第六章 証言記録
男性の証言


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座喜味の警防団長として

当山※※(座喜味・※※)大正十三年生

青年学校と青年会活動

 私は一九二四年(大正十三)生まれで、高等科二年が終わって十五歳から十八歳までの三年間、青年学校へ行きました。学校は月曜日・水曜日・金曜日の午後二時から五時までで、どんなに忙しくても行かなければなりませんでした。大湾の松田軍曹という兵隊帰りの方が教練を担当していました。銃剣術と行進、農業、カンダ(芋のつる)の船底植えや釣り針植えを習い、軍人勅諭も覚えさせられました。私は銃剣術が上手になって、当時中部地区大会が行われた農林学校で、農林学校の優等生を負かして一番になりました。
 一九四〇年(昭和十五)に青年学校を卒業すると、それからは字の青年会活動に入り、私は青年会長を務めるようになりました。青年会では奉仕作業といって、出征兵士宅の慰問や農業の手伝いに行きました。三組ぐらいに分かれて、畑を耕したり、大豆を収穫したり、カンダを植える時期になったら準備したりしました。奉仕作業とはいえ賃金もあり、男は一時間八銭、女は五、六銭もらったと記憶しています。字の役員が出勤を書き留めて、労働時間を記録し、一か月分を計算して、手間賃が支払われました。また、一組は一班、二組は二班と三班の半分とかいう具合に、担当を決めて作業にあたったのですが、毎日の働きを記録して、競い合ったのです。そして一番になった班、個人でもめざましく頑張った人には、褒美がありました。
 当時は青年会活動はとっても重要視されていましたが、こうした活動を通して団結力が高まり、助け合いが出てきたところは良かったのです。
 当時、座喜味の青年会には、自作の歌がありました。「我らは座喜味の作業団 朝は四時にて早起きて 作業に出て行く嬉しさよ 銃後の護りを堅くして 兵は戦地で銃をとる 我らは故郷で鍬をふる 果たす務めはかわるけど 同じ御国のためですよ」という歌でした。

警防団に入る

 一九四三年(昭和十八)の末頃青年学校は廃止され、各字の警防団に編入されました。役場で乗馬訓練をしたり、伝令等非常事態に備えての訓練をしていました。当時の読谷山村警防団長は比謝矼の比嘉※※さんで、座喜味は波平※※さんでした。私もしばらくすると、山内※※先生に推されて、座喜味の警防団長を務めました。
 警防団の構成員は青年会と一緒なので、青年会活動をする日、警防団訓練をする日と、日にちを決めてやっていました。警防団の講習は、兵隊帰りの人が国民学校で講習をしました。代表が講習を受けて、その人が他の人に教えるという方法で、私は嘉手納の農林学校や普天間までも行って習いました。農林学校では、教員が専門的に教えてくれました。
 防空演習は、各自がバケツを持って、「焼夷弾が□□に落ちた」という設定をもとにバケツリレーなどの防火訓練をしました。しかし私は、こんな訓練では駄目だよと反対していました。それは、ハワイ帰りの※※のおじいさんは、「はあ!アメリカーに、あんたたちがするようにしてバケツで水かけてもジョーイ通用しないよ。アメリカはデージドー、バンナイやんどー」といつも言われていたからです。しかし、上からの命令ですから、勝手に訓練をやめるわけにもいかず、私は効果があるとも思えない訓練だと分かりながら、教えざるをえませんでした。ある時、婦人会の防火訓練を指導するように言われました。当時の村の婦人会長は棚原※※さんで、座喜味の婦人会長は喜友名※※さんでしたが、私は婦人会長たちとその訓練のことで口論したことがあります。彼女たちに「指導する立場の人なんだから、これは通用しないよとみんなの前では言わないでよ」と言われました。
 また、防火といえば、防火用水は台所の甕やターグ(桶)に入れて、各家庭で準備するようにと指導しました。防火用砂は一袋ずつ置くようにということでしたが、馬車のいっぱい砂を積んで、それを庭に積んで必要になったらバケツで運ぶという方法をとる家もありました。また、火タタキというものもありました。長さ二メートルぐらいの棒の先に布をつけて、埃を払う時に使うハタキみたいなものでしたが、布部分に水を含ませて、火を叩き消すというものでした。いま考えれば馬鹿みたいだけれども、敵の情報も何もない人たちが考えたことですから、しょうがなかったと思いますね。
 灯火管制も警防団の仕事でしたが「光が漏れていますよ」と道を歩きながら大きな声で注意するだけで、光が漏れている家はすぐ消していました。これも結局は、アメリカーの空襲は昼間だったので、それほど効果はありませんでした。
 戦局も状況が悪化してからは、私たちは字事務所(公民館)に寝泊まりしていました。役場には各字から一人ずつ伝令を置いて、何かあった場合には馬を飛ばして字事務所(公民館)に行き、それからみんなに連絡するという組織でした。毎日繰り返し訓練していましたが、実際に空襲(十・十空襲)が来てみると、馬での伝令は大変難しいものでした。

