第六章 証言記録
男性の証言


<-前頁 次頁->

戦争よりも辛いこと

知花※※(名護市在住)大正十二年生

はじめに

 名護市屋我地島の愛楽園という施設は、読谷からは遠いところである。平和の礎には刻まれていないが、ここでも確かに読谷村出身者が戦争を体験し、何人かの戦争犠牲者が出ている。現在も毎年、読谷村役場から愛楽園への激励訪問を受けるなど、読谷村との交流もあり、お世話にもなっている。私も戦争を体験した一人として、もう二度と戦(いくさ)のないように、ここで何があったのかを伝える責任があると考え、自分の体験を語ることにした。

少年時代

 読谷山村で生まれ育った私は、渡慶次尋常高等小学校へ通っていた。小学校には大きなガジマルの木がたくさんあって、とくに運動場東側にあった大きなガジマルの隣りに奉安殿があった。運動会などの集合場所もそこだった。奉安殿の前では、必ず一礼してから通ったものだ。私の家では畑を耕し、家畜を飼って生計をたてていた。
 そして、あの頃はこの病気(ハンセン病)は伝染するとか何とかいって、病気になった人は本当に惨めなものだったんだ。家族の中に、ハンセン病患者が出ると、周囲からの差別を恐れて、クチャグヮー(裏座)に病者を隠していたものなんだ。ずっと閉じ込めて、ただ三度の食事だけを運んで。家族にとっても病者の存在は負担になるし、ましてや病気になった当人の胸の内は言葉にできるものではなかった。
 この病気に対しては、一般住民から県の衛生課までとてもうるさかった。一九三八年(昭和十三)には、名護市屋我地にハンセン病療養者のための施設、愛楽園ができた。当時の県公衆衛生課長も読谷山村に頻繁に来ては、病者のいる家を回り療養所に入ることを勧めていた。
 家族に病者がいる子どもなどは、学校でもだいぶ苛められたんだ。事情をよく知っている先生でさえ、何もしていない子どもを一人で廊下に立たせたり、みんなの前で「あんたはバカだねー。やっぱり家庭が悪いからだねえ」とか言ったり。そういう時代状況の中で、病気になった人が、いたたまれずに一人で家を出て、浜辺に仮小屋を立てて暮らす人もいるほどだったんだ。
 一九三六年(昭和十一)、渡慶次尋常高等小学校高等科二年の時、私は学校を中退し、数年は農業をしていた。

発病

 一九三九年(昭和十四)十七歳の時、叔父が「支那事変」(日中戦争)で戦死した。叔父は鹿児島四五連隊に所属していた。当時、遺骨は家族の者が取りに行かなければならなかったので、私が遺骨を取りに行くことになった。後に米軍潜水艦によって撃沈された「嘉義丸」に乗船し、二泊三日かけて鹿児島まで行った。そこで、遺骨は熊本にあると聞き、汽車で熊本まで行った。往復一週間ほどかけて遺骨を持ち帰ると、渡慶次尋常高等小学校で村葬が行われた。村長や区長、学校の先生や学童たちが一堂に集まる大きなもので、何名かの戦死者の合同葬であった。しかし、私は村葬に参加しなかったんだ。それは叔父の遺骨を持ち帰った直後にハンセン病を発病したからだ。
 沖縄では、迷信かもしれないが「フジョウマキ(不浄負け)」といわれるものがある。今でもお通夜に行ったら傷がひどくなったとかいわれることがあるでしょう。私の場合、遺骨を抱えて旅をしてきて、帰ったらすぐに顔が赤く腫れたので、そうかなとも考えた。しかしこの病気には潜伏期間があるので、科学的に考えれば遺骨と発病は関係ないかも知れないがね。そういうわけで、人前に出るのが怖くなって、叔父の葬式には出られなかったんだ。

