第六章 証言記録
男性の証言


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防衛隊員として

伊波※※(伊良皆・※※)大正十年生

迫り来る戦雲

 一九四一年(昭和十六)、私は農業をしていたが、徴兵検査を受けたら第二乙種で合格した。翌一九四二年(昭和十七)の六月二十日頃に熊本の西部二十四部隊に教育召集された。一か月後に同期の者たちは戦地へ行ったが、私は新しく教育召集されてやってくる者たちの教育係に選ばれたため、さらに一か月を熊本で過ごし、それを終えると沖縄に帰ることができた。
 沖縄に帰った私は、読谷山村産業組合の書記をすることになった。その後、一九四三年(昭和十八)だったと思うが、役場の農会と産業組合が合併して「農業会」になって、事務所が役場内に設置となったので、私も役場へ通勤することになった。仕事の内容は、食料配給のための取り扱いや民間への配給だった。
 伊良皆のアシビナーの近くの河原で球部隊が炊事をしていたが、そこで働く徴用人夫は私の家を事務所にしていて、楚辺や大木辺りの女性たち五人ぐらいがうちに通ってきていた。また、同じく炊事場で働く球部隊の兵隊二人が私の家に寝泊まりしていた。一人は伊藤上等兵という名であったが、もう一人は覚えていない。私はこの二人と年齢が近かったので、一緒に酒を飲んで話したりして、とても仲良くなった。彼らはある時、いつものように酒を飲んでいると、しんみりとした様子で「沖縄の土となって来いと言われて送り出されたけど、二十一歳で死ぬのは辛いな」と言ったのが可哀想だった。彼らは私に「あんたたちは自分の土地で死ねるんだからいいな」とも言っていた。

十・十空襲とその後

 十・十空襲の日は、朝早く飛行機の大編隊が機銃掃射をしながら飛行場に向かっていた。家にいる兵隊に「これは空襲じゃないか?」と聞くと、その兵隊は「演習じゃないか」と言ってびくともしなかった。私はそうかな?と不審に思っているうちに飛行場が爆撃されて真黒い煙が立ち上がった。それで空襲だと分かった。
 私は職務上、緊急事態が起こったら役場へ行かなければならなかった。途中、馬が機銃にやられて倒れているのを見た。
 役場へ着いてすぐさま書類を近くの壕に運び、近辺を見回すと、喜名大通りは火の海になっていた。
 夕方五時ごろには空襲がおさまり、それから二、三時間後には北部へ避難する那覇からの避難民が道にあふれていた。役場職員は、近くの読谷山国民学校で避難民が身体を休められるように、椅子を教室の外に出すなどして、大急ぎで受け入れ準備をした。避難民たちはあたりに疲れて倒れていた。さらにその翌日から二、三日続けて道は避難民でごった返していた。
 十・十空襲以後は配給の仕事も変化した。それ以前は、那覇の港に下ろされた米は軽便鉄道を使って運搬され、私たち農業会は嘉手納駅へ取りに行けばよかった。しかし、十・十空襲で鉄道が破壊されたので、那覇での「港渡し」となり、馬車で米の受領に行かなければならなくなった。馬車の手配は、飛行場にあった馬車組合に依頼するのだが、那覇まで米の受領に行くには遠いこともあって、馬車持ち(バシャムッチャー)の人たちはあまり喜ばなかった。また、港の倉庫は空襲で焼けてしまっていたので、船から下ろされた米は、徴用馬車が荷を受け取りにくるまでの間、港で見張る者が必要になった。私は係りの中で最も若かったので、よく港で米の番をする役が回ってきた。私は港で米の受領が終わるまでの数日間、夜通し米の番をした。