土地接収

土地を接収され立ち退く人々
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 私の家は一七〇〇坪を飛行場用地として接収されたので、残ったわずかな畑では生計がたたず、飛行場建設作業に出ました。
 立ち退きの際、さとうきびは牛馬の餌として強制的に供出させられました。接収する土地には赤い旗が立てられ、何月までに作物の撤去をしなさいと命令されました。そうなると、私たちは急いで、芋は掘れる分だけはとり、大豆も収穫しました。「作物補償はするから早く収穫するように」ということでしたが、そんな急には収穫できなかったです。
 私の家は、畑が残っている方だったのであまり困りませんでしたが、食べる分が無くなって、馬車を持っている人にお願いして中城辺りから芋を買って来てもらう人もいました。またある家は、残された畑からの収穫だけでは、家族が食べる分がやっとなので、牛や馬を処分したのです。
 そして一九四三年(昭和十八)八月頃だと思いますが、読谷飛行場建設のため読谷国民学校も接収され、子供達は各字の事務所(公民館)に移され、複式学級で勉強していました。

北飛行場建設

 北飛行場の人夫には、一応日給がありました。男は一日二円四〇銭、女は一円八〇銭でした。トロッコを押して土運搬をするのですが、作業道具のショベル、笊(ざる)、鍬等は準備されていたように思います。仕事は八時から五時までで、一時間の昼休みがありました。
 一九四三年(昭和十八)から四四年にかけて、国家総動員法で全沖縄、島尻や国頭の人まで徴用されて、周囲の部落に強制的に割り当てされたようです。現場では作業班ごとに班長がいて、班ごとの競争になって、みんな一生懸命でした。
 滑走路の一番下に大きな石を並べ、その上に五分バラスとか三分バラスとかをしきならして六〇センチから一メートルぐらいの厚さに造りました。飛行機が着陸するところを厚くしましたが、それは技師が来てその厚さの指示をしたので言われた通りにやったのです。
 責任者の天野少尉は立ち話でもしようものなら、馬に乗ってとんできて、叱責を受けました。その天野少尉はすらりとしてかっこよく、若い私達は軍隊に憧れたものです。天野少尉は士官学校出身で二十三、四歳にみえました。

十・十空襲

 十・十空襲の日は朝六時に目がさめていました。最初は演習だと思い、家の庭の木に登って見ていたのですが、飛行場の飛行機も空襲を受けて炎上しているし、空襲している飛行機を見るとアメリカの星印がついていたので、演習ではないことを知り、急いで家族を避難させました。
 十・十空襲の日は、各部落から一名の警防団員が伝令として役場に行っていました。しかし、実際空襲が始まると、誰にも連絡できないし情報もきません。サイレンを鳴らす余裕もなく、みんな防空壕に逃げ込んだといいます。私の家は座喜味城跡に近かったのですが、城跡には高射砲陣地があり、高射砲は撃つには撃ったのですが、ほとんど当りませんでした。長浜の海すれすれの低空飛行でやってくるので、そこに向けて撃つと住民が危険だという隊長の指示で撃たせなかったということを後で聞きました。
 米軍は銀紙を撒いて電波を妨害していました。十・十空襲の時に北飛行場には日本軍の飛行機がありましたが、ほとんど飛べませんでした。飛んで行っても残波の先でやられるしまつでした。飛行機に向かう途中で機銃掃射でやられる航空兵(搭乗員)もいました。
 十・十空襲の後住民は、イリヌクブンやジョーガーあたりのくぼ地、あるいはトーガーあたりに移されました。

