第六章 証言記録
男性の証言


<-前頁 次頁->

悲劇の防波堤(沖縄県蚕業試験場職員としての体験記)

 沖縄県蚕業試験場は、一九一六年(大正十五)七月に政府から公布された産業助成金によって、小禄村安次嶺に設立された。沖縄は気候が温暖で、年中桑があるので新蚕品種の育成および増殖地として、全国の業者が来県して、原蚕種製造地として知られた。
松田※※(大湾・※※)明治四十一年生

嵐の前

沖縄県蚕業試験場での集合写真(安次嶺※※提供)
画像
 一九四三年(昭和十八)は、正月早々からガダルカナル島の敗退や山本五十六連合艦隊司令長官の戦死と、重苦しいニュースが続いた。昨日までの連戦連勝を大きな声で報じてきた大本営発表は、何だったのかと危惧を抱き始めた年である。国は本土決戦を覚悟してその時間稼ぎのために、沖縄を防波堤にする作戦であるとの噂も絶えなかった。一億玉砕の有難くもない先陣であることを知りながら、忠実な県民は隣り組を中心として飛行場や陣地造りなど、国の防波堤造りに駆使された。そのため綿のように疲れて、やれやれと一休みする間もなく、訓練空襲警報のサイレンの鳴り響く中で、バケツリレーや竹槍訓練を終え、重い足を引きずって帰っても、灯火管制で暗闇となった家庭ではわずかな配給品で夕食を摂るのが常でした。
 蚕業技術の修得にきた蚕業試験場の練習生は、今では防空演習と防空壕掘りが日課となって、敵愾心と戦意昂揚に努めていた。
 蚕業試験場の蚕室一棟は独立高射砲第二十七大隊大滝隊(大滝※※隊長)の本部となり、近くのガジャンビラの上には数門の高射砲が据えられ、首里城や那覇空港と那覇港の守りを堅めていた。

離県相つぐ県職員

 沖縄戦が避けられないことを知った本土出身の県職員は、一部を除いてほとんど本土へ転出または出張して帰らなかった。応召で欠員補充もできず、各官庁も人員不足がますますひどくなった。一九四三年(昭和十八)からは、人員物資共に不足で普段通りの仕事はほとんどできなかった。蚕業試験場も一九三四年(昭和九)に岐阜県蚕業試験場から赴任してきた奥本※※場長がいたが、一九四三年(昭和十八)に福岡県へ転出した。後任は、沖縄県蚕業取締所に勤務する川崎※※技手が、技師に昇格して場長として赴任した。平時には、職員と准職員が二〇名、男女の蚕業練習生と講習生が約三〇名で、合計五〇名内外の陣容で運営していたが、今では一〇名以下である。
 一九四三年(昭和十八)末には、同盟国のイタリアが敵の軍門に下るなどで朗報もなく、暗い気持ちで終わった。

一九四四年(昭和十九)

 一九四四年(昭和十九)になると、戦争が近づいてくる様子がひしひしと感じられようになった。この年の前半はまだ疎開をしない住民も多く、猫の額ほどの小さな島に全国から召集された者や現地召集された兵隊たちで一杯になり、何処へ行っても穴掘り用のつるはしとスコップをかついだ兵隊が見られた。
 初夏の頃から、本土や台湾へ疎開が始まり、同時に米国の潜水艦が出没する話も聞こえてきた。そして七月になるとサイパン島の陥落、そして八月になると学童疎開船「対馬丸」が悪石島付近で撃沈されたことなどが伝わってきた。次は沖縄だと誰も口にはしないものの、心の動揺は隠せなかった。
 この度の戦争の仕掛人である東条内閣も、ガダルカナル島での敗走やビルマ進攻作戦の失敗、サイパン島陥落などの責任から七月には総辞職して、小磯・米内協力内閣に変わったが、戦況は厳しくなるばかりであった。

