍司令官の指揮下に入った。
 一九四五年(昭和二十)三月三十日払暁、協力飛行隊の初爆弾投下を合図に野戦重砲・迫撃砲は一斉に射撃を開始した。
 重慶軍はあらかじめ城外一円に無数の地雷を埋設して、頑強に我が軍の前進を阻止した。山内大隊は三十日黎明、第三中隊に大官庄(ターグァンジュアン)前面、第四中隊を右翼第一線、第一中隊を左翼第一線として七時三十分頃から一斉に攻撃を開始したが、十二時頃から攻撃は思うように進捗しなかった。
 大隊長山内※※少佐は十五時頃、三・四両中隊の中間から第二中隊益田見習士官の指揮する特攻隊を発進させた。十七時頃、全員南陽城西北の角に突入し、二十四時頃完全に南陽城を占領した。
 同年四月二日、南陽出発。以降十七日まで田営(テェンイン)付近、果園(グォユェン)付近で敵軍と遭遇し、交戦して撃退した。
 二十一日、弘兵団の指揮を脱し、第三十一集団軍撃滅戦に参加のため、内郷県西狭口に転進し、二十五日、第百十師団長の指揮に入り、第三十一集団軍撃滅戦に参加した。
 五月三日深夜、夜暗を利用し、四日早朝豆腐店(トーフーディェン)に突入する。同地突入後一一八〇高地の占領を一六三連隊長より命ぜられ、この占領に対し第四中隊長仲嶺中尉は、進んで同高地の占領を志願したので、同中隊に攻撃を命じた。同中尉は陣地の動揺を看破し、独断夜暗を利用して、敵弾雨飛の中敢然これを強襲し、同地を占領した。豆腐店最重要拠点を失った敵はこれを奪還すべく、波状的に逆襲して来たが、断乎これを撃退した。日の出と共に飛行機の地上攻撃に呼応し、敵は再三再四大逆襲して来たが、いずれもこれを撃退し、同地を確保した。
 豆腐店に突入した各中隊は、所命の各要点を占領し敵の反撃を退けその陣地を確保した。
 日の出と共に敵機の地上掃射および爆撃があり、それに呼応し迫撃砲の集中射撃を行い、各地に逆襲して来たが、第一線各中隊はいずれもこれを撃退し、各陣地を固守した。豆腐店内は敵味方の屍体が入り乱れ、ただただ目を覆うばかりの惨状であった。
 大隊は丁河店(ピィンフディェン)西方の紅丸(ホンユワン)敵陣を突破、前進を準備中、母猪峡(ムジューシァ)を経て西峡口(シーシァコー)に転進の命を受け、五月七日夜暗を利用し西峡口に向かい転進した。特に本転進作戦には、約三〇〇名の負傷者があり、その内約六〇名は担架で送ったが、他の者は軽装のうえ護送もしくは自力によって転進した。中には疲労その極に達し、匍匐(ほふく)し前進する者もあり、戦友の足手纏いとなることをおそれて、自爆しようとする者もあった。戦死者計四二人。
 五月二十六日、龍家営(ロンジャイン)に進出。馬頭山(マトーシャン)警備中の南雲中隊、敵の空襲及び大逆襲を受け苦戦のため、我が大隊の主力をもって、これを救援し同地を占領確保した。
 六月十八日、馬頭山に多数のトーチカを有し堅固に布陣した敵は、ますます兵力を増強しつつあるので、これを撃滅すべく、第二中隊を第一線突撃部隊とし、払暁、敵の十字砲火の中を全機関銃・歩兵砲支援のもと、一挙に馬頭山奪取に成功した。
 六月二十九日、陽城付近にある内郷民団軍はその兵力を増強しているので、機先(きせん)を制しこれを撃滅した。本戦闘は引続き内郷民団軍の帰順(きじゅん)工作の端緒となり、同民団軍のうち同地出身者全員帰順に成功した。住民は食糧を放棄したまま逃げたが、後で食糧をくれとやって来たのでくれてやった結果、我々に大いに協力的となった。
 本作戦後、部隊は陽城に慰霊塔を建て、同地住民と共に我が方の戦死者ならびに内郷民団軍戦死者の霊の成仏を祈った。そのため民団軍及び住民は大いに感謝した。

