第六章 証言記録
男性の証言


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私が勤務していた旧那覇分廠

福原※※(那覇市在住)大正二年生

軍属として小禄飛行場勤務の整備工に

 私は一九三七年(昭和十二)七月に「日支事変」(日中戦争)に召集され、一九四一年(昭和十六)一月に復員した。その後、一年間の契約で海軍の軍属となり、海南島からサイゴン(現ベトナムのホー・チミン市)で飛行場設営に従事した。その間に「大東亜戦争」(太平洋戦争)が勃発し、一年の契約を果たしたので帰県した。
 一九四三年(昭和十八)十月、小禄在の大刀洗陸軍航空廠輸送部那覇出張所に整備工として採用された。当時の所長は神田中尉で他に下士官、工員合わせて四〇人くらいいた。離着陸する飛行機の燃料補給、機体整備や不時着機の処理、または航空兵の宿舎までの送迎が日課だった。
 この大刀洗陸軍航空廠輸送部那覇出張所は、大刀洗陸軍航空廠那覇分廠の前身であった。日本軍の南方作戦が、破竹の勢いで戦果をあげていた頃から、小禄飛行場は中継基地として、南方に行く飛行機の発着が多くなった。福岡県大刀洗にあった本廠から航空技術将校や技官、他に若い熟練工員が四〇人くらい転属して来た。私もまた同僚四人と兵器取扱い業務研修のため、福岡県にあった本廠へ三か月間の出張を命じられた。研修中に後の那覇分廠長、近藤※※小佐(当時)と面接した。三か月の研修を終了して帰った時には、分廠の看板も掲げられて、工員も三〇〇人くらい採用されていた。

読谷山飛行場へ移動、補給課へ配属

 小禄飛行場はもともと海軍が使用していたので、陸軍所属の私達の部隊は、一九四四年(昭和十九)八月か九月頃、飛行場の完成を待って、読谷へ移動した。読谷山北飛行場へきて、工員もさらに倍に増えた(「沖縄出身留守名簿」によると旧那覇分廠総人員六七四人、内訳県出身六一四人、読谷出身一四四人)。
 分廠の編成は分廠長の下に総務・整備・補給・経理・医務室と五つの部門に分かれていた。工員の職種も多岐にわたり雇員を筆頭に筆生、整備、運転手、警防手、木工、板金、熔接、計器、発動機、電気、鉄工、写真工、機体工、雑工、手入工、看護婦などがあった。待遇面では、戦時手当、家族手当もあり平均で月一五〇円くらいはもらっていた。
 伊良皆の製糖工場付近に工員の宿舎があり、独身者や女子工員はそこに寝泊りしていた。私は両親に妻子をあずけて単身赴任し、同僚と共に比謝の平安名さん方に間借りした。食事は経理部が賄うのだが、給料から差引かれる食事代は微々たるものであった。
 私のいた補給課の課長は藤澤※※少尉で、その下に古賀曹長(燃料機材機具担当)、薄井軍曹(部品消耗品担当)がいた。輸送トラックも数台あった。那覇港や本部港に荷揚げされ、トラックで運ばれて来た梱包を開梱して倉庫に収納し、燃料油脂類は親志と楚辺の部落はずれに隠蔽した。
 また、沖縄近海に敵潜水艦が出没して、味方輸送船が撃沈されるので、時にはグライダー二機に部品類を搭載して、飛行機で牽引し、読谷上空まで飛来したらロープを放した。グライダーは自力で滑空し、着陸した機から部品等を受領することもあった。
 毎日が多忙で、時には疲れを癒すため、比謝矼の料亭「寿」(サカナヤー)に酒を飲みに行った。料亭へ行く途中に憲兵に見つかり「ここは軍人軍属は立ち入り禁止だ。道端に立っている看板が見えないのか」と怒られ、「夜で、暗くて見えなかった」と答えたらまた怒られたことがある。酒は配給制だが豊富にあった。

