第六章 証言記録
男性の証言


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台湾での戦争体験

上原※※(波平・※※)昭和五年生

読谷飛行場建設

 私は尋常小学校を卒業したあと、一九四四年(昭和十九)当時は、国場組に雇われて読谷飛行場で働いていました。飛行場を造るために、丘を壊して均したり、人の家を壊して均す仕事でした。ブルドーザーもなかったので、丘の周辺からツルハシで壊す作業は、とてもきつい仕事でした。測量は棒を立てて目測していました。

台湾疎開

 家族と一緒に台湾へ行ったのは、一九四四年(昭和十九)の八月ごろだったと思います。当時は、父※※(明治三十二年生)、母※※(明治三十九年生)、祖母※※(慶応二年生)、長女※※(大正十五年生)、長男私、次女※※(昭和八年生)、三女※※(昭和十年生)、四女※※(昭和十三年生)、五女※※(昭和十五年生)、六女※※(昭和十七年生)の一〇人家族でした。父は家を守るために、年老いた祖母と一緒に沖縄に残り、台湾へは二人を除いた家族八名で行きました。
 私は子どもだったからよく分からないが、台湾へ疎開したのは、命令とか強制ではなくて、沖縄に戦が来るから疎開しようということで、「行こうか」「行こうか」と互いに誘い合って行ったんじゃなかったかと思います。私たちは、父の従兄弟でキリスト教の伝道師をしていた上原※※さんに誘われて行きました。※※さんの兄さんの孫にあたる※※さん、眞榮田※※さんの家族、渡慶次※※さんの家族、上地※※さんと妹の比嘉※※さん、上地※※さんの家族五名、津波※※さんと子どもの大城※※さんなど、波平から五、六家族が一緒に同じ船で行きました。読谷からは最初の台湾疎開だったと思います。その他に大湾の人もいました。上原※※さんが、みんなを引率して行ったと思います。

那覇の旅館に集合して出港

 出発の際は那覇の旅館で集結し、一泊して翌日那覇港から出航しました。当時、私は一度だけ父と汽車に乗って波之上に行ったことがあっただけで、那覇もあまり知らなかったから、何という旅館で、那覇のどこにあったか、まったく分かりません。私たちが泊った旅館からちょっと離れた所の旅館に、対馬丸に乗る直前の学童たちがたくさんいて、学童たちの声が聞こえていました。台湾に行ってから対馬丸が沈没したと聞きました。
 私たちが乗った船は大きな船で、那覇や沖縄全島から集まった人たちがたくさん乗っていました。私たちは、攻撃されるかもしれないということは聞かされてなかったし、友軍は勝つと言っていたから、そんな心配はしていませんでした。十・十空襲前に行っているので、米軍の攻撃を受けた経験がないせいか、恐さを知らなかったんです。旅行気分で喜んで行きました。
 台湾に行く途中、敵の潜水艦がいる時は、船は魚雷を警戒して島影に隠れていました。昼は航行して、夜は泊まったりして行ったから、一週間ぐらいかかったと思います。

台湾での生活

 台湾は基隆(キールン)港に到着しました。船を下りると、みんな一緒に、手荷物を抱えてすぐ汽車に乗り、台中省に行きました。そこからまた小さい汽車に乗り継いで南投街という駅に着きました。駅のすぐそばに明治製糖株式会社という大きな製糖工場がありました。その明治製糖の「明糖倶楽部」が、私たちの宿舎として用意されていました。明糖倶楽部の番地は、南投郡南投街一の六番地でした。同じ船で行った私たちのグループは全員、この明糖倶楽部で宿泊しました。明糖倶楽部では、家族ごとに荷物で仕切りを作って、十何世帯も一緒に生活していました。二人家族もいるし、人数の多い家族もいました。
 上原※※伝道師は、台湾でも教会で集会をやっていました。教会に行きたい人は行っていました。私は仕事だから行けなかったが、一度は母と一緒に行った覚えがあります。
 母は小さい子の世話をしながら家事をしていました。姉の※※は、明糖倶楽部から歩いて五〇〇メートルぐらいの所にあったパイナップル工場で働いていました。台湾では、日本人は国民学校、台湾人は公学校と分かれていましたが、妹たち三人は、台湾の子どもたちと一緒に公学校に行っていました。教育内容は同じだったのではないかと思います。※※が四年生、※※が二年生、※※が一年生でした。

