第六章 証言記録
男性の証言


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字の警防団長を務めた後、防衛隊に

比嘉※※(座喜味・※※)大正十二年生

銃後の日々と掩体壕

 私は一九四三年(昭和十八)ごろから字青年会長を務めて、数か月後には警防団長も兼任しました。この頃、男たちはどんどん兵隊にとられていましたが、中には私のように住民をまとめ、軍からの要請に対応するために部落に残っている者がいたのです。
 私は徴兵検査の際、身長が規定を僅かに下回っていたので、丙種合格の第二国民兵となってしまいました。その時は悔しくて泣きましたね。男と生まれてきたからには戦地で立派に戦うのが務めである、と思っていましたから。同級生には甲種合格や、兵隊として南方へ行った者もいましたから、立派に戦えるみんながうらやましかったです。ですから青年会長として、そして警防団長として、立派に銃後を守ろうと思っていました。
 当時の軍は、他人の土地に掩体壕を作ったり兵舎を作ったりと、勝手なものでしたが、私たち住民も戦争に勝つためなんだからと、土地を取られても仕方がないんだと思っていました。一九四四年(昭和十九)ごろから掩体壕の建設が始まり、約半年で座喜味の池ン当原(イチントーバル)に二基、前田原(メーダバル)に二基、前原(メーバル)に一基、そして東原(アガリバル)に二基、合計七基が完成しました。そのうちの前田原の一基は私の家の土地に建設されたのですが、やはりなんの断りも無く建設が始まりました。その建設には、朝鮮人軍夫一〇〇人ぐらいがあたっていました。モッコで土を運んできて山盛りにして、その上からコンクリートを流して固め、乾いてから中の土を掻き出して完成という簡単な作りでした。そのようにほとんど機械に依らないので、はたから見ても、とても大変な作業でした。こうした建設作業の苦しさからか、朝鮮人軍夫はいつもいらいらが高じて、殴り合い、負けた側は「アイゴー、アイゴー」と泣いている姿を見かけました。また、彼らはいつもおなかを空かせているようで、私がたまに芋を渡すと喜んでいました。彼らがどこで寝泊りしていたのか、はっきりしたことはわかりません。

十・十空襲

10・10空襲
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 私の家は高射砲部隊の炊事場として利用されていて、一番座には兵隊が一〇人ほど、またそれ以外の部屋には村外からの徴用人夫が五人ほど、入れ替り立ち替りではありましたが同居していました。部屋を追いやられた私たち一家は、台所で生活するありさまでした。軍は家賃なんてもちろん払いませんし、戦争に勝つためだからという一言で強制的に提供させられたのです。
 こうして私の家は日本軍関係の人々の出入りが激しく、そのために十・十空襲では米軍の攻撃目標になってしまいました。私は警防団長なので、空襲であっても壕に隠れているわけにはいきません。「グヮラ、グヮラ」と米軍機が攻撃している中を、住民が避難している壕に向かいました。今考えると「負傷者が出ていないかな」と皆の安否を気遣う気持ちと、空襲のなか皆のもとへ走ることへの英雄的な気持ちが入り混じっていたんじゃないかと思います。
 現在の宇座商店の後ろにあった、当時の村の収入役だった山城※※家の壕の様子を見に行くと、そこに座喜味城跡に駐屯する高射砲部隊の兵隊がやって来ました。彼は光本中尉からの指示で、字の役員に労務の要請に来たということでした。私は警防団長だったので労務に名乗り出て、私の他にもその壕から数人が協力することになりました。労務の内容は、座喜味の字事務所に置かれている高射砲隊の炊事場から、部隊の食事を座喜味城跡まで運んでほしいというものでした。外はものすごい空襲ですが、字事務所に準備されていた食事を籠(かご)に入れて、私たちは走って座喜味城へ持っていきました。
 しかし座喜味城へ着くと、もう凄まじい攻撃で、私たちが運んだ食事を食べるどころの状況ではありませんでした。城のアーチも崩れ落ちそうなほどの地響きがして、死体があっちこっちに転がっていて、負傷して「アギヨー、アギヨー」と大声で叫んでいる人がいても、攻撃がものすごくて助ける人もいない有様です。高射砲を撃って死に物狂いで応戦していましたが、超低空で爆撃してくる敵機に命中させる事はできないようでした。
 やがて高射砲の弾が足りなくなったようで、私たちは、荷馬車を使って読谷国民学校の旧校舎に保管してあった弾を取って来て欲しいと命令を受けました。すごい騒動の中ですから、誰に指示されたかは覚えていないです。旧校舎は、現在の福祉センター近くにありました。私たちが使っていたのは荷車でしたが、弾が重いので多くは積めず、しかも自分たちで引っぱっていかなくてはいけません。敵弾が近くにボンボン落ちる時には、私達は地面に伏せるので、座喜味城跡への坂では荷車が逆流してしまい、坂を登っては流れての繰り返しでした。
 そのうちに五時ごろに空襲が終わり、私たちは住民に負傷者がいないかと部落を見まわりました。すると、飛行場の徴用にかりだされていた宇座の娘たちが、當眞※※宅の壕に避難していたところ、爆撃のため壕に生き埋めになって亡くなったという情報を聞き、現場の避難壕に向かいました。
 私たちが着いた頃には、亡くなった人たちはすでに喜友名※※宅に運ばれていました。それで喜友名宅へ行くと、犠牲者は戸板に一人ずつのせられて、門の前に並べられていました。やがて字宇座から遺族が迎えに来ていましたが、本当にかわいそうでした。またショックでしたね、この日のような米軍からの本格的な攻撃も初めてですし、米軍から直接攻撃で死者を出したのも初めてでしたからね。

