第六章 証言記録
男性の証言


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陸軍保安部那覇出張所
(通称名 風一八九一八部隊沖部隊、
 固有名 中央航空路部沖縄管区)について

松村※※(那覇市在住)大正八年生
 一九四三年(昭和十八)五月、満州から復員してきた私は、小禄の飛行場にあった陸軍航空保安部那覇出張所に軍属として入った。陸軍航空保安部那覇出張所(以下保安部)は、大刀洗陸軍航空廠輸送部(後の那覇分廠、以下分廠)と共に小禄の飛行場にあった。小禄飛行場は、日本軍機の中継基地で、ここでガソリンを補給して、台湾の台北、屏東(ヘイトウ)、嘉義あたりの飛行場に飛び、そこから南方に向かっていた。
 保安部は一九四二年(昭和十七)頃、大刀洗輸送部より分かれて改称される。現在埼玉県在住の黒岩※※(当時十六歳)が輸送部の軍属として、小禄飛行場に無線機(対空二号無線機出力一〇〇W)を設置し、地上連絡を定期に行うと共に対空通信(飛行中の航空機との通信)も実施した。
 つまり、離着陸飛行機の輸送関係、燃料補給と整備などをやる輸送部が先にあったところへ、飛行機との通信が必要になり保安部が置かれたということだ。保安部は東京の立川に本部があり、立川や各務原(かがみはら)、鹿屋などから離発着する飛行機の通信関係の業務、気象情報や沖縄に着陸する時間等の情報を受けていた。
 保安部は通信機材しかもっていなかったが、分廠の方は輸送部があり、トラックも乗用車ももっていた。保安部と分廠は連絡を密にとっており、保安部が飛行機の到着時間の通信を受けると分廠に連絡し、分廠の車で飛行士を那覇の楢原旅館に案内し、翌日は迎えに行ったりしていた。分廠には将校、下士官は二〇〜三〇人ぐらいしかいなかったが、軍属だけでおそらく三〇〇人はいたと思う。技術将校はいたが、実際に飛行機の整備は、軍属が大刀洗の方からたくさん来ており、その人達がやっていた。
 沖縄は、一九四三年(昭和十八)頃までは準戦地扱いだったのが、四四年八月十五日からは戦地扱いになった。それを機に那覇分廠も、一九四四年(昭和十九)の八月十五日に部隊の編成替えがあった。
 私達が北飛行場に移ったのは、十・十空襲直前の一九四四年(昭和十九)九月だったが、その頃には北飛行場の滑走路等はほぼできあがっていた。滑走路の前には通信のためのアンテナ線があり、大きな通信塔もできていた。小禄の飛行場は海軍が使うということで、机から通信機材までトラックに積んで読谷の飛行場に来た。
 小禄には通信等の残務処理があったので、一個小隊が残った。私達の通信班は一〇名程が、分廠も合わせて二〇〜三〇名は残っていたが、彼らも後に読谷飛行場に合流した。
 伊良皆にあった本部は、瓦葺きの本建築だった。私は本部付きで庶務にいた。一九四四年(昭和十九)九月十五日に、保安部と分廠、この二つの部隊長を近藤※※中佐(後に大佐)が兼務した。
 一九四四年(昭和十九)十月九日、通信部隊の兵舎で、入営者の壮行会が遅くまで催された。何人か入隊する人がいて、その翌日に十・十空襲があり、このことは忘れられない。
 十・十空襲の被害を受けた後は、久得山の下の方(現在の米軍弾薬庫の周辺)に三角兵舎がありそこに移った。炊事場があって川が流れていた。いつの間に兵舎を造ったのか、空襲を受け、さあ今晩からどこに寝ようか、飯はどうなるんだろうと思っていたら、誘導されて現在の国道五十八号を渡って山手に行くと三角兵舎が建っていたのでほっとした。
 そこを出たのが一九四五年(昭和二十)三月二十九日か三十日。久得山の大きな壕に全員集まって、その壕で一晩過ごした記憶がある。翌四月一日、壕から上がって見たら、西海岸は米軍の艦船で囲まれていた。夜、久得山を出た。私達の部隊は第三十二軍の配下にあったので、伺いをたててトラックに荷物を乗せて、現在のライカムの所から宜野湾街道を通って首里金城町に行った。
 五月二十七日に第三十二軍から、金城町から島尻に下がれという命令があった。その時に迫撃砲弾を受けた。我々の部隊は通信部隊だから、兵器を持っていないので退却するしかなかった。
 私は配属替えはなく、風一八九一八部隊本部とともに最後には摩文仁まで下がった。
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