日本政府の援助

 当時は、日本政府から援助がありました。一人当たりいくらといってあったので、家族が多いところはたくさんあったと思います。うちは家族が多いもんだから、生活できる程度はありました。沖縄にいる時と較べて、お金の面では楽だったと思います。食事は自分たちで作っていましたが、米のご飯も食べられましたから食事の内容は沖縄より豊かでした。嘉義という小さい街まで食糧を買い出しに行ったこともありました。
 政府から援助があったということは、政府から「疎開しなさい」ということがあったのかも知れません。船賃も汽車賃も無料でした。交通費は全然出なかったと思います。そうでなかったら行けないですよ。はっきりは分からないが、旅館でも食事はただで出してあったのではないかと思います。

明治製糖での仕事

 明治製糖はナイチャー(内地の人)が建てた会社でした。当時、台湾ではあっちこっちに明治製糖の子会社がありました。台湾は製糖の国だから、州に一つずつあったんじゃないかと思います。明治製糖には沖縄の人も内地の人も、台湾の人も働いていました。従業員の七〇〜八〇パーセントは台湾の人でした。一緒の船に乗って行った人たちはほとんど明治製糖で働きました。若い人は若い者同士、年取った人は年取った者同士で仕事をしました。
 私はサトウキビを運搬する機関車に石炭をくべたり、水を入れたり、掃除したりする機関工の仕事をしました。その仕事も大変でした。給料は月収六〇円、年収が七二〇円(『在外財産実態調査申告書』)でした。ボーナスもありました。台湾の人より日本人の方が給料は高かったと思います。給料は沖縄人とナイチャー(内地の人)の区別はなかったです。でも、会社の上の人はみんな本土の人でした。私は終戦後、沖縄に引き揚げるために旧台湾総督府庁舎に移るまで、ここで働きました。

台湾の人との交流

 台湾の人は沖縄の人を「リューキューアン(琉球人)、リューキューアン」と言って、親しくされましたが、内地の人はちょっと軽蔑していたんじゃないかと思います。台湾の人は日本本土の人よりは、沖縄の人の方が近いといって、「兄弟」と言っていました。台湾は悪い所ではなかったですね。私は終戦で引き揚げなかったら、台湾にいるつもりでした。国が大きいし、食べ物が豊富でしたからね。
 台湾の人は日本語教育を受けていたので日本語で会話をしていました。私は台湾の人と一緒に仕事をしていたので、台湾語もちょっとは覚えました。私は当時十四、五歳の子どもだから、仕事の合間によく遊んだり、話したりしました。今でも台湾のことを夢に見て、昔の友達も年を取っただろうなと思うことがあります。
 戦前、高砂族は日本の教育を受けていたので、兵隊になるとすぐ出世して上等兵、伍長、軍曹になって、同じ台湾の人たちの指揮をとっていました。戦後は、同じ台湾の人から「うちなんかを馬鹿にしたな」と言われて、立場が逆転していました。同じ台湾の人でも、高砂族と他の人々とは種族が異なっていました。その人たちは今でも日本語を使えるらしいです。

マラリア罹患

 台湾に行って一、二か月後に、私は悪性マラリアに罹って、三か月ぐらい入院しました。当時は、ほとんどの人がマラリアに罹っていました。私の家族もほとんどマラリアに罹ったが、私が一番重く、やがて死ぬところでした。寒くて、布団を被ってもガタガタガ震えていました。ガタガタが止むと熱が下がっていました。母は、明糖倶楽部から五〇〇メートルぐらい離れた所にあったマラリア防遏所(ぼうあつしょ)まで、私をおんぶして連れて行ってくれました。その時は、息子は私一人だったから、母は「死なしてはいけない」と必死だったと思います。そこから台中病院に入院しました。病院には日本人の医者がいました。マラリアの薬はとても苦くて、私はペッペッと吐き出してしまいました。幸いに、私は退院できて、また仕事に戻ることができました。機関庫の所長だった石田※※さんという香川県の人が、とても親切な人で、入院中に梅干を持ってお見舞いに来てくれたり、ボーナスも持って来てくれました。
 マラリアは、私たちが台湾に行くずっと前からあったようで、台湾の人は免疫があるのかあまり罹らなかったが、沖縄の人は、ほとんど罹っていました。戦争よりもマラリアで亡くなった人が多かったのではないかと思います。私たちと一緒に行った眞榮田※※さんは、私より一つ年下だったが、マラリアで両親と兄弟を亡くし、戦後、家族五名の遺骨を柳行李に入れて一人で引き揚げてきていました。とてもかわいそうでした。上地※※さん(当時七、八歳)も八十歳になるおじいさんをマラリアで亡くしていました。