入所を決意

 一九三八年(昭和十三)、愛楽園ができた当初は定員が三〇〇人ほどで、定員を満たすまでは強制的に患者が収容されていたようだ。しかし次第に話を聞いた人が集まってきて、一九三九年(昭和十四)、四〇年頃は、園を訪ねても二度、三度帰されるというのがあたり前だった。一九四三年(昭和十八)頃からは、日本軍による強制収容が始まるのだが、開園からの一、二年間は、希望しても入れないという時期があった。しかしまた園から逃げ出す人も多くいた。
 一九三九年(昭和十四)、私は希望して愛楽園に入った。ただ希望したと言ってもね、喜んで入るという意味ではないよ。別離の苦しみ、親兄弟と別れるというのは、いつの時代でも苦しいことでしょう。それが、元気で稼ぎに行くために別れるのであればいいけれど、病気で別れるというのは辛いものだ。寝たきりでウンウン唸っている病人であれば、まだ家族と別れて病院に入るのは仕方ない。だが、私は普段と変わらず元気であるのに別れなければならなかった。
 当時はこの病気に対する認識が、「もう恐い」というのが非常に強かったからね。そういう時代、世間からの風当たりが、非常に厳しい時代だった。いや、自分一人ならいいんだよ。家族まで辛い思いをさせるということ、これはどうしようもなかった。裏を返せば、希望して施設に入ろうと思うほど、それぞれの地域で置かれていた状況が惨めで辛かったんだな。そんな偏見、差別が自分の家族に及ぶことを思うと、どんな厳しい状況でも施設に入ろうと、そう思ったんだ。

愛楽園へ

 入園時に本館で係員に、持っていた所持金を全部取り上げられた。そして「誓約書」というものに捺印させられた。その「誓約書」には「死んだら園の必要によっては解剖してもかまいません」などいくつかの項目があり、職員が書類の端の方をつまんで、壁に向かって捺印させたんだ。汚いと思っていたのだろう。だからここでもそれぐらいの扱いだったんだ。
 現金は没収されて、その代わりに「園券」という、園内だけでしか通用しないものを支給された。つまり、外に出ないように、お金があれば脱走するかも知れないという考えさ。園内には売店があったが、ただ黒砂糖グヮーと鰹節グヮー、煙草グヮー(キセルを使う刻み煙草)、それから色々な小物類、そんなものしか売ってなかったけどね。

青年団員として活動

 愛楽園でも青年団が組織されていて、私は青年団員になった。青年団の活動として、毎朝、「君が代」を斉唱しながら「国旗掲揚」をし、ラジオ体操をした。これを朝食前に毎日やっていた。警防団もあり、月に一度は防火訓練として、浜から海水を汲んでバケツリレーをしたり、「火の用心」ということで、園内を回ったり。御真影はこの頃、恩賜記念館横の公会堂に置かれていたんだ。ちょうどステージみたいに段があってね、そこに御真影が奉護されていた。四大節(元日、紀元節、天長節、明治節)のときはここで礼拝していた。その後ろには分館といって職員と入園者が接触する場所があった。あの頃、まだ自治会というものが作られてなくて、自治会事務所がなかったから、その前身のようなものさ。
 読谷の各字では年中行事等いろいろあったが、ここでは楽しみといっても、自分で作り出す以外ないからね。運動会も演芸会も年に二回あるわけ。部落ではないから行事もないし、自分たちで遊びを作るわけ。青年団員は、当時は七〇名くらいいた。
 また師範学校の音楽部が来て音楽会を開催したこともあった。戦時体制下ということで、君が代行進曲やその他軍歌の演奏が主であった。部活動もあり、私は野球をやっていた。三年ほど前に元米兵が「持ち主に返したい」ということでね、一九四一年(昭和十六)当時の野球部の集合写真をハワイから沖縄に持ってきた。ユニホーム姿の青年の自分をこの写真で初めて見た。また今は下火になったが文芸活動も盛んだった。
 一九四〇年(昭和十五)は紀元二六〇〇年記念事業ということで、園では木麻黄(モクマオウ)を植樹した。これもたくさん植えてあったが、建物増設にともなってもう残っていない。戦時中に強制収容された患者用にと、三度にわたって施設拡張が行われたからね。
 戦時色がしだいに強まる中、一九四二年(昭和十七)に徴兵検査の案内が来ていた。体は元気でいくらでも兵隊に行けたのだが、ここに入っているということで、検査さえも受けられなかったんだ。当時は「納税・教育・徴兵」は国民の三大義務だったから、兵隊になれないことがとても恥ずかしくてね。国民の義務として徴兵があり、徴兵検査では、健全な体で甲種合格するのが名誉であった時代だからね。

