第六章 証言記録
男性の証言


<-前頁 次頁->

家族とともにヤンバル避難

阿波根※※(古堅・※※)昭和十年生

一九四四年(昭和十九)の十・十空襲のころ

 一九四四年(昭和十九)当時、私は九歳で古堅国民学校の三年生だった。学校では毎日、古堅のフンシモー(風水毛)のあるイーチの山グヮーまで、両手の指で耳をふさいで逃げる訓練をしていた。耳をふさぐのは、爆風から耳を保護するためと言っていた。この山には、日本軍の掩蔽(えんぺい)壕が掘られていた。まもなく、校舎に軍隊が入ってきたので、児童はみんな、字事務所や大きな屋敷などで勉強した。私は、古堅のアシビナーで勉強したり、歌を歌ったりした記憶がある。
 十月十日の大空襲のとき、読谷山(北)飛行場は爆撃された。その日の早朝、まだ学校に登校する前に、南西方面から戦闘機が編隊を組んで来た。「今日の演習は規模が大きいな」と言いながら、私たちは家の前の桑畑の中で見ていた。日本軍の演習と思っていたら、戦闘機の様子が全然違うので、慌てて防空壕に逃げた。防空壕は屋敷の東南端のバナナの木の下側にあった。
 十・十空襲の後だったと思うが、校舎には傷病兵がたくさんいた。私は、学校の近くの店にお使いに行かされて、学校の前を通るとき、「病気がうつる。空気伝染する」と言って、息を止めてパーッと走って行ったのを覚えている。

食べ物をねだる兵隊

 古堅の民家にも兵隊がたくさん入っていたが、私の家にはいなかった。当時、父は区長をしていたので、それで兵隊が入っていなかったのではないかと思う。よく、比謝川沿いに居た暁部隊(陸軍)などの兵隊たちが、私たちの家に食べ物をもらいに来た。腹を空かせた兵隊たちは、階級の高い人も低い人も、いつも「芋くれ」とかなんとか言っていた。母は、よく、蛸を取ってきて干していたので、それを切って、芋と一緒にあげていた。私の家では、ほとんど毎日、豆腐を作っていたが、作っている最中に兵隊が来ると、中には、臼を回すのを手伝ってくれる人もいたらしい。
 また、たびたび兵隊が直接家まで来て、父に「何々を供出しなさい」と言ってくるので、父は大変そうだった。あるとき、軍刀を下げた偉い兵隊が父と話しているところに、階級下の兵士が、いつものとおりヒンプンから曲がって入って来たが、上官を見てびっくりして、「失礼しました!」と言って敬礼してパーッと逃げ帰ったことがあった。

ヤンバル避難

 一九四五年(昭和二十)になって、ヤンバルに避難するように言われたとき、父は字(あざ)の人たちと協議して、誰から避難するかという順番を決めたそうだ。誰も先に行きたがらなかったので、「区長の家から率先して行かんといけない」と、父に言われたとき、私は友達と別れるのは寂しいから避難するのはいやだと思ったが、父には逆らえなかった。
 それで、私たち区長の家から真っ先にヤンバルに避難することになった。何日だったか記憶にないが、次兄の※※(昭和五年生)は三月二十三日に予定していた卒業式をやってないので、米軍が上陸する直前ではなかったかと思う。
 ヤンバルへは、まず、母と次兄※※と※※(昭和十五年生)と※※(昭和十二年生)と※※(昭和十九年生)と私の六人が先に行った。父は区長として、字民を避難させないといけない立場だったので残り、祖母(慶応四年生)と弟の※※(昭和十七年生)も一緒に残った。
 当時、長兄の※※(大正十二年生)は兵役で台湾に行っていたので、長兄嫁の※※(大正十二年生)は娘(昭和十九年生)とともに実家で暮らしていた。姉の※※(大正十五年生)と※※(昭和三年生)は本土の紡績工場に行っていた。
 私たちは、屋号※※の比嘉※※の荷馬車に荷物を載せてもらって、歩いて行った。母は乳飲み子の※※を負ぶっていた。私と小さな子どもたちは、途中で眠たくなって、荷馬車の後ろにちょっと乗せてもらった。古堅を出発したのは夕方だった。ちょうど夜が明けてきたころ、空爆があったので、荷馬車を止めて、飛行機が通り過ぎるまで、墓に隠れていた。十・十空襲のときの恐怖心から、今度空襲が来たらやられると思っていたので、上空でゴーッと音がするとすぐに隠れた。誰かがやられたという話は聞かなかった。海に機雷が浮いているのを見たこともあった。
 名護から本部に行く道と国頭に行く道に分かれている所で、右側の道に行ったのを覚えている。避難地は字ごとに割り当てられて、古堅は鏡地に指定されていたようだが、どういうわけか分からないが、私たちは比地に行った。