台北大空襲

 私たちが台湾に行ってから沖縄では十・十空襲がありましたが、台湾でも全域にわたって大空襲がありました。
 その日は仕事中に空襲がありました。私が機関車に石炭を入れていると、空襲警報が鳴ったので、急いで二、三〇〇メートル先の壕に逃げ込みました。私が壕に入ったとたん、すぐ傍らに落下傘爆弾が落ちました。幸い、不発だったので助かりましたが、もし爆発していたら死んでいたと思います。二、三発落ちたか分からないが、すぐに友軍が来て、不発弾を掘り出し、信管を抜いて持って行きました。不発弾は十分使えるといって、それをまた友軍が使うわけです。落下傘弾は紐がついているからすぐに見つけられるので、友軍は落下傘が落ちる場所を見ていて、すぐに不発弾を掘り出しに行くわけです。
 次の空襲が来た時に、製糖工場はほとんどやられていました。死んだ人もいたと思います。P38という攻撃機が来て低空飛行で工場に爆弾を落としていました。P38は胴体が二つあって、斜めに下降しながら攻撃し、ブーウーと斜めに上昇しながら機体の後方からも攻撃していました。大きな家とか工場とか、汽車がやられていました。私たちが乗っていた機関車もやられました。
 それでも、その時は日本が負けるとは思いませんでした。「米英の命根こそぎ、撃ちてし止まむ、撃ちてし止まむ、撃ちてし止まむ」と、学校に行っているときいつも歌っていたので、日本は神の国だから勝つ、絶対に負けないと思っていました。

その後の空襲

P38戦闘機
画像
 その後しばしば空襲がありました。主に都市を爆撃していました。私たちがいた南投は台中から離れていたので、爆発音は遠くで聞こえました。空襲警報が鳴ると急いで壕に入り、高い山の合間から攻撃機が来るのを見ていました。空襲が終わると、また仕事を始めました。ここでは空襲で命を落とした沖縄の人はいませんでした。
 一九四五年(昭和二十)の四月に沖縄に米軍が上陸したというのは、ニュースで知りました。台湾でも四月二十三日頃から、空襲がひどくなり、断続的に空襲がありました。米軍は沖縄に上陸してすぐ飛行場を造り、そこから台湾に飛んで来ているという話でした。新竹、台中方面では毎日、爆弾がバンバン落とされていました。地続きなので私たちのところまでも毎日地響きがありました。

終戦、沖縄「玉砕」の噂

 終戦は会社で、ラジオ放送を聞いて知りました。「日本は勝つ」とずっと言っていたので、私は「何、日本が負けた?」と、びっくりしました。台湾では、沖縄が「玉砕」したという噂が流れていました。「沖縄は玉砕して草木も何もない、誰もいない」というのを聞いて、「お父さんはどうしているかねえ」と心配で、とても悲しかったです。
 八月の敗戦の頃は、台湾と日本政府とグチャグチャー(混乱)しているから仕事はできなかった。終戦後すぐに、蒋介石の軍隊がたくさん入って来ました。蒋介石の軍隊は、軍服など、日本の軍隊に似ていました。階級を表す襟章も星型ではなくて三角マークだったが、上等兵が三つ、一等兵が二つ、二等兵が一つで、日本の軍隊と似ていました。蒋介石軍は来てすぐは台湾の重要な所を押さえ、日本軍の武装解除をしただけでした。台湾の人は喜んで歓迎していました。
 日本が負けると、台湾の政治はすぐに台湾政府に切り替えられました。その時、日本兵もいましたが、武器もないので、台湾政府の言うとおりに、あっちに行ったりこっちに行ったりしていました。日本人が一人ふたりで通りを歩いていると、「ジープンダー、ジープンダー」と言って、石を投げられていましたが、沖縄の人には兄弟といって「リューキューアン、リューキューアン」と、良くしてくれました。また、敗戦直前には、南洋群島方面から台湾に引き揚げて来ている人たちもたくさんいました。

集中営での生活

 敗戦後、一九四六年(昭和二十一)の五月ごろ、沖縄人(ウチナーンチュ)と沖縄の旧軍人はみんな、台北の旧台湾総督府庁舎に集められました。旧日本兵は別の所に集められていたと思います。旧台湾総督府庁舎は爆撃を受けてあちらこちら壊れていました。ここに集められて生活していましたので、集中営(しゅうちゅうえい)と言っていました。旧台湾総督府庁舎は三階建てか四階建ての大きな建物で、一階には民間人、二階と三階には旧軍人が入っていました。電気はなくて、夜になると幽霊が出るという噂もありました。
 集中営では、沖縄の旧軍人(琉球籍官兵)が食事を作っていました。ドラム缶に炊いて、船のエーク(櫂)みたいな大きなしゃもじでかき混ぜていました。野菜を市場で買ってきて、洗うのも一回きりで、すぐ炊いていたので、煮えると虫が浮いてくることもありましたが、その虫も取って食べました。その時は汚いとは思いませんでした。よくウンチェーバー(エン菜)などがあり、米の飯もありました。出来上がると、私たちは、一人ひとり飯盒を持ってもらいに行きました。戦時中、軍隊で飯上げといって、ご飯を配ることがありましたが、そんな感じでした。食事はお腹いっぱいになるぐらいありました。どこからか援助があったんだと思います。お金のある人は、自分でも買って食べていました。
 敗戦になってもすぐには沖縄に引き揚げられなかったので、集中営で約六か月過ごしました。