読谷飛行場建設作業

 一九四三年(昭和十八)頃から読谷で飛行場建設が始まった。その関係で他市町村よりは早めに読谷山村に日本軍が入ったから、ハンセン病だと知られた村出身者二、三人が愛楽園に連れて来られたのを覚えている。一人は渡慶次の人であったがね、もう亡くなったはず。日本軍が沖縄へ来てからは、民間にハンセン病患者がいては困るといって、軍が強制的にこっちまで連れてきていた。
 読谷で飛行場建設が始まった時、実は私はここを抜け出して、飛行場建設に行ったんだ。というのは、ここにいても現金収入は全くないさ。だから家族に仕送りも出来ないし。あの頃、家には母親とまだ幼い弟と妹達だけだったからね。畑はあっても、現金収入を得てくるような働き手がいないさ。だから、少しでも母を助けたいという思いで、なんとか稼いで母に渡してやりたいという一心だったんだ。
 だからね、この病気への差別がひどかったのは、私の家で母が豚を飼って売ろうと思っても誰も買わんのだよ。豚はいたんだよ、でもね、うちには病者が出ているという理由で、キビを作っても仕事にならなかった。昔はキビを作ったら、何所帯かで組を作って製糖小屋に持って行ってたんだがね、その組にも入れてもらえなかったんだ。もちろん、家族は病気でもなんでもなかったんだがね。そういうわけで、収入はなかったさ。つまり生活できないわけ。だから、イモや野菜を自分たちで作って食べていたんだが…。
 私はね、こっちへきて仲間もいるし、三度の飯も食べられたから、実際には家族の方が大変だったんだ。世間からも冷たくされるし、生活も苦しくなるし。自分の病気そのものよりも、自分の存在が家族に辛い思いをさせているということ、それが一番辛かった。だからね、この病気になったら、故郷から逃げて本土へ行ってしまう人もいたんだよ。

忘れられない夕食

 一か月半、飛行場で働いた。園から「戻ってくるように」という手紙もきていた。また読谷は地元なので、どこどこの長男が飛行場造りに来ているよという話しになって、とうとう建設現場でも私が病者であることが分かって、園に戻らなければならなくなった。その時得たお金は一七円だった。当時一七円といえば大金だったからね。飛行場建設といっても、住民総動員で造って、トロッコ列車に石を積んで運んだりね、滑走路といっても惨めなものさ。
 そうしてね、あの頃、家族は米の飯なんて食ったことなかったからね、働いて得たお金で米を買ったんだ。明日は園に戻るという最後の夜に、ご飯を炊いて母と弟、妹たちとみんなで食べたんだ。あの時一番辛かったのは、母がね、「兄さんは今日までしかいないよ。明日からはもういないよ」と弟、妹たちに言い聞かせていたこと。これが一番辛かった。弟たちは事情も何も分からず「どうして兄さん、遠くへ行くの」としか思っていないさ。肉親との別れが一番辛いわけさ。

