第六章 証言記録
男性の証言


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再度の召集

池原※※(楚辺・※※)大正三年生

召集、久留米に派遣

 私は、一九三四年(昭和九)に古堅尋常高等小学校で徴兵検査を受けたが、そのとき楚辺から三人が甲種合格した。徴兵検査を受けて甲種合格した人が現役として入営した。私は現役であったが、戦争が始まると補充兵もいた。
 一九三五年(昭和十)一月に久留米四八連隊に入営し、そこでは主に射撃訓練を受けた。同年兵は満州に派遣されたが、私は補充兵教育のため留守を預かることになった。朝は六時起床で、炊事兵が準備した朝食を七時半には済ませた。その後は訓練に移ったが、訓練は日によって違いがあり、銃剣術などの訓練があった。訓練が終わると自由時間があり囲碁を楽しんだりして、消灯は一〇時であった。日曜日には外出許可を貰って、営外に遊びに出かけることもあった。

きつかった行軍

 軍隊にいるとき、一番きつかったのは行軍であった。服や米などの荷物がたくさん入った背嚢(はいのう)を背負って、久留米から鹿児島まで行軍した。久留米から鹿児島までは三日もかかったので、背嚢ずれができて苦しかった。行軍のときの食事は乾麺包(カンパン)が主であり、途中で一〇分間の休憩があったが、そのときは疲れていたのですぐ横になった。途中落伍した人は車に乗せられたが、その兵士は後で罰せられた。兵隊の演習のための行軍なので、歩くのはもっぱら山道だけである。宿泊は三人割り当てで宿が準備されていた。久留米四八連隊には一九三六年(昭和十一)十一月までの約二か年いた。

帰郷、そして二年後に召集

 除隊後帰郷したが、二年後の一九三九年(昭和十四)七月に召集令状がきて熊本に配置された。連隊名は記憶してないが、確か六師団でありそこでは以前と同じ留守番要員であった。普通は召集されて入隊準備をして、一か月の教育を受けてから第一線に送られ、それからまた補充兵が来る仕組みになっていた。しかし戦争が悪化してからは、補充兵がそのまま戦地に行くこともあるし、また現役や二年兵も行った。同年兵で満州に派遣された人も多かったが、そのときも私は直接戦地に行かずに済んだ。そこには一九四〇年(昭和十五)十一月末頃までいた。
 軍隊(内務班)でのいじめはひどいものがあり、上官の意に従わないと大変だった。またあるとき、都城で閲兵分列があり、天皇陛下をお迎えした。白い馬に乗っていらっしゃったが、一般住民は顔を見ることすらできなかった。兵隊は整列し、「頭右(かしらみぎ)」と号令をかけられたときだけ顔を上げることができた。

当時の在郷軍人会

 召集から帰って後、私は楚辺の在郷軍人会の会長になった。その頃、旧暦九月二十日はアカヌクー(赤犬子)祭りの日であった。しかし戦争が始まってからは、お祝い用の豚を屠(ほふ)るのも警察の許可を必要としたほどで、アシビグヮー(村芝居)をするにも、同じく警察の許可を得ないといけない状態だった。
 楚辺に駐在所があって巡査は居るのだが、わざわざ嘉手納警察署まで足を運んで許可を得なければならなかった。許可を得るのに一番難しかったのは、川平節であった。節中に「アタラシガイヌチシティティミシラ…」と言って、刀を抜く場面があって、出征軍人が「アタラシガイヌチ(大切な命)」というのは良くないということで、筋書きを変更して許可を貰いに行ったが駄目で、結局はその部分を省いてやっと許可を得ることができた。その日は、アカヌクーに行ってボンボンクヮーンと太鼓や銅鑼(どら)を打ち鳴らし、午後は在郷軍人分会で銃剣術などを披露した。
 その頃までは兵隊が出征するときは、在郷軍人分会と字の役員、青年会が中心になって、太鼓や銅鑼をボンボンクヮーンと打ちならしながら嘉手納駅まで見送った。駅では「万歳、万歳」と気勢を上げながら見送り、千人針や寄せ書きした日の丸をお守りとして持たせた。

