第六章 証言記録
男性の証言


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軍属として那覇分廠へ

冨着※※(伊良皆)大正二年生
 私は一九三八年(昭和十三)頃、戦時景気につられて大阪へ出稼ぎに行って、電気関係の仕事をしていた。あの頃は伊良皆からもたくさんの人が大阪へ出ていた。四年間大阪にいたが、戦もどうなるかわからないし、一九四二年(昭和十七)末から四三年にかけての製糖の頃、嘉義丸で帰って来た。この船は、浮島丸や波之上丸などのような豪華船ではなかった。嘉義丸は私たちを降ろし、神戸に戻り、再び沖縄へ向かう途中で米軍潜水艦の雷撃を受け遭難した。
 沖縄に戻ってから、しばらくは農業をしていた。そのうちに飛行場用地を示すための赤い旗が立った。赤旗が立っているところが飛行場との境界だということで、喜名イリバルや伊良皆の佐久本屋取(ヤードゥイ)、座喜味などの人達が、立ち退きをさせられた。座喜味などでは飛行場用地に土地(畑)を取られて、食べ物がなくなって、中城や具志川あたりまで芋を買いに行ったと聞くが、伊良皆では土地を取られて畑が少なくなっても、現在の国道五八号の東側にも(畑が)あり食べる分はどうにかなった。
 しばらくして飛行場の建設工事が始まった。飛行場の工事の時は、私もトゥルックグヮー(トロッコ)を持って作業した。飛行場から伊良皆のムラウチ(村内)まで、飛行機を押して来て隠しておくということで、飛行機待避場として、私の後ろにあった屋敷も壊された。
 一九四四年(昭和十九)の春頃、大刀洗航空廠那覇分廠(球一九〇二三部隊)の本部で、軍属として働き始めた。字から指名されて軍属になった。部隊から字事務所に推薦を依頼したのかもしれない。このとき、同じ伊良皆出身の翁長※※も一緒だったが、彼は後に島尻で戦死した。
 十・十空襲前までは、那覇分廠の事務所、部隊本部は伊良皆の県道西側、現在の国道五八号の西側(三共アルミが在る付近)にあった。瓦屋根の建物で、那覇分廠長など位の高い人達がいた。分廠長の名前は近藤卓二といい、藤岡大尉という人もいた。
当時の那覇分廠略図(「爆撃弾痕図」大刀洗陸軍航空廠那覇分廠
「読谷山飛行場
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戦闘詳報第一号・昭和19年10月10日」より)]]
 分廠本部の西側に道があり、そこが分廠の入口になっていた。分廠本部の近くに、国場組の飯場と建設部があった。那覇分廠の本部は瓦屋根だったが、国場組は茅葺きで、長屋のような感じだった。そこには飛行場を作るための人夫たちがいて、食事の準備をしたり、野菜や芋の供出を受けとったりしていた。
 那覇分廠は通称「風部隊」といわれ、仕事は飛行機関係で、気象をはかったりしていたようだ。飛行機が多ければ、仕事もたくさんあったはずだが、降りてくる飛行機も少なくなっていた。私は一度輸送機を見に行って、それに乗せてもらったことがある。
 那覇分廠には、経理班・総務班・補給班・炊事班・農業班などがあり、各班ごとに三角兵舎に分かれていた。各班には二〇人くらいの軍属がいたように思う。農業班は野菜を作ったり、海に行って漁をする人もいた。野菜などを作るだけでなく、便所が一杯になると汲み取りの仕事も農業班であった。
 読谷山村からもたくさんの軍属が那覇分廠で働いていた。座喜味の玉代※※さんは背の高い人だったが、そこの守衛をしていた。近藤分廠長が乗る黒塗りの専用車の運転手は、伊良皆の當山※※さんだった。彼は戦前、バスの運転手をしたり、嘉手納でトラック運送業もしていた運転のベテランだった。その當山さんが、一九四五年(昭和二十)五月頃に私に向かって「生きていられるのは六月頃までと思いなさい」と言った。たぶん負けるということがわかっていたんでしょう。彼はいい人だったが、亡くなってしまった(編者注 當山※※さんは、一九四五年五月二十八日、津嘉山方面にて戦死している)。
 那覇分廠には女性の事務員がたくさんいて、その人達が書類の取り扱いをしていた。事務員には、座喜味出身の仲宗根※※さんや、蒲比嘉の松田※※さんの妻になった旧姓比嘉※※(喜名の※※の娘)さん、宇座の当山※※(旧姓山内)さんなどがいた。炊事班にもたくさんいた。たくさんいたけれど、分廠の軍属だった人の中で、現在生きている人は、伊良皆では私だけになった。
 私は部隊本部の総務班で、本部の事務員から書類を受け取り、自転車で書類を各部隊に配送し、控えをもらってくるのが主な仕事であった。書類の内容は、各部隊への作業の指示・命令だったと思うが、暗号で書かれていたので、内容はわからなかった。また炊事班が作った弁当も、各部隊へ運んだりした。
 風部隊の三角兵舎は現在のトリイステーションから飛行場に向かう坂を上って、ローヤルレストランの後ろあたりに二、三軒あった。また座喜味の飛行場の先のナーカヌカーあたりや、トーガーの東の方にもあり、私は各部隊を自転車で回った。当時、現在の読谷高校のある辺りには、高射砲部隊があった。そこには松の木で高射砲の模造品を造って置かれていた。偽装して一発でも多く、敵の弾を落とさせて消耗させようということだったんでしょう。
 十・十空襲で那覇分廠の建物もやられたので、部隊は国道五八号より東側の山手、カーミンジャーラに移った。事務も寝泊まりも山手の三角兵舎でしていた。十・十空襲後、他の部隊のことはよくわからないが、経理は本部の近くに移っていた。移転した三角兵舎にいる時、何かの訓練があって、私はその時居眠りしたのを藤岡大尉に見られてしまった。居眠りをすると殴る上官もいたが、藤岡大尉は見逃してくれた。藤岡大尉は背が高い人で、私より年下だったかも知れない。見習い士官はさらに若い人だった。