十・十空襲に遭う

 一九四四年(昭和十九)十月九日の晩は、今年補給課から入営する人の送別会(場所は喜名でヒージャー会)があった。翌朝、飲み過ぎて二日酔いのまま、同僚と出勤する途中、海軍機が飛んでいるのを見た。「海軍は偉いね。もう偵察に行って来たのか、ご苦労さんだね」と言いながら、松並木が続く伊良皆街道を歩いていた。
 那覇分廠では毎朝七時に人員点呼を行っていた。補給課では、戦意高揚のため七時前に集合して、女子工員も一緒に、兵隊なみに徒歩訓練や竹槍を使って銃剣術の基本訓練をやっていた。十月十日の朝も補給課の工員が一斉に訓練をしていた。その時、東の空から太陽を背にして、三機編隊を組んで数機が飛んで来た。飛行機が近づいて来るにつれ、翼の格好が日本軍のものと違っていた。よく見ると、南方での海軍軍属時代に見た、グラマン機に似ていたので、私は「敵機だ」と叫んだ。だが、誰も信用しなかった。
 海軍の偵察機が敵機の攻撃を受け、黒煙を上げて炎上する様子を見て、初めてみんなは空襲だとわかり、各自避難した。私は倉庫前に構築されたコの字型の自動車用掩体壕に避難したが、天井がなく空が丸見えで心細かった。
 空襲は一次、二次、三次と繰り返しの爆撃で、場内は建築物の燃える煙と土砂挨で一寸先も見えなかった。分廠の建築物も一挙に炎上壊滅した。幸いに補給裸からは死傷者は出なかったが、他の課から四、五人の死傷者が出たことが後でわかった。
 空襲が終わると、男子工員が集まり、トラックで損傷を受けてない機材類を回収し、防空壕に運び収納した。夜には自動車のライトの灯りを利用し、空襲を受けた滑走路の弾痕跡を、鍬やスコップ、モッコを使い総動員で埋めた。十・十空襲以後は、非常事態に備え民家には宿泊せず、男女工員は移転先の三角兵舎に宿泊するようになった。この三角兵舎が何時の間にできたか知る由もなかった。
場所の特定に役立った2つの並んだ古墓
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古墓の隣に今も残る当時の壕
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 十・十空襲の二日後、台湾沖海戦に参戦する爆撃機・戦闘機が読谷北飛行場に多数集結し、南方に飛んで行った。結果は大本営では誇大に発表したけれども、実際には思わしくなかったらしい。住民たちは、飛行場から飛んでいく飛行機を見て、あれは沖縄守備の戦闘機部隊だと見ていたようだ。終戦後「あんなにたくさんの飛行機があるのに沖縄を守れなかったのか」と聞く人もいたが、あれは台湾沖に敵機動部隊を追撃捕捉するためのもので、中継基地として沖縄に立ち寄っただけであった。十・十空襲の時は、読谷山北飛行場には戦闘機が一〇機、嘉手納中飛行場には五、六機配置されていたが、撃墜されるか自爆したと聞いた。

「那覇分廠」から「第五野戦航空修理廠第一分廠」へ

 空襲後は、仮に建てられた倉庫で機材部品の整理、工作物の偽装、部品や消耗品を保管するための防空壕掘りと多忙だった。
 一九四四年(昭和十九)十月二十九日、那覇分廠の名称が「第五野戦航空修理廠第一分廠」と改称され、部隊名も「誠一九〇二三部隊縄部隊」に変わった。空襲後、北飛行場には本廠との連絡用に、双発一〇〇式司令部偵察機が配置された。この飛行機は、本廠との連絡だけでなく、職員の転属や本土への出張、また疎開する女子工員等も搭乗させていた。この飛行機も、月日は忘れたが、大刀洗から帰る途中、国頭村比地の山中に不時着した。私の上司古賀曹長は、この時殉職した。
 輸送物資の事で思い出すのは、飛行機に取り付ける補助ガソリンタンクのことだ。このタンクは通常はアルミニウム製だが、物資不足の折からアルミニウムに代わってベニヤ板製のものが送られてきていた。これをわからず、産業組合の倉庫の土間に保管していたら、湿気のため、白蟻に食い荒らされて使い物にならず、本廠からこちらへ視察に来るときに、使用できない物を燃して処分したこともあった。