召集

 私は、十・十空襲の五日後の十月十五日に、石部隊に入隊することになりました。その日に出征する座喜味の男たちが十数名、ナーカヌカーに集められ、そこで別れました。その時一緒に召集された中で生き残ったのは私一人です。
 召集された翌日から大山の学校で訓練が始まり、三か月の訓練終了後、石部隊に配属され陣地構築等をしました。
 一九四五年(昭和二十)五月四日の総攻撃の時、私は首里の石嶺にいました。そこで足に弾を受けて負傷。それから首里の下の壕に移動しました。五月二十九日までそこで頑張っていたのですが、司令部から撤退命令が出て、皆で移動すると敵に見つかるということで、三々五々下がることになったのです。
 先頭を行く一人が、雑のうに白紙をいっぱいつめこんで、進むごとに目印として白紙を置く。白紙は飛ばないように石で圧しておく。後ろからその白紙を追いながら南部へ撤退するように、と言われました。私たちはそうやって津嘉山へ撤退したのですが、その頃からは抵抗といったってできる状況ではありませんでした。キビをかじって命をつなぐだけでした。そうしているうちに、牛島中将が死んで、残された私たちは、弾があるぶんだけ撃って死のう、ということになりました。その時に私は腹に二発、顔にも弾をうけて負傷し、摩文仁で倒れているところをアメリカの兵隊に収容されました。

病院へ収容

 目が覚めたら、アメリカーがカービン銃を持って、私の周りに立っているので、びっくりしました。そこは、南風原の陸軍野戦病院でした。「ああ捕虜になったんだ」と思ったのですが、それからはどうすることもできませんでした。
 そうして一晩はそこで治療してもらい、翌日は嘉手納飛行場近くの収容所に連れて行かれ、そこで元気な人とケガ人に分けられました。
 意識はあるのに動けなくて、このままどこかに捨てられるんだと心配していたのですが、美里(現在中頭教育事務所があるあたり)にアメリカの野戦病院があり、収容されました。私が病院内に連れて行かれると、そこにいるアメリカ人軍医が、私の捕虜カードを見て「これジャパニー、パンしなさい」殺しなさいと、冗談かもしれないけど言いました。そしたら若い看護婦さんが「お兄さんはどこの人ですか、本土ですか」と私に聞きました。「わし、沖縄よ」と答えると、看護婦さんは軍医に「これ、ジャパニーちがう、沖縄よ」と言いました。すると軍医が「沖縄のどこか」と聞いてきました。私が「読谷」と答えたら、すぐわかったみたいで、手を少し広げて飛行機の真似をして「ブーン」と言ったのです。軍医は「友だち、あなたは友だち」と言って、私は怪我をしているのに、手をつかまえて握手してきました。すこし困ったのですが、でも良かったのはこの軍医が、「この人はこんなに怪我しているから、あなた方が朝来た時には、この人の包帯から先に替えて、治療しなさい。そして帰る時にも、この人の傷を看てから帰りなさい。ジャパニーは一回でいいから、この人は二回治療しなさい」とそんな風に優遇してくれたのです。あの病院には沖縄の兵隊はほとんどいなかったからだろうかと、自分では考えています。石部隊から生き残った沖縄の者は、私ひとりしかいません。一八〇〇名の部隊から、大阪の服部という人、三重県のキタズミという人、私の三名しか生き残ることができなかったのです。だからなのか、病院では非常に大切にされたのです。歩けるようになって屋嘉に移ることになりましたが、その日は看護婦さんも、アメリカの軍医も表まで出て、「バイバイ」と私を見送ってくれました。
 私はお腹に二か所弾を受け、足にもまだ弾の破片が残ってますが、それでも運が良くて、一センチでも横にずれていたら、死んでいたでしょう。幸いにして、生きのびていますが、片耳は戦場の爆撃で聞こえなくなりました。