防衛隊に入隊

 二十二歳になり、召集を免れていた私にもとうとう防衛召集令状がきました。嬉しかったですよ、男の務めが果たせるなと思いました。
 一九四五年(昭和二十)の一月に入隊しましたが、部隊名は覚えていません。屋良国民学校に駐屯している部隊だったので「屋良部隊」と呼んでいました。そこから那覇の輸送隊に選ばれて、南風原、東風平あたりの倉庫に蓄えている糧秣を那覇港に運ぶ任務を与えられました。港からは宮古、八重山辺りへも軍事物資を輸送していたんですが、私は「届くのかねぇ」と不思議に思っていました。十・十空襲の時にやられた船の残骸が、港にそのまま放置されていましたし、輸送船は米軍の攻撃の合間を縫って目的地をめざすという状況だったのです。
 その後、将校たちの飯炊き係に任ぜられて、那覇の球部隊出張所に行く事になりました。しばらくそこで炊事にあたった後、三月の末には屋良部隊が移動していた山城に行って本隊と合流しました。合流してすぐ、首里に集結という命令が本部から下り、私たちは南へ向かいました。しかし敵の上陸のためコザ辺りから南へは進めず、私たちは敵に追われるように北へ北へと移動して、金武から辺野古、大浦、名護そして大宜味村押川へ移動しました。全員に配られていた手榴弾二個に加え、私たち若い兵には九九式小銃が支給されていました。しかし年配の兵隊は竹槍ぐらいしか持っていませんでした。
 我々が押川岳に潜んでいると、米軍が猛攻撃を仕掛けてきました。戦争の経験もない、若い兵隊たちは戦闘がしたいのですね、怖いもの知らずですから。それで隊員たちは上官の命令を待たずに勝手に発砲し始めました。あの時はもう勝手でしたね、負けるという気持ちも無いし、今考えれば、攻撃なんかしないでそのまま逃げれば良かったのにと分かるのですが。分隊長は「支那事変」帰りで戦争の経験があったために、余計に負け戦の恐ろしさを知っているようで、米軍に追い詰められてからはすっかり臆病になってしまって、私たちの先頭に立って指揮を執ることができない状態でした。その上に分隊長は負傷してしまったので、私たちの分隊は指揮官を失ってバラバラになりました。
 押川岳の下のほうから米軍が攻め上ってきますが、私たちの側からは鬱蒼(うっそう)と茂る木々で米軍の姿は見えませんでした。次から次に迫撃砲を撃ちこまれ、風上から火を放たれてどんどん木々が燃えました。火に追われて慌てて森を出た者は、待ち構えていた米軍に次から次に狙い撃ちされました。私たちは応戦する余裕も無く、負傷者を背負って逃げるのに精一杯でした。
 私は数名の仲間と行動を共にしましたが、中には腕と骨盤に致命傷を負った者もいました。私はその負傷者を担ぎ、彼の雑嚢と銃も持って、山をよじ登って逃げました。
 いったん、身をひそめられる岩陰をみつけて、そこで一晩を明かすことになりました。その岩の下は段々畑になっていたので、私たちは負傷者が不安定な岩から下へ滑り落ちないようにと、近くの木に彼の体を結わえて、固定しました。しかし、もともと彼は致命傷を受けていたので、すぐに死に際が近づいてきました。彼は近くに敵がいるにもかかわらず、大声をあげ始めました。意識ももうろうとしているので、制することも出来ません。確実に近くにいるはずの敵を思うと、状況は非常に緊迫していました。「出血多量で、どうせこの人は助かる見込みも無いし、この人と一緒にいたら私たちまで大変なことになる」と思った私たちは、彼の体を結わえていた紐をはずしました。彼は岩に座っている力もなかったので、すぐ下の段々畑に滑り落ちてしまいました。私は気になって、数時間後に彼の様子を見に行くと、やはり出血多量で亡くなっていました。
 彼が亡くなった後、それまで共に逃げていた私たちは、ここからバラバラに逃げようということになりました。やはり同じ場所に何人もいると、食料の調達に困るという理由からでした。私たちは分かれ際に、生き残る事ができたら彼の遺骨を必ず取りに来ような、と約束して別れました。
 私は一緒に逃げていた中に従兄弟の宇座※※がいたので、彼と二人で行動することにしました。私たちは本隊に合流することをめざしていましたが、食べ物を求めてさまよい歩いているうちに戦う気力は無くなるもので、持っていた日本刀も、山のイチゴを枝ごと切り落とす時に使うぐらいのものでした。