一九四四年(昭和十九)十月十日

 十月十日の朝は晴れていた。朝早くから庭に出て、サシバが来るかと大空を見あげていた。空いっぱい乱舞する姿は、地球を舞台に踊る天使の姿を思わせて素晴らしかった。しかし、その日はサシバの姿はなく、飛行機の群れが相次いで那覇や小禄の上空で急降下を繰り返していた。
 友軍機の演習かと思ったが、ちょっと変だと思っていると、高射砲隊本部が「敵襲だ」と騒ぎだしたので、一〇〇メートルほど離れた防空壕へ駆け込んだ。間もなく試験場の全員も集まった。近くに爆弾は落ちなかったので、皆落ちついていた。壕は立って歩けるほど高く堅固に造られていたが、高射砲陣地が近く砲弾を発射するごとにもの凄い突風が吹き抜けるので、例えようもない嫌な気持ちがした。壕の入口は、南向きで小禄飛行場の上空がよく見えた。急降下してくるグラマン機の先頭の一機に、飛行場守備隊の砲弾が命中して空中分解すると、後続機は急旋回して逃げ去るのが見えた。皆見ていたが、ニュース映画と違って、拍手をする者はいなかった。
 午後、妻の母と姉、姉の子※※がモンペにズキン、非常袋のいでたちで、転がり込むように壕にやって来た。久茂地の住宅が焼け、那覇の街も盛んに燃えているとのことであった。壕の中では皆落ちついていて、壕に来てからつくった握り飯を食べる余裕もあった。夕方官舎(場内)へ行ってみると、試験場は完全に残っていたのでほっとしたが、外部の様子は全くわからなかった。
 翌朝ガジャンビラの丘の上から見た限りでは、那覇の街並みは一面焼け野が原に様変わりしていた。南方行きの徴用船が、港いっぱい寄港していたが一隻も姿は見えず、マストの先だけが水上に残っていた。図体の大きい船は火災を起こし、沈没寸前であった。
 蚕業試験場では、女子職員や従業員は郷里へ帰し、健康に自信があって家庭的にも身軽な者だけを残した。

悪魔の定期便

 十月の大空襲後に、南から来て南へ去っていくB29は、多分南方の基地から飛来するものと思われた。毎朝十一時頃来て、県民の日常生活に恐怖を与えていたから「悪魔の定期便」といって恐れられていた。沖縄の航空写真の撮影と、沖縄の各港を出入りする艦船の見張りをするのが主要目的だったと思われた。
 人の思いは皆同じで、出会い頭の挨拶は「おい、家族は疎開させたか」の一言であった。沖縄に残れば、戦火に巻き込まれることは必至だと思われた。潜水艦は怖いが、沖縄に残るよりは危険度が低いような気がするので、多くは本土疎開を希望していたが、一般向けの船はもう出せるような情況ではなかった。

家族と場長を見送る

 私の一家三人(妻、妻の母、義姉の子※※)は、疎開船はなかったが、職員官舎に一人で宿泊していた高橋という若い海軍将校に頼んで、南洋からの帰りの船に乗せて貰うことにした。川崎場長家族も一緒であった。
木製の公印と印影
画像
 一九四五年(昭和二十)一月十日、川崎場長家族と私の妻たち一行を那覇埠頭の通堂(トゥンドー)へ見送りに行った。場長から決裁用の実印を「頼む」と渡された。私もうなずいて、受け取るだけで言葉がなかった。船の名も行き先も出港時刻も何もかも知らない船送りである。またと会えないかも知れないと思うと、妻の顔はまともには見られなかった。涙をこらえることが出来ないからである。「僕、帰るよ」と一言残して、港を去った。航海の安全を祈るなどと、月並みのことはいえなかった。それでも心の中では、どこかの港に無事着くようにと祈っていた。
 しかし、蚕業試験場も戦争によって消滅し、この公印は再び使用されることはなかったが、公印は私のポケットに隠れ、鉄の嵐の中をくぐり抜け、名もない山原の山の中をさまよい、死線を越すことになった。

首里へ事務所を移す

 一九四五年(昭和二十)一月十五日、蚕業試験場の事務所を小禄村字安次嶺から首里儀保町協同蚕室に移した。
 当時の職員は、沖縄県技手松田※※・三十五歳、読谷山出身。沖縄県技手比嘉※※・三十一歳、名護出身。沖縄県雇諸見里※※・十八歳、具志頭出身。職員与儀※※、首里出身。當間※※、小禄出身。助手玉城、玉城出身の六名だったが、与儀※※と當間※※は一月から家族とともに北部へ避難した。
 首里では空襲が激しく、防空壕を往来するのが日課となっていた。米軍の攻撃が激しい日は、その音や振動で頭痛や耳鳴りがした。夕方になると、北部へ避難する人々があらわれはじめ、夜通し続いた。皆が行くところには、何か良いことがありそうで、少々羨ましい気がした。