監禁室へ

 園に戻るとね、無断で外に出たということで始末書を書かされて、監禁室に三日間閉じ込められたんだ。あの頃は個人的な事情などは全く認められなかった。一般住民でも、食糧も衣料も切符制で国の統制下におかれていたからね。自分の畑の作物や家畜でも、勝手に食べることもできない。馬車でも人間でも徴用といって、命令一つでどこへでも行かされて、飛行場造りなどの作業に駆り出されたんだから。あの時代は、自分のものが自分のものでない時代だったからね。
 その監禁室という所は、二畳ほどの狭い部屋に鉄格子がされていて、周囲は高い塀で囲まれていた。そんな中に一人でね、暗いし、横になっていても足の上をネズミが走るしね。さびしいなんてものじゃなかった。
 だけどね、人間というのは知恵もあるからね、友達が食べ物を密かに置いてくれたりした。また痩せている人だったら、格子の間を擦り抜けて、夜中は寮へ戻って寝てから明け方には監禁室に戻るということをしていたよ。
 当時、園長は大変な権力を持っていたからね。勝手なことをしたらすぐ、監禁室に入れられたんだ。

早田園長の就任と横穴壕掘りの作業

 一九四四年(昭和十九)二月に愛楽園二代目園長に早田※※先生が就任した。この年の五月に園内でも「愛楽園患者食糧増産挺身隊」が結成されて、現在のスコアブランド公園のある辺りも全部畑になって、イモが植えられていたんだ。空地は全て畑になっていた。職員は次々と召集を受けて少なくなっていったが、こっちの患者は徴兵検査も受けられない青年がたくさんいたから、男手はあったわけ。
 この頃には、奉安殿が作られていた。そこは地下室も作られていた。何かあれば御真影を守るために、地下に移せるような仕掛けであったはず。しかしね、ここはほとんど使われなかったよ。
 六月頃には患者による「大政翼賛会」が組織されて、園内の丘陵地帯に横穴式壕作りをした。それまでは掩蓋壕(えんがいごう)といって、溝を掘った上に木を渡して、その上から木の葉などを被せて隠すような壕を作ってあったんだ。だがこれでは爆撃にもたないということで、横穴式壕作りに切り替えられたんだ。ツルハシ、モッコなんかを使って、患者が自ら自分たちの入る壕を掘ったんだ。
現在も残る園内の壕。人権・平和学習で中学生などがよく訪れる
画像
 一九四四年(昭和十九)の六月頃から三か月で壕を完成させたから、驚いていたよ。この頃は仕事も難儀ではあったが、それ以上に空腹が辛かった。食糧不足なので半食といって、食事も半分に減らされて、少しの芋や代用食はあったが、終日力仕事をするのにそれだけでは全然足りなかった。
 この壕掘り作業は、ひざまずいた姿勢のままツルハシで掘り進み、出てきた土は壕の入口につみ上げて「築山(つきやま)」を築いた。これは、入口は爆風よけのためだけれども、土を遠くまで運ばなくてよいので一石二鳥だった。そして、それぞれの坑道は貫通するように作られた。これは爆撃で一方の出入口が潰れても、反対側から抜け出せるように考えられていた。

壕掘り作業による負傷

 私の手に指がないのは、この壕掘り作業のためなんだ。無理に無理を重ねてツルハシを振り上げて壕を掘り続けたでしょう。またそれも土ではなくて石を割っていく作業だから、指に血豆ができて潰れるさ。抗生剤も化膿止めも何もない時代で、破傷風になってしまった。その苦しさといったら大変だったよ。傷が悪化して、四〇度以上の熱が出た。寒いどころではないんだ。治療といっても、何もなかったから、ガチガチ震えるから上から重しを乗せたりしていた。それで、菌の入った指を切ったらそれ以上ひどくはならないからね。指の傷を治すなんて考えはないから、もうすぐに切り落すことになった。
 今なら指を大事にすることを考えるが、あの時分は傷さえ治せばいいんだからね。破傷風の指を切って捨てれば終わりさ。だから、私の指がないのは、病気からではないよ。まあ、病気であったから感覚が鈍く、痛みもそれほど感じないから、怪我をしていても無理して壕掘りを続けたこと、また傷が治りにくいということはあるが、指を無くしたのはやっぱり戦災でしょう。