比地の避難小屋での生活

 比地では避難小屋に入った。避難小屋は私たちが行く前にすでに作られていたが、床もない、竹を敷いただけの簡単な小屋だった。長屋みたいになっていて、竹で仕切られていた。一家族に四畳半ぐらいだったので、寝るのもやっとだった。避難小屋は何所帯あったか分からないが、後から来た人たちは、その避難小屋さえもなかった。

画像
村民の避難先国頭村奥間、比地を訪ねた字高志保のみなさん(1993年4月30日)
画像
 私たちが比地に着いて二週間ぐらいして、父たちが来た。父は※※を負ぶって、馬を引き、祖母と一緒に歩いて来た。そのころから、避難民がどんどん比地にやって来て、古堅の人もいっぱいになった。後からは、渡具知や大木の人も来ていた。
 比地に行ってから配給があったかどうかは覚えてない。私たちはトーマーミ(蚕豆)の葉っぱを乾燥させたのをいっぱい持ってきていた。母が、避難する前から、豆の先端の若い葉っぱを干して袋に貯めておいたものだった。ラード(豚脂)も味噌も壷に入れて持って行ったが、味噌はすぐになくなった。だんだん食料もなくなってくると、乗ってきた馬も潰して食べていた。
 避難民がたくさん来ると、地元の人たちの食料も少なくなるので、普段なら豚の餌にするような小芋をもらって食べていた。地元の人たちは、山仕事をしていたので、道で出会うときもあったが、挨拶しても知らん顔されることもあった。地元の人たちにとっては、寛大な気持ちはあっても、自分たちの生活を侵され、食料を取られてしまうという危機感があって、そんなこともあったと思う。
 父たちが来て間もなく、比地にも戦火が及んだ。昼間は日本の兵隊がやられるのを見たし、夜はサーチライトを当てられて飛行機が落とされるのを見たことがあった。避難小屋は森の中にあったから、直撃されることはなかった。海岸方面で戦火が上がったと聞いて、松の木に登って見ると、米軍の船で海が真っ黒だった。それが、夜になると陸地の方に近づき、昼になると離れるという感じだった。実際に上陸したかどうかは分からないが、見た感じで、そんなことを繰り返しているふうだった。そんな感じを受けて二、三日後だったか、あるいは一週間たってからか、トンボ(偵察機)が飛んで来るようになった。その後で、艦砲弾が飛んで来るようになった。私たちが居た所には落ちなかったが、トンボが来たら見られないようにと隠れた。
 比地の避難小屋に居るとき、池原※※(大正六年生・一九四五年五月三十日名護で行方不明)が日本兵に連れられて行って、帰らなくなったと聞いた。その人は殺されたのかどうか分からなかったが、それからみんな怖がるようになって、「ここに居たら危ない」と言って、その避難小屋からみんなばらばらに逃げた。
 私たちは、父が※※(池原姓)の人と相談して、別の場所に避難小屋を作って移った。水を汲むのに便利なように、川の傍らに木や竹を切ってきて立てて、茅で覆っただけの簡単な小屋だった。そこに二家族が一緒にいたが、そこにも一週間ぐらいしか居なかった。その時までは、まだ、持ってきた食料が残っていた。芋を輪切りにして乾燥させた物や、豆の葉っぱなどは覚えているが米のご飯はなかった。私は、よく、イチュビ(野苺)やクービ(グミ)、ヤマモモ(楊梅)、シイ(椎)の実などを取ってきて食べた。