当時の壕が今も残る(比謝東の亀地橋付近)
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農業班で野菜を作ったと語る山内※※氏(上同)
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 一九四五年(昭和二十)の三月末までは、読谷の東の山手にいた。艦砲射撃も始まっていた。そして米軍が上陸する直前、三月三十一日頃、那覇分廠も首里石嶺に移動した。部隊は軍属も入れると全部で二〇〇名か三〇〇名ぐらいはいたかもしれない。
 移動途中、嘉手納東方、久得のウシヌスルーガマという大きな壕で一晩過ごした。それから東に向い、現沖縄市知花の西側、ヤチネー(八所帯)から広がったヤットゥクルーヤードゥイ(八所帯屋取り)を通った。そこからコザ、普天間街道を通り、浦添を経て、首里の石嶺に行った。身の回り品などを持って歩き通しだった。久得から首里までは一晩で歩いた。首里に着いてから、手榴弾を一個ずつ配られた。首里の石嶺には、造りかけの飛行場があり、徴用で掘らせたのか、壕が準備されていた。そこでは救援隊として負傷兵を担架に乗せて連れて来る仕事をした。安謝まで鉄条網を取りに行ったこともあったが、戦争に追われ何の役にも立たなかった。
 部隊は次に、首里から南風原津嘉山にある壕に移動した。その頃私は、牧原の高宮城さんと那覇の人の三人で一緒に行動していた。高宮城さんは、今も元気である。その壕は人がいっぱいで入れなくなり、高宮城さんが別の壕を探してきたので、私達三人はしばらく別の壕に移った。その間、私たちが気づかないうちに、津嘉山の壕にいた部隊はどこかに移動したらしく、それ以降は別行動となった。その後、部隊がどうなったかはわからない。
 私達は行くあてもなかったが、暗くなってから津嘉山の壕を出て、東には行かずに、真玉橋を通って西に向かった。今思うと南に行った方が良かったかもしれない。そうしたら爆雷を背負って敵に向かわされるような目にはあわなかったかもしれないのだ。
 高江洲を通り、豊見城の海軍壕に着いた。那覇分廠で監視係をしていた座喜味の玉代※※さんと、そこで一緒になった。そこは、大田實という海軍の隊長がいた大きな壕だった。自分達がいたあたりは、西の畑の出入口から少し入ったところだったので、戦後行ってみたが、はっきりと確認できなかった。
 海軍壕にいた時、夜だったが、四角い爆雷を背負わされ、敵の戦車が来たら攻撃するようにいわれた。兵隊でない軍属であっても、一緒になってそこで食事もしているわけだから、全く兵隊と同じように命令を受けた。そこでやむなく私も爆雷を背負い、壕を出た。
 爆雷を背負わされた時、山原の人が私の傍で「そんなことをしたら死ぬなあ」とかなんとか言うのがかすかに聞こえ、「この人達は何か(生き残る手段)を考えているな」と感じて行動を共にした。彼らと相談して逃げることにし、私物を取りに壕に戻った。それを見られていたら、たいへんだっただろう。
 私は山原の人達と三、四人で、海軍壕を出て、艦砲射撃の中を糸満街道を通って喜屋武方面に向かった。その途中で山原の人達とも別々になり、一人で糸満の伊敷というところにたどり着いた。そこで一日か二日過ごし、子供を二人連れた知らないおじいさん達と一緒になり、食べ物をもらったりした。そのおじいさん達と一緒に今度は伊敷から名城に行き、四角い水タンクに隠れていたが、浜辺からアメリカ兵達の声が聞こえていた。あまりの暑さにタンクから外に出ようとしたら、アメリカ兵に見つかり、そこで捕虜になった。六月頃だった。
 高宮城さんは、他の人達と一緒に攻撃に出たらしいが、生きて帰ってきた。
 捕虜になり、最初は豊見城の翁長に連れて行かれ、穴掘りなどをさせられた。道には死体がたくさんあり、よく生き残れたなあと思った。翌日屋嘉に移動した。屋嘉では「日本兵か、沖縄人か」と聞かれた。アメリカーは沖縄の地図を持っており、アメリカ兵将校は日本語も話していた。沖縄の人は沖縄の人だけのテントに収容された。その後屋嘉から、読谷を通って嘉手納の水釜に連れて行かれ、水釜からハワイ行きの船に乗せられた。捕虜になってからは、渡具知※※さんに会い、彼も一緒にハワイまで行った。ハワイには、二年ぐらいいた。
聞き取り調査、右冨着※※氏、左玉城栄祐(調査者)1992年7月21日
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 那覇分廠に勤めていた人たちは、風部隊の人たちと共に、戦後「航風会」を作った。風部隊も那覇分廠も部隊長は近藤卓二大佐が兼務していた。「風部隊の碑」(航風会の慰霊碑)が沖縄師範健児の塔への途中に建てられている。その碑の建立式の日は大雨だったことを覚えている。
 大阪での出稼ぎからの帰り、嘉義丸に乗って来たが、一便違えば潜水艦の魚雷攻撃を受けて遭難していた。また沖縄戦の最中、水辺で洗濯をしていた時、迫撃砲で攻撃され、目の前に直撃弾を受けたが怪我一つしなかったし、島尻まで行って、一度は爆雷まで背負った私が、生き残っているのが不思議だ。
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