強制収容

 一九四四年(昭和十九)九月には、日本軍の日戸軍医を中心とした人たちが、沖縄県下から四〇〇名ほどを強制収容してきた。この時にも私がわかるだけでも読谷から三人が連れてこられていた。畑から即連行ということで、家に帰れずそのままトラックに乗せて連れて来られた人もいたそうだ。長浜、渡慶次、座喜味の人だった。だからね、戦前に読谷からこっちに来ていた人は、私が知っている分で一二、三人ほどいたんじゃないかな。
 こんなふうに友軍に無理矢理連れて来られた人からすれば、こんな人権侵害はないわけ。日本軍のやり方に反感をもつのも当然でしょう。日本軍の収容で連れてこられたのは、一回ではないよ。少なくとも三回はあった。私は収容された時の様子も見ていた。着の身着のままで連れて来られた人たちが、荷物を降ろすみたいに次々とおろされて、すぐにそれぞれの部屋に割り振って入れられていく。部屋といってもね、四畳半の部屋にね、夫婦であれば二組をいれるんだ。今からいえばこれも人権問題だよね。食堂も部屋にして人を押しこめていたからね。一九四四年(昭和十九年)には入園者が九〇〇名以上になり、収容しきれないということで、施設も建て増しされた。

十・十空襲

 壕が完成して間もなく、十・十空襲があったんだ。こちらに来てからは、私は一日たりとも何の仕事もしなかったという日はないんだ。あっちこっちでずっと働き続けてきたんだ。入ってすぐに就いた仕事は炊事。若かったしね、元気だったからみんなの朝食を作るために、朝は午前三時半から起きて、米を洗ったり料理を作ったり。七時の朝食に間にあわせて準備すると、みんなに知らせるために鐘を打って合図しよった。
 一九四四年(昭和十九)の十月十日の朝も私は朝食作りを終えて、鐘を打とうとした時に、東の空から飛行機が来るのを見たんだ。朝日に照らされて銀色に連なって来よったから「何かなー」と見ておったんだよ。初め空襲とは思わんわけさ。それがあっちこっち爆弾落としたもんだから、空襲だと気づいた。あの時見た爆撃は、運天港に停泊していた船を攻撃していたわけさ。
 あの日の空襲では、那覇辺りでは相当の被害が出ていたそうだが、私たちは、初めは空襲とは全然気づかなかったよ。ところが機銃がパラパラー、爆弾がボンボン落ちてからは「空襲警報、空襲警報」と言って大変だった。私たちは壕に逃げ込んだ。園内にもいくつか爆弾が落とされた。
 朝食を食べずに避難したものだから、ヤーサ(空腹)していてね、若者が炊事場を見にいったらね、空襲でやられたんだよ。ボイラーの煙突が立っていたからだろう。十月十日の午後からは、もう壕から出てみんなで被害の様子を見て歩いたからね。空襲そのものは朝のうち、午前中には終わっていたんだろう。
 爆弾が落とされて、園内に何箇所か大きな穴が空いていた。その爆弾穴は長らく野菜の水掛け用の池として活用していた。愛楽園周辺の海にも爆弾がいくつか落ちたんだ。

日本軍が食糧供出を要求

 この空襲で炊事場が焼かれてしまった。それからは、建物が半分焼け残っていた松舎と呼ばれた建物を利用して炊事を行った。松舎から少し上がったところに掩蓋壕があり、米を備蓄してあった。そこには六〇キロ詰めの米俵が積まれていて、入園者はそれでようやく食いつないでいた。
 一九四五年(昭和二十)三月頃、今帰仁駐屯の白石部隊から中尉くらいの人が炊事場に来ていた。彼らは早田園長に、愛楽園にある米一〇俵(六〇〇キロ分)を部隊へ供出するようにと言ってきていた。私らは作業していたんだが、その時の友軍兵と園長とのやり取りはよく覚えている。もう友軍は殺伐とした気持になっているさーね。
 何もかも不足状態の折、白石部隊も食糧を貯えておきたかったんだろう。園長としては、多くの入園者達の限られた食糧でもあるし、かといって分けないと、軍の名を借りて愛楽園入園者にどんなことするかわからないし…。軍の要求を突きつけられた園長は、判断に迷ったと思う。