どうせ死ぬなら読谷山でと

 その頃からは、ヤンバルにも米兵が攻めて来たので、「もう、みんな殺されるんだ」と思っていた。それで、「どうせ死ぬのなら、ここで死ぬよりは自分の生まれた所に行って死のう。読谷山に帰ろう」と言って、山の尾根伝いに読谷山の方向に動いていった。移動する時は、山の地理が分からないので、地元の人を案内人に雇った。※※の※※さんのお母さんがヤンバルの人だったので、みんな頼りにしていた。この時は大きな集団ではないが、古堅の人も大湾の人も一緒だった。「読谷山に行って死のう」というのは、誰かが言い出したのではなく、みんな個別に移動していたので、誰かが動くと、自然にみんなこれに付いて行くという感じだった。そのときからはもう小屋も何もなかった。
 逃げる途中、ずっと雨が降っていたのを覚えている。二、三回は、自然壕を手直しして入ったこともあった。竹を編んで雨避けにしたこともあった。それもできないようになって、ただ竹を曲げて、その下にいたこともあった。そういうふうに、避難場所をどんどん変えて、日々移動していた。最初は昼間も歩いていたが、トンボがたびたび来るようになってからは、昼間は隠れて、夜に行動するようになった。
 当時、祖母は七十代後半の高齢だったので、元気付けに、柔らかい練り状の黒糖を持たせていた。祖母は、それを持っているということを楽しみにしていて、疲れて辛い時にはそれを嘗めて元気を出していた。これは祖母の専用だからと、子どもたちは誰もそれを食べようとはしなかった。それが、比地から読谷に向かって移動している途中のことだったが、ある夜中に盗まれてしまった。祖母はショックで気力を失ってしまった。
 いつもただその辺の道端に寝るものだから、母も、もう何も作る気力もなかった。食べる物もなくなって、栄養もないはずのヒグ(ヘゴ)のドロドロしたのも食べた。私たちにはラードがちょっとだけ残っていた。雨が降って火も焚けないので、父親が指で、そのラードを一人ひとりの口の中に塗りつけてくれた。それを、みんな、「おいしいなあ、おいしいなあ」と言って、嘗めていた。そのラードも、もうこれで最後という時に、いつの間にか壷ごと盗まれてなくなっていたという。

子どもを捨てろと言われた母

 私たちの家族では、母に負ぶられている赤ん坊の※※が泣くし、弟の※※が歩き疲れて泣くしで、みんなの邪魔になるからと、集団の最後尾からはるかに遅れて歩いていた。父は前を行く集団の後尾についていて、みんなが休憩すると、迎えに来た。そうしないと、弟妹たちの泣き声で敵にやられるという危険性があった。※※は満四歳ぐらいだったが、馬肉のカジ(首筋)肉を持たされて、疲れてお腹がすくと、それをかじりながら歩いていた。
 当時、母は四十歳代だったと思うが、背中には赤子を負い、弟の手を引き、頭には荷物を載せていた。それで、下りの時は荷物を下に投げていた。そうして、母は荷物を取りに木をつかまえながら下りて行った。上り下りの多い所を、草や木の枝を折り曲げながら道なき道を歩かされて、子どもが泣くと、母は、「イッターヤ、クヮン、シティウーサンルアルイ(あんたたち、子どもを捨てきれないのか)」とか、「あんた方がついてくると、こっちまでやられるから離れなさい」と言われたこともあった、と後日話していた。