再度の召集と終戦

 一九四四年(昭和十九)九月二十九日、三度目の召集で八重山農林学校に配置された。楚辺出身者は四、五人いて、八重山の於茂登岳でトンネルのような防空壕や陣地構築の作業に従事した。ジャングルのような山に小屋を造って寝泊まりしていたが、ちょうど戦争が激しい最中だったので大変苦しい軍隊生活だった。
 白保の飛行場に爆弾が落ちると、各分隊ごとに穴埋め作業に行った。ある日、もの凄い空襲に遭ったこともあったが、たこつぼ壕に隠れて難を逃れることができた。そのとき、私には一二人の部下がいたが、全員その壕に避難したので、上から土ぼこりを被っただけで無事だった。具志堅分隊長の隊は僅か五○メートルほど離れた壕にいたが、爆弾が直撃し、その隊は全滅してしまった。帰りは空襲が続くなか、別々に山中から歩いて帰ったが、被害はなかった。翌日、具志堅分隊長の遺体を捜しに行ったが、バラバラになって千人針が僅かに散らばっているだけだった。
 八重山では夜になると台湾人の集落に行って、芋や鶏を取ってきて食べたり、また山亀も食べた。山亀はちょうど飯盆に入る大きさなので、甲羅を取って水を入れ炊いて食べた。その頃は住民は山に避難していた。
 一緒に八重山へ配置されたのは楚辺から二人、その他に座喜味、波平、宇座出身の人たちもいたが、全員戦死してしまった。最初に一緒だった楚辺の同年兵は三人で、そのうちの一人池原※※は、漢口陥落の一番乗りとして新聞にまで掲載された。彼はその後結婚して宮崎県に行ったが、再び第一線(ブーゲンビル)で戦い、結局戦死してしまった。
 終戦は部隊から連絡を受けて知った。しかし沖縄本島は「玉砕」したという情報が入っていたので、沖縄には帰らずに八重山で三か月暮らした。八重山では波平出身の知花※※宅に世話になっていた。彼は子供たちは台湾に疎開させて、婿の大城※※(渡慶次出身)と二人で暮らしていた。

マラリアにかかり沖縄に転送

 八重山にいるときに、マラリアに罹り生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた。当時はマラリアにかかったら、米軍の船で沖縄に送られた。私は同年兵の島尻出身の瀬長※※という人に付き添ってもらって、沖縄に帰ってきたが、一人では船にも乗れないほどに衰弱しており、船中では隔離部屋に入れられていた。戦争中はマラリアにかかる人が多くて、亡くなった同年兵も多かった。
 沖縄に着いてからは、衣服やマッチまで持ち物も全て取り上げられ、港川の軍病院に収容されることになった。さらに十月頃になってから、泡瀬のマースヤー(塩田)の軍病院に移された。私はマラリアの他に慢性盲腸も患っていた。だんだん回復してくると、今度は病院の食事だけでは足りなくなってきたので、看護の女性に読谷山の人たちの居どころを聞いて、夜になってからアメリカ軍の車にこっそり潜り込んで病院を抜け出した。運良く着いた所が石川だったので、朝になるのを待って何食わぬ顔で車から降りた。

家族と再会

 そこで係に、「ここには読谷山の人が大勢いると聞いたんですが…」と尋ねると、「大湾※※という人もいるよ」と言われた。彼は私の友人だったので、身元引受人になってもらった。すると石川には、すでに死んだとばかり思っていた母や妻、子どもたちも元気で暮らしていたので夢のようだった。
 家族は最初、恩納村前兼久に避難していたが、そこで捕虜になって楚辺の「ノロ殿内」に収容されていたそうだが、その後石川に移されたということだった。米軍が上陸してきたときは、下の子はまだ三か月で、家族は私がすでに戦死したとばかり思っていたらしい。兵隊に召集されたときは死ぬ覚悟であり、とても生きて帰れるとは思ってもいなかったので、結婚式はあげたが入籍はしていなかった。
 子どもができたので入籍しようとしたら、手続きが必要だったので、伊波俊昭村長にお願いし、入籍することができた。
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