誘導路建設で土地家屋接収

 一九四四年(昭和十九)十二月頃、日本軍が誘導路の建設のために私たち一家に立ち退くように言ってきた。もともと伊良皆の集落にあった道路を、飛行機が通れるよう道幅を倍ぐらいに拡張して誘導路にしてしまい、その路沿いの民家のうち五軒を壊して飛行機の格納場所にするという計画だった。誘導路は防衛隊が十二月から正月の間までの一か月で完成させた。格納場所にするために壊された家の木材や瓦は字民で協力して、きれいにひとまとめにして、また建てなおすことが出来るように親戚の家の庭に運んだ。私たちは※※に預けたが、結局戦争になって部落はみんな破壊されたし、戦後も元の部落は米軍用地になってしまって土地へ戻ることすらできなかったんだから、運んだ意味もなくなったが、それは戦後の話だ。
伊良皆に残る「誘導路」のために造られたといわれる石畳
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 私の家の跡地に置かれた飛行機には、バレーボールをするときに使うネットみたいなものをかぶせて、そのネットに草を掛けて偽装していた。ほかにも砂糖樽にいろんな草木を植えて、それを飛行機の上に置いて偽装していた所もあった。
 私たちは家を壊されたから、長田の禰覇家の敷地に三角屋を造ってそこに住むことにした。私の家族のうち、母※※と妹弟の※※、※※、※※、※※の四名が翌一九四五年(昭和二十)一月に北部へ避難し、父は一か月後の二月十日頃に召集されて石部隊に入隊した。
 私は仕事上、召集されるのがまわりの人よりだいぶ遅れた。私が召集されたのは一九四五年(昭和二十)の三月十日だったが、令状が届いた時はとうとう自分の番がきたと喜んだ。当時は成人した男が兵隊に行かないのは恥ずかしいことだったのだ。
 私は令状が届いた十日から、仕事の引継ぎを行った。どこの倉庫にいくつ米を置くとか、どれだけ備蓄されているのかといったことを後任の人に伝える必要があったからである。

防衛隊入隊

 現在の沖縄市森根に私の所属する防衛隊(第五〇四特設警備工兵隊・球一八八一八)の宿舎があった。この部隊は瓦葺の大きな民家を宿舎にしていた。隊員は一〇〇名ぐらいいたと思う。上陸前空襲の頃まで森根にいて、中飛行場の弾痕の修復をしていた。防衛隊員とはいえ軍事訓練はほとんどやっていなかった。また、米軍の砲爆撃が盛んな昼の間はみな隠れていて、滑走路の補修は夜間にするので犠牲はなかった。
 私は入隊したものの三月十日から二十日までは、朝から読谷山村役場へ行って引継ぎ業務を行なわなくてはならなかったので、夜の点呼だけをとりに隊に戻っているような状態だった。朝九時には役場は始まっているから、中飛行場を通って役場へ通うのが一番危なかった。
 米軍上陸の日、国頭へ移動するという隊長命令が出たが、まず、私たちは森根の兵舎を離れて宇久田国民学校近くの墓に移った。夜になると、そこから中飛行場に行って、飛行場周辺に備蓄していた弾薬を久保倉敷にトラックで運ぶ作業を行った。弾薬を置いたまま飛行場を放棄することはできないということだったと思う。そうこうするちに上陸した米軍に追い込まれた。