読谷山に向かって

 読谷山に向かって行く時は、どのコースを辿ったか分からないが、オーシッタイ(大湿帯・東村)という地名だけは覚えている。ちょうど雨期に入っていて、どしゃぶりの雨が降っていた。私の家族は、そのときまで蒲団を持っていて、子どもたちだけ蒲団を掛けていた。
 次兄の※※は、ヤンバルに避難するときからずっと蒲団を担いでいたが、雨を吸って重たくなったので、「ワーッ」と泣き出した。それで、父が「じゃあ、捨てなさい」と言ったので、蒲団を崩して、綿だけでも頭に載せて雨避けにしようとした。蒲団は久志辺りまで持っていたかも知れない。
 父は区長ということで、軍から鉄兜を支給されていたが、「軍隊の物を預かっているんだから、後で返さんといけない」と言って、それを被りもしないで、とことんまで大切に持っていた。終いに、父はみんなから「捨てろ、捨てろ」と言われて、鉄兜を捨てた。
 とにかく食べるのがなかったので、腹がへってしょうがなかった。ある時、みんなが休憩している時に、私はヤマモモ採りに行った。竹籠のいっぱいヤマモモを採って、山から下りてきたら、みんなはもう出発していた。私は、その籠を持ったまま、泣きながらあっちこっち走った。そしたら、私がついて来ないのに気付いて、※※兄が迎えに来てくれた。兄は、大声で泣いている私の手を引っ張って、急いで連れて行ってくれた。その場所はどこだったか分からないが、読谷に向かっている途中だった。そのときは、楚辺やあっちこっちの字の人が混ざって歩いていた。
 恩納村の仲泊辺りでのことだった。夜、行動しているので、米軍の電話線か何かが張られているのを知らないで、ある人が、持っていた天秤棒の先についている鉤(かぎ)で引っ張ってしまった。そしたら、バリバリバリーって音がしたので、みんなやみくもに逃げたり伏せたりした。私もダーッと走って、暗い茂みに逃げ込んだとたん、崖から落ちてしまった。ストーンと落ちた所が大きな道だった。恐くて、泣きながら道の真ん中から歩いていると、向こうからジープが一台、ライトを照らして近づいてきた。ジープは遠くから近づいてくるのだが、恐怖心ですぐそこにいるような感じだった。びっくりして、道端のススキの中に隠れてじっとしていた。ジープが通り過ぎると、また道に出て泣きながら歩いていた。その時も※※兄が飛んで来て、連れ戻してくれた。
 石川近くの低い山でのことだった。みんなが休憩している時に、私は、田芋を取りに行った。そしたら、田んぼの中で米兵に銃撃された。バリバリバリーッと機銃の音がして、田んぼの中でピチピチピチと水しぶきが上がったので、私は田芋の間で横になって隠れていた。「ここにいては危ない」と思って、川の中に飛び込んだ。川だと、草が茂っているので外からは見えないという考えだった。川を伝って、ようやくみんなの所にたどり着いたと思ったら、祖母と出会った。

家族ばらばらに

 私が一人で田んぼに行っている頃、みんなは米兵に取り囲まれて、集団で収容されていた。当時は、「米兵に捕まえられたら虐殺される」という話だったから、「みんな、もうやられるねえ」と思っていたという。ところが、祖母は怖さのあまりなのか分からないが、ちょっと行った田んぼの傍から、自分だけ逃げ出したのだ。ちょうどそのとき、私は祖母と出くわしたわけだった。私が、「こっち、こっち」と言って、父の所に行こうとすると、祖母は、「年寄りはこっちから逃げなさいと言いよった」と言って、行ってしまった。それで、私は父の所に行った。
 その時、父は母に祖母の後を追って行くように頼んだのだと思う。祖母は高齢で、衰弱していて、よく歩けない状態だった。そのまま一人にさせたら死んでしまうかも知れないから、誰かがついて行かないといけないが、男が行くとやられるから、子どもを背負った女だと大丈夫ではないかという判断が、父にはあったのかも知れない。
 母が※※を背負いながら祖母の後を追いかけて行くと、今度は、弟の※※と妹の※※が、母を追いかけて行った。その時、米兵は大人を監視していたが、おもに戦闘できそうな人に気を配っていたそうだ。子どもや、子どもを背負った女にはあまり気を配っていなかったが、母と弟妹たちが逃げたので、米兵は後から発砲した。米兵は殺すつもりではなく、次々に逃げられないようにと、警告の意味で撃ったのだろうと、後で聞いた。
 祖母と母と弟妹たちが行った後、※※兄が私に、「食料調達や何やかやするのがいないから、おまえ行け」と言ったので、私も後から母たちを追いかけて走って行った。兄は身体が大きくなっていたので、逃げたらやられる恐れがあったから、私を行かせたのだと思う。
 その後、父と※※兄と弟の※※は、みんなと一緒に米軍に収容されたそうだ。それで、ここで家族が別れ別れになってしまって、それから一か月以上はそのような状態が続いた。