壕での生活

 愛楽園の対岸、運天港には特攻用舟艇があった。上空には頻繁に日本軍の特攻機が飛んで行くのが見えた。何人かの病友で、特攻機を見上げていた時、元軍人で准尉にまでなった病友が「どうせ死ぬなら、日本軍はなんで私を特攻機に乗せないかねー」とつぶやいたことが印象に残っている。軍国教育を受けて根性も強いからね、そりゃあそう思うよ。同じ死ぬなら特攻機に乗って戦って死にたいという気概はみんなあったからね。あの当時、「特攻機に乗って行け」と言われれば行く青年はたくさんいたんだよ。
 一九四五年(昭和二十)三月末頃から、米軍の空襲がどんどん激しくなってきた。一日中、自分たちで掘った壕に入って、土の上に座ってじっとしていた。トイレにも行けないよ。ただ座っているだけ。暗い中で両隣にみんな並んでね。「敵に見つかる」と外にも出られないし、「聞かれる」といって咳もできない。壕の外は爆撃の轟音、壕の中では生きた心地がしなかった。
現在はゲートボール場になっているが、かつてここで火葬した。山を切り取って造成したので、壕の一部も見える
画像
 食糧も底をついていた。食べるものは何もないので、女性達は夜になると浜に行って、海から流れ着いたものを集めに出ていた。海藻類や魚、肉類などが浜に流れ着いていた。沈没船から色々なものが流れ着いていて、とにかく食べるものがなかったから、何でも拾ってきていた。
 その間、私たち青年はさらに壕を広げるために、密殺した牛の脂に火を灯して壕掘り作業を続けていた。顔も真っ黒にしてひたすら掘り進んだものだ。壕の中での生活は、不衛生でシラミもいっぱいだし、本当に食べ物がなかったから、栄養失調等で多くの人が亡くなった。人が亡くなると夜になるのを待って、浜に埋めにいったんだ。戦後落ち着いてから、浜に葬った方々を火葬した。

愛楽園での終戦

 四月半ばを過ぎた頃、愛楽園はひどい爆撃を受けた。そして四月二十二日に米兵が園に入ってきた。この時、園内患者の中に英語が堪能な者がいて、「ここは、ハンセン病患者の療養所だ」ということを米兵に告げた。それを聞いた米兵は、白い布に赤十字のマークを上空から見えるように書くよう指示し、すぐに無線で連絡を取っていた。その布を、現在のスコアブランド広場にある「希望と自信の鐘」がある高台に広げた。すると間もなく、米軍機からの爆撃は止まった。こうして一か月間続いた壕内での生活が終わり、愛楽園での戦争が終わった。
 だからね、戦争の悲惨さを話せと言われてもね、表現のしようがないんだよ。実際、戦争の真っ最中よりはね、その前後が大変なんだよ。生活、生きるための暮らしがきつかったんだ。食べ物も家もないという生活が続くからね。爆撃なんかは一瞬のことで、苦しむ間もないさ。これは人間の運命が左右するものであって、運が悪ければ直撃弾に当たって死ぬし、運がよければ死なないし。「人間の運命は針の穴もくぐる」とか「九死に一生を得る」という言葉もあるように、傍の人がたくさん死んでも、一人だけ助かる場合もあるし。
 「夜明け前が一番暗い」という言葉もあるように、良くなる前が一番苦しいわけさ。こっちでも戦争が終わる直前が一番苦しんでいるんだ。食料はないし、壕の中にこもっているし、体力も落ちて病気も悪化してゆくし。ここで亡くなった人たちも、この頃が多いんだ。
 あの当時は沖縄の人口六〇万くらいだったからね、戦争で死んだのが二〇万くらいだったか。愛楽園の方でもね、直接の爆撃で亡くなっているのは一人だが、一九四四年(昭和十九)から四五年の一年間で三〇〇人近くが亡くなっているからね。これだけ亡くなっているのは、やっぱり戦争のため。この時期に、読谷出身者も何人か亡くなっているんだ。
 だからね、愛楽園という所は、他県の療養所とは状況が違うんだよ。沖縄は、本土が味わっていない地上戦を経験したからね。爆撃の恐怖や無理な壕掘り作業による病状の悪化、食糧不足による飢餓、そのような状態で何日も壕内で暮らすという、苦痛を受けているからね。