北部山中へ

 私たちは上陸した米軍に、北へ北へと追い詰められていった。銃や手榴弾を分配して戦闘準備を行ったが、みんな戦闘訓練すらまともに受けてない者ばかりだった。石川岳を越えて金武にさしかかると、橋が日本兵に破壊されていた。敵戦車を通さないためだったらしい。たくさんの避難民が立ち往生していた。女や子供や年寄りばかりだったので、私たちは見かねて彼らをおんぶして川を渡したり、荷物を運ぶなどの手助けをした。そして、そこからさらに羽地へと進んだ。
 羽地では敵軍との初めての戦闘があった。武器を持ってはいるが、こっちが一発撃ったらあっちから何十発も返ってくるので、隊長が「撃つな」という命令を出した。それで隠れるほかなかった。城間隊長は「犬死はさせない、今度の戦いは厳しいから、とにかく身を守れ。そして絶対馬鹿なことをするな」と私たちに注意した。隊の食糧が底をつくと、隊長は自ら近くにいた護郷隊のところへ行って糧秣をもらってきてくれた。よく部下のことを考えてくれる人だった。
 そうやって隠れていたある日、私たちが護郷隊に分けてもらった乾麺包を食べていると、すぐ目の前に砲弾が落ちた。「ここでは危ない」と考え、すこし山を登ったら、そこはススキの原っぱで、身を隠す場所もなかった。そこへ敵機が現れて機銃攻撃を受け、二〇人ぐらいが死んでしまった。
 山を下りると、源河川近くにたくさんの避難民が居り、私たちはそこで一休みしようということになった。そこにいた人たちはちょうどお昼の時間で、「兵隊が来た」と言ってみんな喜んだ。兵隊が守ってくれると思ったんでしょう、彼らは私たちに食事を準備してくれた。火を起こすと、煙が立ち上った。私たちも敵の攻撃を受けたばかりで、危なくないかなと思っていた矢先、敵の弾が撃ちこまれてきた。
 私たちはわずかな数だったが、我謝軍曹が「敵は山の上から攻撃してくるから、こっちから攻め上って包囲しよう」と指示したので、私たちは山の中ごろまで登っていった。するとものすごい艦砲射撃が私たちめがけて開始され、先頭を行く我謝軍曹が、上から流れ落ちるように山を下りてきた。私たちは上からの攻撃と艦砲射撃にさらされながら、全員必死に山を滑りおりて行った。私はこの時、もう死ぬに違いないと覚悟しながら山を駆け下りていたが、崖から足を滑らせて下の川に落下してしまった。びっくりして体をさわったら大きな怪我はなく、それで川の傍に生えているアダンにつかまり、水に浸かっている状態で息を潜めていた。そこを出てきた時には、ついに避難民と兵隊を合わせて九人しか生き残っていなかった。
 そうして敵から逃げている間に、私たちは本部(もとぶ)に来てしまった。本部からまた羽地に戻ろうとするところを敵に包囲されて、攻撃を受けた。そこをどうにか抜け出し、大湿帯へ移動し、そこから四キロほど離れた字天仁屋の山中を逃げ回っている間に、生き残った隊員はばらばらになって互いに連絡すら取れなくなった。その頃には隊長も行方が分からなくなっていた。隊長は私たちに「死ぬ時は軍服姿で死ぬんだ。民間人に化けて死ぬんじゃないぞ。軍服を脱ぐな」と言っていた。

家族と再会、そして帰村

 私は東恩納出身の当間という人と一緒に逃げ回っていた。天仁屋の山で避難民と一緒になって、避難民の小屋にいた。潜んでいる間に、避難民から「あんたの家族はあそこらへんにいたよ」と家族の情報を聞くことができたので、五月には家族を探し出して、天仁屋の有津川(あつつがわ)のほとりで一緒になった。
 六月か七月くらいじゃないかと思うが、もうその頃には避難民がいっぱいで、投降を促しに、収容所から人がよこされたりして、私たちにも収容所内の情報が入っていた。私たちはみんなで学校に集まって話し合いをした。地元のリーダー的な人が、「収容所に行ったら食事もいっぱいあるから、みんなで投降しようじゃないか」と皆に提案した。そして翌朝、布の切れ端みたいなものを白旗にして、三〇名ほどが一緒に収容所へ向かった。
 私たちを見てもアメリカ兵はただチューインガムをあげたり、チョコレートをあげたり、別に何のこともなかった。私はひげも長く伸びていたので、わざと杖をついて、まだ小さな弟の正信を連れて老人の振りをしたんだが、結局私だけ家族と分けられて、兵隊ではなかったかと取り調べを受けた。私は「役場で事務をしていたから兵隊ではない」と言ったので「そうかじゃあ班長になれ」と命令されて、家族のいる瀬嵩の収容所で班長をすることになり、二〇世帯くらいの配給の面倒を見たりした。こうして瀬嵩に一か年ほどいた。それから石川収容所へ移動し、石川には二年ぐらい暮らしていたと思う。そして読谷村の第二次移動があった時に私も帰村した。その後すぐに産業組合を設立するから参加してくれと誘われて、元職員として設立に参加することになった。
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