米軍上陸、首里へ移動

 一九四五年(昭和二十)三月下旬から、米軍の沖縄上陸を目指しての空海からの総攻撃は激烈を極めた。部隊長近藤※※中佐は、自ら在郷軍人出身者に「本日より召集を命ずる」と兵役に服務するよう口頭で伝え、階級章を与えた。
 三月三十一日の夜、整備工の一部は本土から飛んで来る特攻機の整備のため飛行場に待機していたが、米軍上陸の四月一日、北飛行場から撤退して、風一八九一八部隊(保安部)、誠一九〇二三部隊(旧分廠)は共に、久得山の壕に集結し、一泊した。その後の部隊の任務は、首里石嶺で建設途上にある石嶺飛行場の守備ということで、首里に向かって行軍した。現在の東南植物楽園辺りを通り、嘉間良の石橋は、友軍が壊してあったため、それまで乗用車に乗って移動していた隊長は、車を乗り捨てた。その後も行軍を続け、途中、中城村新垣で休憩し、首里石嶺の丘陵地帯(現在の石嶺団地)に着いた。
 首里石嶺は、中城湾が眼下に一望できる所であった。女子工員もついて来ていたので、早速壕掘りにあたった。幸いにそこは掘抜き墓が並んでいたので、手を合わせて墓を開けて骨壷を外に出し、草を被せた。柩(ひつぎ)はそのまま残して、墓の天井から土を落として埋めて寝床を作った。夜になり、藤沢小尉、薄井軍曹と私の他五、六名が引率され、三十二軍司令部に兵器受領に行った。ところが渡された兵器は、小銃三丁に発火式手榴弾三〇発(雨にぬれたら使用できない)、竹槍三〇本くらいだった。
 旧分廠には、学生出身の技術見習士官が、南方に行く途中乗船が撃沈されて赴任地に行けず三〇名くらいいた。その見習士官は、分隊長となり一〇名くらいを指揮してたこつぼ掘りに従事した。女子工員はここが戦場になるかと不安におびえ、辞めて家族の許へ帰る者もいた。

旧分廠の解散、山部隊へ

 米軍の攻撃は昼夜と無く激しくなり、首里には第三十二軍司令部があり、装備のない部隊が前線にいては友軍による反攻の妨げになるため、南部方面の完全武装の部隊と交代させられた。
 ここで旧分廠は解散になり、数人ずつに分けられて山部隊や石部隊に分散配属となり、私は一〇名の分隊長となり、山部隊(三四七四部隊)の迫撃砲隊に配属された。しかし最前線の砲陣地には、私達を収容する壕も無く、また砲撃の経験者もいなかった。私たちは、陣地後方にある弁ヶ岳付近の壕で寝起きし、約七キロ余離れた弾薬集積所から、夜間を利用して迫撃砲の弾薬運搬の任務を命じられた。雨の降りしきる闇の中、間断なく飛びかう砲弾の下、弾薬箱を背負い、米軍の打ち上げる照明弾の光を頼りに陣地まで運ぶのが日課となった。
 山部隊も、圧倒的な米軍の攻撃には反撃することもできず、南部への後退を余儀なくされた。このころにはすでに、第三十二軍司令部も摩文仁へ「転進」していた。私達は東風平で山部隊に合流した時に、米軍の馬乗り攻撃に遭い、夜中、壕から脱出したこともあった。迫撃砲も使用できず弾薬運搬の仕事も無くなり、本部付になった。沖縄出身で地理が詳しいと思われ、常に斥侯(せっこう)や部隊の先導の任にあたった。

山部隊も解散、捕虜となる

 山部隊も最後は糸満、国吉、真栄平の線で陣地を立て直し、守備に就いた。ここが日本軍の最後の砦で、その背後には第三十二軍司令部もあったが、米軍の陸海空からの猛攻撃にはどうすることもできなかった。六月十八日頃、部隊長は「本日をもって部隊を解散する」と部下に伝えた。「友軍が国頭に逆上陸するので、その部隊に合流せよ」との事。私は県出身の初年兵と一緒に糸満辺りから、米軍の最前線の陣地を突破して、那覇近郊まできた。
 しかし米軍の警備は厳しく、発見されて捕虜となった。私達は屋嘉捕虜収容所に収容された。人員が少ないので、先に捕虜になった人に聞いたら、ハワイ収容所に護送されたとの事。日がたつにつれ、捕虜の人数も増え、朝鮮人を含めて三〇〇〇人ぐらいはいたと思う。
 こうしてあの地獄絵のような戦争も終わり、一九四五年(昭和二十)十月五日に収容所から解放された。旧分廠では多くの方が、南部で戦死した。
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