久保倉敷の民家を転々

 父たちと別れた後、私たちは久保倉敷(クボークラシチ)まで逃げて、空いている民家を転々とした。その時は、父も兄もみんな撃ち殺されたと思っていたので、もうあまり恐怖心はなかった。遠くで米兵のジープが行き来していたが、撃ち殺すんだったら撃ち殺してくれという気持ちだった。
 久保倉敷には、爆撃を免れた大きな家があった。家の人は誰も居なかった。母屋はめちゃめちゃだったが、アサギ(離れ)はどうもなかったので、そこに入った。食料は何もなかったので、その晩はサトウキビを食べた。父たちと別れてからは、私がみんなの食料調達係だった。翌朝、あっちこっち食料を探して歩き回っていると、庭の隅に土がちょっと盛り上がった所があった。掘ってみると、塩漬け肉がいっぱい入った甕があった。庭の横にはパイナップルが植えられていて、あの時、初めてパイナップルというのを見た。「これだったら、だいぶこっちに居れる」と思っていたら、二日目に米兵が来て、ぱっと、私たちに銃口を向けた。
 あの時、米兵は敗残兵狩りをしていた。米兵達は家捜しをしたが、敗残兵は居なくて老女と子どもたちだけだったので、何もしないで帰った。あの時、母はやつれて人間の顔ではなかった。子どもを一〇名産んで四十歳を越えていた母は、痩せて目もぎょろぎょろして、風呂も入ってないので色も真っ黒だった。
 「これではいけないなあ」と思って、間もなく次の家に移動した。その時から、祖母は足が膨れて歩けなかったので、母が祖母を負ぶり、私が乳飲み子を抱っこして行った。母も「足が痛い」と言いだして、次に移動するときは、私が祖母を負ぶった。私は九歳だったが、「おばあさん、軽いなあ」と思った。祖母は栄養失調で身体もむくんでいて、指で押すと、そのままへこんだままだった。
 二番目に入った民家も大きな家で、小高い所にあった。その家のずっと下の方には田んぼがあって、稲が実っていた。それを見て、祖母が、「米が欲しい」と言いだしたので、母と一緒に稲刈りに行った。この家にも米兵が踏み込んで来て、「煙草を吸いなさい」とか、「ガムを噛め」などと、母にすすめたが、子どもが「ウワーッ」と泣きだしたので、諦めて帰っていった。そこにも二、三日しかいなかった。その時まで、自分たちだけだったが、「もう、みんなと一緒に住もう」ということで、他の人々がいる所に引っ越した。
 三番目に入った民家は、山を背にして建っていて、近くに川があった。母屋にもアサギにも人が居たので、私たちは馬小屋か牛小屋かの畜舎に入った。何も食物がなかったので、豚小屋の上になっていた葡萄を食べた覚えがある。
 この家には二〇日ぐらいいたと思う。祖母が動けなくなって、もうここに居ないとしようがないようになっていた。
 祖母が、「チンボーラー(小さい巻き貝)が食べたい」と言い出して、私は川にチンボーラーを取りに行った。川の名前は分からないが、田んぼの横の小川だった。チンボーラーを取った後、水が澄んでいたので飲んでいると、後でカサッと音がした。振り向くと、黒人兵が立っていた。向こうもびっくりして、ぱっと銃を向けた。私がびくびくしていると、黒人兵は、「これ飲めるか」というしぐさをした。「うん」と答えると、「汲んでくれ」というしぐさをした。それで、チンヌク(やつがしら・サトイモの一種)の葉っぱを丸めて、水を汲んであげた。黒人兵はそれを飲んでから、「行け」というしぐさをした。私は、後から撃ち殺されないかと、びくびくしながらチンボーラーを持って帰った。母にそのことを話すと、「もう、あんまり行かん方がいい」と言った。でも、このチンボーラーを食べてしまうと、次に食べるのがないから、結局また、チンヌクを掘って来たり、逃げた子山羊を捕まえて来たり、米兵が撃ち殺した牛の頭を持って来たりした。
 それから、壕の中には日本の兵隊が置いていった食料があるのではないかと思って、壕を探し歩いた。乾パンを見つけてきて、お汁の中に入れて膨らまして食べたり、金平糖を見つけてきて食べたりした。
 三番目に入った民家の母屋には若い女性が二人ぐらいいた。今思えば十代ぐらいだったと思うが、私たちがいた畜舎からは、ちょうど真向かいにいたので、こちらからはよく見えた。そこに、昼間、米兵がやって来た。すると、若い女性たちは家を飛び出して後方の山に逃げ、それを米兵たちが追いかけて行った。若い女性たちが嬌声(きょうせい)を上げて走っていったのを見たが、それがなんなのか、私には分からなかった。彼女たちは米兵から物をもらったりしていたから、私たちにもお菓子などを持って来てくれたり、母にチューインガムをあげたりしていた。
 ここでは、昼は米兵が廻って来るし、夜は髭をボウボウ生やした日本兵が食料を求めてやって来るということがたびたびあった。ある夜、その米兵と日本兵が出くわして銃撃戦になった。私たちがいた畜舎を挟んで銃撃戦をした。日本兵が逃げて行ったが、後はどうなったか分からない。