戦(いくさ)は終わっても続く差別

 戦が終わってすぐに考えたのは、家族の安否さ。母、弟、妹たち、どうなったかなぁって。だから私は戦争が終わって、すぐに家族を探しにここを出たわけさ。まず田井等の収容所へ行けば話しが聞けると思った。そこで読谷の人は金武中川辺りだと聞いてね。あの時分は普通の道は通れないよ、今の国道五八号の道なんか通ったら、許田辺りにMP(アメリカ憲兵)が立っていたから。日本の敗残兵ではないかと思われて捕まるからね。羽地大川あたりから山越えで、山道を歩いて行った。山道には、そんなふうに家族を探すために山越えする人がいっぱいいた。
 山中では避難している女性たちが、家族(男)が来るのを待っていたんだよ。子どもを抱えてた母親や娘、年寄りだけでは怖かったんだ。というのは米兵がレイプするため山にたむろしていたからね。米兵も住民の通り道を分かっているから、あちこちで待ち伏せしていたんだ。だから、女だけでは恐くて、男と一緒ならなんとかなるという気持で待っていたんだよ。
 川を辿って行けば、どこかには出られるからね。私は川伝いに歩き、東海岸へ出て、中川までたどり着き、家族と再会できたんだ。幸い家族はみんな元気だったから、私はひと安心して園に戻った。
 家族は無事ではあったが、ここでも悲しいことがあったことを後で知った。ようやく収容所まできた私の家族に対して、当時の役場職員が「癩家族」ということで、同じ字の人が集まっているところに私の家族を入れなかったというんだ。その人は戦後も村民のリーダーとして人望も厚い方であったが、病気ではない家族に対して、収容先でさえ排除していたことを知り、改めて世間のこの病気への偏見の根強さを思わずにはいられなかった。そして、当事者や家族にしか分かり得ない辛さ、悔しさ、悲しみを思ったさ。

家族のため「戦果」を求めて

 終戦直後は、今帰仁運天港の横にあった米軍基地へ、ここからサバニ(クリ船)に乗って行って、食べ物を盗りに行った。「戦果」といっていたが、米軍のチリ捨て場の残飯、これは食べ残しというよりも、その日その日の献立に使うものが余ったら全部捨てていた。だから、封も切ってない食材、缶詰もたくさんあった。帰りの船は沈みそうだったよ。何でも盗ってこようという気持ちに押されて必死だったが、「人間はこんなことをしてまで生きるのか」とふと思うこともあった。
 そうして得た「戦果」を天秤棒に担いで、家族のいる中川の収容所まで歩いて何度も往復したよ。山道を天秤棒を担いで歩くから、足は血まみれになってはいたけれど、家族を助けたい思いがあったから。二十歳代前半で、体力もあったし。すでに病気もこの頃にはだいぶ良くなっていた。
 収容所は配給制だったが、ピンハネする者がいたり、恩納岳に隠れていた友軍の敗残兵が配給用の食料を盗んだりしてね、実際住民にわたるのは少なくて、全然足りなかったんだ。収容所内では、住民が自警団を結成して紐に空缶等をぶら下げ、危険があったら、棒でカンカン叩いたりしていたよ。
 戦争といってもね、爆弾よりも人間が恐かったとも言えるんだよ。あるいは、島尻ではやはり、爆撃が恐かったかもしれないがね。中部の人は国頭に逃げてきている人が多かったから、山中でも収容所でも、どうして食べて行くか、この食料の確保が大変だった。
 戦争中なんてイモ一つさえ誰もくれないよ。生命を繋ぐには自分で食料を何とかしなければ、誰かが応援してくれるとか、ひっぱってくれるとか、そんなもの無いんだよ。しかしまたね、感謝を感じるのもそんな時さ。物を与えたり、与えられて喜びを感じる、普段なら何とも感じないことを感じることができるのもこんな時だ。

