第六章 証言記録
男性の証言


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六〇年ぶりに戻った軍事郵便

屋宜※※(大正六年生)・※※(大正八年生)楚辺(※※) ※※
 沖縄タイムス夕刊(二〇〇一年十月二十四日)に「六〇年前の軍事郵便戻る―中国から沖縄、米国を経て本人へ―」との記事が掲載された。一九三九年(昭和十四)か翌四〇年の八月に、戦地「中支」より送った軍事郵便で、叔父の屋宜※※に宛てたはがきである。送付者は「稲葉部隊気付 佐野部隊 折田隊 屋宜※※」と書かれていた。稲葉部隊とは六師団の別名であり、佐野部隊とは連隊名、折田隊とは中隊名ということであった。
 以下、屋宜※※、※※夫妻の戦争体験である。

中国戦線に参加

 私は、渡具知の座間味屋取(ジャマンヤードゥイ)と道一つ隔てた字楚辺の南端の方で生まれた。戦前、父親は、内地(横浜)に出稼ぎに行っており、家には母、祖父と祖母しかいなかった。家には、現在のトリイ基地内に四千坪あまりの畑があり、祖父が精を出して世話をしていたが、手が足らずたまには人も雇ったりしていた。私は、古堅尋常高等小学校卒業後、特に仕事に就くこともなく、その畑でずっとキビ作りをしていた。
 日中戦争が勃発した一九三七年(昭和十二)、十九歳で徴兵検査を受け、その翌年の一九三八年(昭和十三)八月一日、都城歩兵第二十三連隊歩兵砲中隊へ入隊した。那覇から鹿児島へ一昼夜かけて船で行き、そこからは汽車で宮崎県都城まで行った。軍隊に入るということで不安もあったが、みんながやっている当たり前のことである、と受け止めて入隊した。そこで三か月の軍隊訓練を受けて、すぐに「中支」に派遣されることになった。都城から門司港へと向かう列車では、停車する駅ごとで、「兵隊さん、兵隊さん」と盛大な見送りを受けた。
 上海から上陸し、漢口攻略作戦から参加した。その後、南昌作戦、長沙作戦と各地の戦場を転々とさせられた。長い距離を、汽車も車もなく、全て歩いての移動であった。私の所属していた六師団は九州師団であり、いつも第一線の戦場に派遣された戦闘部隊であったため、危険な目に遭うことも多かった。
60年ぶりに戻った軍事郵便
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 中国戦線で戦っていた頃、一九三九年(昭和十四)か四〇年頃、何年かははっきりとは覚えていないが、叔父に手紙を送ったことはよく覚えている。今回戻ってきたのはその中の一通である。軍隊生活の中でなかなか手紙を書くという暇がなかった。戦闘中はもちろん書けなかったので、守備についているときを利用して手紙を書いた。年に数回、便せんに一枚くらいの手紙を送るのがやっとで、叔父からの返事も受け取った。
 家には誰も字が読める人がいなかったので、※※叔父あてに送って、祖父達に読み聞かせてくれるように頼んだものだ。私の気がかりは、やはり人手がない中で、広い畑の世話がどうなっているかということで、手紙でも叔父にそのことを尋ねる内容を書いていた。

沖縄へ戻る

 最後に参加した長沙作戦では、敵の守りが堅固で、びくともしないような要塞地帯でたいへん苦戦した。私は第三次作戦まで参加したが、その途中で帰還命令を受け、復員することになった。長安から汽車に乗り、上海へ行き、そこから広島の宇品に向かった。宇品で消毒を受け、復員手続きをした。
 丸四年間、戦闘に参加した。あの中国戦線から生きて帰って来れたのは運が良かったとしか言い様がない。一九四二年(昭和十七)十月、沖縄に帰ってきた。
 読谷へ戻った翌月、※※と結婚した。一九四三年(昭和十八)十一月、長女初子が生まれた。その頃は、また家業であったキビ作りに従事する生活をしていた。そのような穏やかな生活も束の間で、沖縄でもしだいに戦況が悪化してきたので、私も防衛隊員として召集されることになった。