屋嘉収容所

 治療して元気になり、歩けるようになると今度は屋嘉の収容所に移されました。収容所にいる間に情報が入ってきて、家族のいる人や身元引受人がいる人は、一般住民のいる収容所に行けることを知りました。そして、妻が宜野座にいるということを聞き、一九四六年(昭和二十一)二月頃宜野座に行きました。座喜味の人や知り合いに、母や姉(波平※※)一家のことをたずねても消息はわかりませんでした。自分は生きて帰って来ているのに、親兄弟の消息が分からず、どうしても親を探したいということで宜野座、久志、古知屋、明治山、許田、名護を通り巡査に止められ質問されると「私は戦場から帰り、このように包帯を巻いている状態だが、親兄弟を探すために歩いていて、怪しいものではありません」というふうに言って探し歩きました。ケガをして杖をついて歩くような状態でしたが、どうしても探し出したかったのです。
 誰に聞いても家族の消息がつかめず、あきらめかけていましたが、大宜味村からは部落ごとに事務所をたずねて名簿を調べ、それになければ墓場(墓地)に行って家族の名前が書かれた墓標がないかどうかを調べて回りました。根路銘部落の入口に来た時「波平※※二才死亡」と書かれた甥の墓標を見つけ、そこの事務所に行ったら、農林学校出身で、姉婿である波平※※を知っている人がいて、その人が家族の消息を教えてくれました。
 夜は山の中にいて昼は部落を回り、家族を探しあてるまで一週間ぐらいかかりました。根路銘でやっと家族と再会できました。塩屋に憲兵隊長がいて、「私の家族はこちらにとり残されていますから、私は宜野座に復員しているのでそこに連れて行きたいんですが、何とか車に乗せてもらえませんか」と頼むと二世の通訳を通じて「OK」という返事がもらえました。その二世の世話で、根路銘から宜野座へ家族を移しました。その時は三月の末頃になっていたと思います。
 宜野座に移りだんだん落ち着きを取り戻し、母の体力もついてきました。
 その頃は巡査になるのは簡単だったので、最初は巡査になりましたが、地区の衛生課長だった都屋の島袋※※さんが「巡査するより衛生課に移った方がいいよ」ということで宜野座地区の衛生課に書記として勤務していました。

読谷に移動

 金武・宜野座から読谷に戻る頃、座喜味の人達はもとの部落には入れず、ほとんど波平に移動していましたが、私達が読谷に移動したのは遅い方だったので、私達は高志保に移りました。
 それから座喜味のトーガーに移動しました。その当時の区長(当時は旧字代表と呼んでいた)は※※(屋号)の松田※※さんで私は書記でした。※※さんは戦後初代の字代表で、その頃は字事務所もなかったので、一軒の家の半分が字事務所になっていました。
 移動が完了してから茅ぶきの家を造り、そこで※※(屋号)の宇座※※さんが二代目の字代表になりました。
 書記をしていた当時の戸籍は、間違っているのもあるかもしれませんが、本人の申請通りにしました。座喜味に移動してくる人がいると役所に申告をして配給を受けるような仕組みだったので、まず字事務所に登録して、書記が区長を通じて役所に登録し、配給を受け、家も割り当てられました。
 標準ヤー小(標準住宅)一軒の割り当ては七人を基準にしていました。六人以下の家族は一軒に二世帯、七人以上の家族だったら一所帯入れるというふうにしていました。みんなで造った家だから、みんなで割り当てして入りました。その当時は誰も文句を言う人もなく、みんな家族のように暮らしていました。芋掘りに行くのもみんな一緒に行き、掘ってきた芋は一か所に集め、みんなで分け合ったものでした。
 だいたい落ち着いてきた頃、畑も人頭割りで分けました。はじめは一人あたり三〇坪程でした。くい打ちのためのげんのうを持って行き、班長も一緒に、端から「はい、※※(屋号)は五人いるから一五〇坪」というふうにして分け、田は一人一五坪ずつの割り当てでした。その時、その仕事に携わったのは松田※※、宇座※※、それに私の三人でした。
 当時は軍作業で戦果をあげるのに一生懸命で、字の仕事をしていると友達は「煙草一ボールが二五〇円もするのに一二〇円の手間賃でそんな仕事をしているのか」と笑われたのですが、「戦からも生き残ってきているのだからみんなのために」と思っていました。しかし、集会をもつために酒を買うと水筒一本分で八〇円もしたので、その工面をする妻はかわいそうでしたね。そんなこんなで字の仕事が続けられなくなり、軍作業に行くようになりました。後任は比嘉※※さんがなったと思います。
(一九八九年七月十三日採録分に、二〇〇二年九月の調査分を加筆した。)
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