祖母の死

 そのような生活をしていたが、とうとう祖母が被害に遭ってしまった。親たちはヤンバルに避難する時、ある程度のお金を持っていったそうだ。それを、祖母に持たせていたら安心だと思ったのか、あるいは年寄りを安心させるためだったのか分からないが、日の丸の旗に包んで、祖母のお腹に巻いていたそうだ。
 ある時、米兵がそれに気づいて、祖母から日の丸とお金を奪い去ってしまった。そのことに祖母はすっかり落ち込んでいた。
 そのころ祖母がまた、「山羊が食べたい」と言い出したので、近くの家に山羊の肉があると聞いて、私が頼み込んで一杯貰って来て食べさせた。それが体に毒だったのか分からないが、とにかくすっかり栄養失調に陥っていたのではないかと思う。お金を取られたのと、山羊の肉が当たったのと両方からんで祖母の死期を早めたかも知れないと思う。祖母は、あの時点でもう衰弱して生き延びることはできなかったと思うのだが、残念でならない。
 祖母が亡くなっても、葬ることができなくて困っているところに、北谷郵便局の人が三人通りかかった。局長さんと、あと二人だったが、「兵隊に間違えられて危ないから、こっちにちょっと居らせてくれ」と言って、私たちの所に一緒にいた。民間人と一緒にいたら安全だといって、井戸の所に隠れていた。それで、母が、「親を亡くしてしまって、葬らないといけないけれども、女子どもだけではできないので、穴を掘ってくれないか」と頼み込んだ。すると、郵便局の人たちは、「あんたが昼ご飯を準備してくれるなら、やりましょう」という条件を出したそうだ。その頃は、男が出歩くとやられるが、女は大丈夫だったので、母は「なんとかしましょう」と、それに応じて食料を調達した。その人たちが穴を掘っている間に、母は食事の準備をした。
 そして、掘られた穴に祖母を入れて、みんなで小石を添えて、儀式みたいなことをしてから埋葬した。埋めた所に印として、穴を掘るために切ってあった松の木を立てておいた。あっちの松から何歩、こっちの松から何歩というふうに、松の木を削って印をつけておいた。その時、郵便局の人たちは香典代として十円置いて行った、と後に母は話していた。
 郵便局の人たちは、私たちと別れた翌日、捕虜になったと戦後になって聞いた。