郷土防衛隊、小隊長として

 一九四四年(昭和十九)七月、郷土防衛隊員として召集を受けた。屋良国民学校の球一八八部隊*注で、そこに集められた防衛隊員のほとんどは、軍隊教育を受けていない人達であった。帰還兵で軍隊経験のあった私は、そこで小隊長を命じられ、中飛行場建設に従事することになった。学校の校舎が兵舎になり、中隊ごとに割り振りされた教室で寝泊りすることになり、家には帰れなかった。
 私は四五名の防衛隊員の指揮をすることになったが、主な仕事は久得にコーラル(珊瑚石灰岩)を採りに行くことであった。一本だけ作られていた滑走路にコーラルを運び、ローラーで敷き均した。軍隊教育もやることはやったが、軍服も支給されず、かろうじて戦闘帽はあったが、地下足袋などはそれぞれが自前で間に合わせていた。そんな状態だから、武器といっても木銃しかなかった。
*注 防衛研究所戦史室の「沖縄戦当時に於ける部隊所在表 防衛召集概況一覧表」によると、これは第五〇四特設警備工兵隊(球一八八一八)のことで、城間中尉配下にあり、中飛行場駐屯であると思われる。この防衛隊には、一九四四年(昭和十九)十月中、北谷村屋良校に読谷山村から一五〇人が召集を受けている。

米軍上陸

 中飛行場は、十・十空襲ではそれほど被害はなかったが、その後何度も空襲を受けた。その度に山へ逃げ込み、空襲後は滑走路に空いた弾痕を埋めるという作業を繰り返した。また、いつ何時友軍が着陸してくるかもしれない、ということで飛行場の警備を命じられており、米軍の上陸直前まで私たちはそこから動くことは出来なかった。
 三月末頃、艦砲射撃が激しくなり、島尻に行くようにとの命令を受け取っていたが、米軍がすぐに上陸してきたため南下できず、中隊長の米須中尉と共に久保倉敷を通り、美里村伊波石川まで行った。そのまま恩納村の山から、多野岳に入った。そこには護郷隊の陣地があり食糧のない私たちは彼らと合流した。そこで米軍に包囲され、多くの戦死者が出た。私たちは運良くしのぎ、国頭村安波まで行動を共にした。中隊長は「友軍が負けるはずがない」といって、それまでずっと解散させなかったが、ようやく安波まで来て中隊は解散した。
 私は家族を探すため、南に向かったが、その途中羽地で捕虜となった。後に石川に移った。

その頃、妻は

 夫が召集された時、姑は舅のいた横浜にすでに行っており、家にはおじいさん、おばあさん、私(※※)と一歳四か月の娘※※の四人が残っていた。お年よりと小さな子供を抱えていたが、山原へ避難せよという命令があった。この時にも、夫が手紙を宛てた※※叔父が力になってくれた。私たちは、叔父の家族五名と共に荷馬車に乗せてもらって、一緒に山原に避難した。国頭村の与那が指定避難地であったが、疲労困憊のため奥間で宿を借りた。そこまで来た時におじいさんが亡くなった。
 明日はおじいさんの初七日というときに米軍が上陸してきたので、みんなでくすのき山にあった避難小屋に逃げ込んだ。それからは山での厳しい生活が一か月は続いた。※※叔父が畑から芋を取ってきたり、どこからかヒージャー(山羊)肉をもってきて食べさせてくれた。本当に親代わりだった。
 当時はもう、ムルヌスルー(みんな泥棒)、生きるためには盗んできて食べるほかなかった。
 一歳余りの娘にあげる食べ物もなく、おっぱいもでなかったので、空腹のあまり泣いていた。そんな時は馬を潰した肉をあげると、泣き止んだ。
 本当に食べ物がなくなって、※※叔父の母親、※※おばあさんが亡くなってしまった。もうみんな栄養失調で、どうにもならなかった。おばあさんの遺骸は山に残して、私たちは山を下りることにした。その頃はお墓といってもないので、それと分かる目印だけをして埋めてあればいいほうだった。山での生活は口では言えないほど辛いものだった。子供が泣くと敵に知られると周りから言われて、自分の子を縄で締め殺したり、海に投げて殺したという話も聞いた。本当に大変だった。山を降りると宜野座で収容された。

二度の立退き

 石川収容所で家族は再会し、一九四七年(昭和二十二)、故郷楚辺へと帰ってくることができた。しかし、そこに米軍基地が作られることになり、立退きを命じられた。そのため、渡具知に移動したが、一九五四年(昭和二十九)二月、渡具知にも通信基地が作られることになり、再び立退き命令を受け、今度は比謝の西原へと移動することになった。米軍基地建設のため移動を繰り返して大変だった。
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