台湾での葬式

 台北の集中営では仕事がなかったので、あっちこっちぶらぶら見物したりしていました。頼まれて台湾人の葬式に出たことがありました。台湾では、人が死ぬと「泣き女」を頼んでいました。知らない人にも「葬式に来てくれ、お金あげるから」と宣伝して、人をたくさん集めて行列をつくってチリリンクァンクァン太鼓や鉦かねを叩いて盛大にやっていました。私たちがいる集中営にも、「お金あげるから葬式に出てくれ」と頼みに来たので、私も二回葬式に参列しました。普段着で行って、泣き女の後に並んでいました。旗持ちをしたこともありました。終わったら「はい、はい」って一円ずつ渡してくれました。当時の一円は大きかったです。食事も出してもらいました。昔の沖縄の葬式にかなり似ているなあと思いました。沖縄では親族の女たちは、バサージン(芭蕉布の着物)などで被って顔を見せないで泣いていましたがね。
 戦争中に、台湾で日本人が亡くなったときには、葬式といっても何もないので、集まってすぐ火葬にしました。その当時は毎日のようにマラリアで人が死んでいましたからね。

台湾引き揚げ

 私たちは、一九四五年(昭和二十)八月十五日の終戦から沖縄に引き揚げるまで、一年以上台湾にいました。日本は負けたので、アメリカ政府と相談していたのか、日本が落ち着いてからということだったのか、引き揚げまでだいぶ時間がかかりました。結局、私たちは沖縄に帰れる日を待って、台北集中営で六か月過ごしました。早く帰りたい気持ちでいっぱいでした。
 いよいよ沖縄への引き揚げが始まると、みんな順番を待って、「今日は何名、何百名」と基隆港から指示がある時に船に乗りに行きました。これは担当の方がちゃんと準備してやっていたんだろうと思います。引き揚げは、ナイチャー(内地人)とウチナーンチュ(沖縄人)と別々でした。民間人と兵隊とも別々でした。怪我人や民間人を帰してから、旧軍人(琉球籍官兵)は最後に帰ったと思います。帰れる日が決まった時はとてもうれしかったです。私たちは引き揚げが始まってから中間ごろの船に乗ったと思います。
 一九四六年(昭和二十一)十一月頃、私たちは、基隆港からアメリカ軍のLST(戦車揚陸艦)に乗って沖縄に向かいました。台湾に行った時と違って魚雷の心配はありませんでした。船には引揚者たちがたくさん乗っていて、ゆったり座れるような広さはありませんでした。一緒に台湾に行った人たちもみんな一緒でした。
 波平出身の元大尉知花※※さんもいらっしゃいました。もう一人の波平出身の知花さんという方は准尉だったということでした。

久場崎へ上陸

 米軍のLSTは速かったので、一日か二日で久場崎に着きました。沖縄は「玉砕」して誰もいないと聞いていたので、帰って来たらたくさん人がいたからびっくりしました。久場崎に上陸するとメリケン粉みたいなDDTを頭からかけられました。久場崎には大きなコンセットがあり、しばらくそこにいました。ベニヤ板に自分の親戚とか身内とかの名前が書かれていて、どこそこの収容所にいるというような消息が書いてありました。それを見て、父たちが石川の一区二班にいることが分かりました。それで、沖縄の人が運転するGMCというアメリカ軍の大きな車に乗せてもらって石川に行きました。

石川で父と再会

 石川に行くとすぐに、父に会うことができました。台湾に行った最初の頃は一、二回、父や親戚と手紙のやり取りもしていましたが、沖縄に戦争が来てからは連絡が取れなくなっていました。久場崎でベニヤ板に書かれた名前を見るまでは、父が無事かどうかまったく分らなかったので、再び会えた時はとてもなつかしく思いました。
 父と祖母は、小さな畜舎に板を敷き、その上にカバ(米軍のテント)を敷いて住んでいました。私たちもそこで一緒に住んだんですが、家族が多いので、狭くて寝る所もなくて大変でした。そこに一年以上いました。
 石川ではアメリカ軍から、家族数に応じて配給がありました。私たちは家族が多いので、配給もたくさんあり、往復して担いで来るほどでした。食べ物は肉の缶詰や乾燥ジャガイモなどがあり、配給は一人一缶なので、一回に七、八個もありました。HBTやカーキー服、毛布もたくさんありました。それで、私たちはこれを売りに行って生活費にしました。
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