読谷の物資集積所へ

 運天港の米軍基地はしばらくすると部隊が引揚げてしまった。私らは読谷にも「戦果」を求めて行った。愛楽園にも配給はあったけど、足りない時期もあったさ。あの頃、ワンフルギン(大湾・古堅)辺りにアメリカの大きな軍病院があった。その近くに物資集積場があって、食料だけでなく、衣類などにもカバーをかけてたくさん置かれていたんだよ。その情報を得て、ここから本部(もとぶ)まではクリ船で行って、そこからは夜通し歩いて読谷まで行った。伊良皆の現在の黙認耕作地辺りは「クロンボー部隊」と呼ばれていて、黒人兵がテントを張っていた。
 帰りは恩納岳の下で暗くなるまで休んでね。昼歩くとMPに捕まるので、夜になるのを待って、天秤棒に「戦果」を担いで帰ったんだ。現在の国道五八号沿いにある恩納村の農協辺り、そこにはCP(シビリアン・ポリス、沖縄人の警官)がいた。彼らに見つかると「戦果」を全部没収されるんだ。だから夜も恩納岳の山中を歩いた。しかしそこでも友軍の敗残兵に見つかると、盗られるからね、怖かったよ。だから読谷往復で三日間くらいかかっていた。
 中にはそうして通うには大変だといって、恩納村の宇嘉地にも米軍のチリ捨て場があったから、近くの空家に住み着いて帰ってこない人もいたんだ。どうせ、園に戻っても食べ物ないからね。あとで米兵に見つかってアンブランス(米軍の患者輸送車)に乗せられてこちらに戻されていたけどもね。

癒える傷と癒えない傷

 だがね、愛楽園は戦(いくさ)のお陰で苦しみもしたが、助かりもしたんだよ。それは日本本土より早く民主主義の国に出会ったことさ。戦後の米軍統治下では、焼けた施設に代わって、米軍がコンセット屋を作ってあったし、スコアブランド衛生課長が愛楽園の現状を痛まれて、どんどん軍の払い下げの缶詰などの食料や衣類を届けてくれたからね。この時期は、施設内の方が一般住民よりも食料状態が恵まれていたのではないかな。
 アメリカ統治時代は、園から外に出るのも戦前のように厳しくはなかったから。ハンセン病治療薬(プロミン)も導入されて、治療効果も上がったしね。だからスコアブランドという人に敬意を表して園内に「スコアブランド公園」が作られているわけさ。
 戦争というのは、うまくいけば逃げたり隠れたりできるんだがね、この病気だけは逃げも隠れもできんさ。家族とも別れなければならなかった。病気が治ってもそのままさ。戦争というのは実際にね、その場、戦場の渦中にいるとそんなに恐くないんだよ。生きるか死ぬか、それで頭がいっぱいでね、悲しいとか考える余裕もないさ。
 戦争の傷は時間と共に癒えるさ。私の場合、戦争の傷はもう既に癒えているさ。だがね、病気になって肉親と別れた苦しさは癒えない、癒えてないさ。親も弟ももう亡くなってしまったがね、これから世の中がどうなろうと、いつまでもワカリグリサ(別れの苦しさ)は、これだけは癒えることはないからね。
<-前頁 次頁->