親戚に助けられる

 本隊を探し始めて一週間から一〇日ぐらい経ちましたが、本隊はみつからず、情報も入らないので、私たちは個人行動だということにあせりや不安を感じ始めました。おそらくそこは押川岳に連なる山で、西に下ると喜如嘉の部落につながる付近だったと思うのですが、私と宇座※※がさまよっていると、本部(もとぶ)呉我山のほうからやって来た、船舶工兵隊の生き残りに出くわしたのです。その中に、私の親戚で座喜味出身の宇座※※もいて、彼は当時、曹長だったんですが、彼の部隊の上官はみんな戦死して、彼が隊長代理として一七名ぐらいの生き残りを本部(もとぶ)から引き連れてきていたのです。彼が私たち二人に「本隊を探す必要は無い、私があんた達の身元を保証するから、私たちと一緒になりなさい」と言ってくれたので、一緒に行動させてもらうことにしました。彼は若い時代から旅に出て、台湾の製糖工場で働いたりしていて、私たちは親戚とはいってもあまり親しくはありませんでした。彼は南方で徴用されて、そこから船舶工兵として沖縄に来たそうで、真玉橋に移動し、次に本部(もとぶ)へ行ったらしいです。「本部(もとぶ)で米軍に包囲されたが、そこを突破してきた」と言っていたと記憶しているんですが……。
 彼は山を逃げながらも、一般の避難民がいる集落を見つけると、私と宇座※※の家族がいないか探してくれました。そして、川田・平良の山小屋に私の家族がいることがわかり、私は家族と合流することができたのです。五月の中旬頃だったと思います。そこから彼らとは別れて、私は家族と山中を移動することになりました。六月の下旬、私たちは久志村瀬嵩の山に移動しましたが、そこで収容所へ投降しようと相談し、山を下りました。
本部・名護周辺地図
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収容所

 収容所では、私は兵隊ではないかと何回も呼び出されて、取り調べを受けました。役場に勤めていた伊良皆の伊波※※に、本当は違いますが私が役場職員だったという証人になってもらいました。それで屋嘉には連れていかれずに済んだのです。後になって思えば、連れて行かれたって良かったんですね。あの時は殺されると信じきっていたのです。臆病になっていたんですね、捕まってからは。
 読谷からの避難民もかなりいたと思いますが、みんな米軍から配給物資を貰って生活するようになりました。最初、不公平な配給をする人が係りをしていたので、市町村からの選抜で役場職員が配給係をやる事になりました。私は市役所に勤めることになったので、伊波※※と一緒に配給係をすることになりました。私はその前に「配給班長」というものをしていたんですけど、なったきっかけというのがあって、投降前のある時、私は山中でハブをとって、大きなナベに炊いて、皆に食べさせたことがありました。この時ハブを食べた人の中に、ハワイ帰りの「イズミ」という人がいて、この人は捕虜になった後、語学が堪能だったので収容所でリーダー的な存在になり、私に「あなたは配給班長になりなさい」と任命しました。私からハブをもらって食べたことがよほど印象的だったんですね。
 タカラ※※という名の七歳の女の子が、一人で泣いているのを見つけました。親も兄弟もいなくて、唯一の身寄りだった姉たちが、名護に芋掘りに行ったまま、捕虜になったのか帰ってこなくて、ひとりぼっちになってしまったらしいという話でした。ガリガリにやせて、見るからに栄養失調だったので、かわいそうになって「あなた何処のね」と私が聞くと、この子は「読谷」と答えました。それで「名前は何か」と私が続けて尋ねると「タカラ※※」と名前もしっかり言えました。私は可哀想に思って、収容所に収容されてからも、この子を私の班員として登録して配給も貰ってあげました。それから孤児院に世話してあげたんだが、いまでもあの子がどうしているか気になっているのです。
 私の部隊に、同じ字の当山という人がいましたが、この人は戦闘で亡くなりました。私は彼の遺体がある場所を紙に書いて、爪と髪と一緒に封筒に入れておきました。この封筒には私の住所と氏名を書いてあって、たとえ私がどこかで倒れても、中のメモを読めば、戦友の遺骨を誰かが後で捜せるかもしれないという気持ちからでした。
 収容所で当山の父親に会い、息子の戦死の話をすると、一緒に遺骨をとりに行って欲しいと言われました。当時は収容所の外へ気軽に行く事はできない時でしたが、私はどうにか看守の目をくぐり抜け、当山の父親を連れて行きました。そこは高い岩山の上だったし、あの時は埋葬する余裕なんてないので、当山の遺体は雑嚢を枕にして、体を木の枝で覆って寝かせただけでした。当山の父親を背負うように山を上ると、白骨化した遺体がそのままの場所に横たわっていました。彼は最初、遺体を見ても信じたくないという感じでしたが、この遺体は沖縄の人が当時あまり持っていないダブルピンのベルトをしていたので当山だと分りました。これは南洋帰りの父親が沖縄に持ち帰って、戦地へ征く息子にあげた物だったらしいです。そのベルトが、白骨化した息子を確認する証拠になったわけです。それからかみそり、これも彼が息子に持たせた物だったので、この二つで身元を確認したのでした。
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