○終戦そして復員

 民団軍の一部が、八月十四日早朝より陽城に侵入して来たので、十四日夜、部隊全力をもってこれを撃退すべく出動した。十五日早朝、陽城付近において敵と遭遇し、交戦してこれを撃退した。部隊はこの敵を追撃中、十三時頃、停戦命令を受領し、直に戈(ほこ)をおさめて、夜を徹し摂営(シァーイン)に集結した。(編者註=この停戦命令は終戦の詔勅によるものである。)
 一九四五年(昭和二十)八月十六日、摂営に集結した部隊は、一切の戦闘行動を中止し、後命を待った。
 早朝、内郷民団軍より参謀及び副官の二名が我が部隊の世話をすることになり、直に我々が不足していた副食物・馬糧・燃料の補給をうけた。
 八月一九日、民団軍より金二〇万円・豚二頭・ブドウ、ナシ各八籠(かご)を受けた。これは我が部隊が住民を大事にし、民団軍長宅を警備・保存した好意に対する感謝の気持であった。
 我が部隊は返礼として、内郷民団軍の重機等を修理して上げたりした。また、軍団長には真白い馬一頭を贈った。
 我が部隊の世話に毎日来てくれた参謀と副官は、我が部隊が許昌県周庄(シュチャンシェンジュージュアン)の集中営に収容されるまでの一四日間、一切の世話をし、我が隊が集中営への収容を確認した上で民団軍に復帰して行った。
 同参謀および副官は摂営においては、住民に対し山内部隊の駐留一三日間の購入物資に対しては、一切料金を徴すべからずと布告し、集中営に収容迄の諸経費一切は、民団軍において負担した。
 九月十日、許昌県周庄の集中営に到着した。同集中営の住民は、我々山内部隊に対し好意を示し、中秋名月の夜には、各宿舎とも宿主より酒肴(しゅこう)の供応をうけた。
 九月二十八日、許昌県黄庄砦(ファンジュァンジァイ)の集中営に移転。ここの住民の部隊に対する好意は、周庄以上であり、我々の予想以上であった。したがって部隊は住民の好意に報いるために、一層の対民衆軍規を厳正にし、部落民のために城壁の補修・排水溝の整備・共同井戸の改装・その他家屋の修理等の労力奉仕を行い、隊自体のための自活作業隊も編成して、兵員の無聊(ぶりょう)の解消と体力増進に努めた。
 四月十日には、帰国準備のため黄庄砦より部落民全員の見送りを受けて許庄駅に集結するが、見送りの際、途中の食事のためとして弁当を作って来て差し出す部落民もあった。
 十六日、北支第十二軍復員第一陣として、中国軍将校が指揮する一小隊の警乗を得て許昌駅を出発し、一路上海に向かった。
 四月二十七日、税関検査を受け、税関長の「長い間ご苦労さんでした。元気に復員して下さい。さようなら」とのはなむけの言葉があり、検査は無事終了した。翌二十八日早朝出帆。
 五月四日早朝、和歌山県南部田辺港に入港、直ちに上陸検疫その他の手続きを済ませ、復員者は各方面行き列車を待ち、到着ととも出発し、帰郷の途についた。
 部隊で奉持し帰国した「戦友の英霊百三十八柱」は各連隊区毎に、それぞれの連隊区に帰郷する戦友に托して帰郷させることとなった。
 五月五日、山内は、福岡県二日市市復員本部において稲垣参謀の指導により、事務処理を行い、順調に進捗し、五月十三日全事務の処理が完了した。
 五月十三日、復員書類の照合提出及び授受の一切の事務処理を完了し、復員は完結した。
(渡久山朝章)
 *本稿は、山内※※氏がすでに他界されており、左記参考文献から記した。文語体は読み易くした。

※参考文献

『至堅の花』独歩六一七大隊誌 昭和五十三年五月
『軍魂』嗚呼我が戦中記 山内※※記
昭和五十六年四月二十五日
『座喜味老人クラブ友愛会誌』「故曽根宮一先生を偲ぶ」
山内※※記 昭和五十四年六月十五日
『私の歩んだ道』屋良朝苗著 一九六八年七月二十日
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