投降

 祖母の死の前後から、私たちがいた地域にも、いったん石川に収容された人たちが、壕をあさりに来ていた。収容されても食料は全員にいきわたるほどなかったので、収容所を抜け出して芋掘りに行ったりして、みんなで分けて食べていたそうだ。当時は、壕の中にいろんな物資が隠されていたので、そういう人たちが、私たちがいた近くの壕にも物資を探しに来ていたのではないかと思う。そういう人たちから、母は、石川には避難民がたくさんいて、読谷の人もいっぱいいるという話を聞いた。そういう情報があったので、少し安心感もあって、母は石川に降りる決心をしたと思う。その時は、祖母が亡くなって、自分たちだけだったので、母は、子どもたちを引き連れて、今の伊波小学校辺りをとおり、東恩納の大きい坂を下って石川に行った。
 途中、水がいっぱい溜まっている掩蔽壕に、一〇人ぐらいの日本兵が死んでいるのを見た。兵隊は、みんな軍服がはちきれるぐらいパンパンに膨らんで浮いていた。それから、道の傍のコンクリートの上に頭蓋骨が三個並べられていたのが印象に残っている。
 石川の入口にさしかかると、沖縄人の警察官がカーキー色の服を着けて、「おいでおいで」と手招きしていた場面も印象に残っている。
 私たちが隠れていた民家から石川まで歩いて、かなりの時間がかかったと思う。昼間、大通りを歩いて行った。その時は、何も怖いものはなかった。トラックも通っていたが、全く私たちに気を止める様子もなかった。その頃は、戦闘は終わっていたと思う。終戦というのは聞いた覚えがないので、私たちが収容されたのは、七月か八月頃だったと思う。

石川収容所から読谷へ

 石川の収容所に行くと、まず一時避難所みたいな部屋に放り込まれた。その時は、父たちの情報は全くなかった。そこでは、出身地を聞いて、どの辺にはどういう人たちを収容すると決めて、身内の者が会えるように配置していたと思う。おそらく、父たちが私たちを迎えに来たのではなかったかと思う。収容所に行って、父と※※兄と※※に会うと、みんな肥えていたのを覚えている。父たちはもう、てっきりやられていると思っていたので、石川で会えるとは思いもしなかった。
 父たちは、当時の石川九区九班の伊波さんという人の家にいた。最初は、その家の馬小屋に入っていたが、後に、井戸の横に木材で破風(ハーフー)の小屋を作り、テントで屋根掛けしてあった。母屋にも離れにも避難民がたくさん入っていた。小屋掛けしたのは、私のところと池原※※さんのところだけだった。
 その家には、他に古堅の※※(屋号)、池原※※さん、池原※※さん、※※の産婆のおばあさん、私たちを比地まで馬車で送ってくれた※※の比嘉さんの家族などがいた。同じ班に父の妹の家族もいた。豚小屋の上には、喜名の※※の松田さん、母屋の後ろには、山内※※さん親子、宮古出身の儀保さんという人もいた。母屋の中心には、家主の伊波さんが居た。※※のお父さんたちや※※のお父さん、※※の伊波※※さんたちも一時期滞在していたという。もう一つの屋敷にも、三〇名から五〇名ぐらいいたと思う。私たちの家族だけでも相当数いた。後で、※※兄夫婦も帰って来た。内地から姉の※※と※※も帰って来た。※※は二か月ぐらいいて、すぐに嫁いでいった。そこには二年か三年ぐらいいた。
 ※※兄と私は、家族より三か月か四か月ぐらい先に読谷に行って、農地を開墾した。一か月ぐらいは、石川から芋のツルを担いで行って、大木の開墾地に芋を植えて帰ったりした。芋ができたら、こっちに来ようという考えで、何度も芋のツルを担いでいって植えた。帰って来るのは、夜の八時頃だった。父は配給係だったが、暇な時には父も一緒に行った。そうやって、ようやく私たちは読谷に帰って来ることができた。
 戦後、祖母の七年忌頃に、私たちは遺骨を掘り起こしに行った。立てておいた松の木片は全く残っていなかったが、印をつけておいた松は残っていた。遺骨を埋めた所を、あっちの松から何歩と計って掘っても遺骨がなかなか出てこなくて困った。何度か、あっちこっちと掘り返して、ようやく遺骨を掘り出すことができた。現在、そこは倉敷ダムの底に沈んでいる。〈寄稿〉
<-前頁 次頁->