島田知事職員激励のため来所

 一九四五年(昭和二十)二月十五日頃、島田知事が古郡(ふるごおり)※※農務課長と某事務官の案内で、蚕業試験場職員の激励のため訪ねて来られた。国民服の軽装で、突然の御訪問に恐縮している職員に、軽く会釈をされた。知事は、一脚の椅子もなく、蚕室と事務所を兼用した部屋の入口に立たれたまま「どう、元気でやっていますか」と言われた。私は、「ありがとうございます。皆元気で頑張っています」とご挨拶申し上げた。そして職員の紹介と、試験場の現況のあらましを申し上げ、現在業務上の重点としている原蚕種の確保の状況などの御報告を申し上げた。さらにこの蚕室は県の補助で造られた幼蚕協同蚕室でありますが、長野県出身の、蚕種製造業者の高橋※※が借りて事業を続けていましたが、現地召集されたので使わせて頂いております、と説明した。すると知事は「そうか」とうなずかれ「これからますます、不自由なことが続くから、御身体を大事にするように」と励まされた。さらに言葉を続けられ、「何か自分にやれることがあったら、遠慮しないで」と言われて、「若し人手が要るのでしたら」と訊かれた。今人手の要る仕事もありませんからと、御辞退すると、「そうか」とうなずかれた。そしてポケットから財布を出され、二十円札を私たちの前に差し出されて「これ、何かに使ってくれ」といわれた。恐縮してご辞退していると、傍らにおられた古郡農務課長にたしなめられ、有り難くいただいた。
 私は、「この厳しい状況下で、私たちを励ましにこられましたこと、ありがたく限りない光栄と感激しています。どうぞ皆さまも御身体を御大事になさいますよう、お願いします」と申し上げお別れした。
 なお、知事からいただいたお金は、世の中が落ち着いたとき、蚕糸関係の皆で「島田知事に感謝の夕べを催すための資金にしたい」と相談し、お金は私が保管することにした。

壕を出て自由解散

 三月二十九日(一九四五年)の朝、二人の兵士が壕に来て「この壕は、明日から軍が使うから今日中に出てくれ」と言われた。びっくりしてその理由を尋ねると、今まで石嶺飛行場を構築中の将兵が戦闘に参加するためであるということがわかった。私は、いよいよ戦火が首里に近づいたことを知って、「そのためでしたら、私たちはどこかお邪魔にならない所へ行きますから、どうか自由に使って下さい。皆さんの武運長久をお祈りします」と言って立ち退くことを承諾した。
 私たちが首里へ移ったのも、北部への脱出を考えたからであった。今その機会が来た。私は今日まで行動を共にしてきた職員に感謝し、これからどうするかを相談した。
 比嘉技手は、召集されて南部に来ていた身内の者が急病で召集免除となったので、一緒に郷里名護へ連れて帰っていた。時すでに戦況が悪化し、戻れなくなったが、それがかえって良かった。諸見里君には、北部へ避難するよう強く勧めたのだが、首里に居る許婚者の老母の世話をしたいから、首里に残りたいとのことで別れた。
 私は、老母が姉の家族と一緒に国頭村に避難していることを聞いていたので、北部へ脱出する事を考えていた。玉城君も家族は北部へ避難しているので北部へ行きたいと希望した。早速二人は北部行きの準備にとりかかった。
 蚕種は蚕室の天然温度にゆだね、重要書類は亜鉛箱に収めて桑園の茂みに隠した。そして、妻の心のこもった黒砂糖、鰹節、米などを自転車に積んだ。首里城よ永遠に栄えあれと祈って首里を後にした。太陽はすでに西に傾いていた。自転車は一台しかなかったので玉城君と力を合わせて、荷車のようにひっぱって歩いた。造りかけの石嶺飛行場の辺りを通るときは、もう夕暮れとなっていた。今夜一泊を予定している義姉の避難先浦添村の前田は、もうすぐであった。

塞翁(さいおう)が馬

 人生の吉凶禍福の予想は困難なもので、凶必ずしも凶ならず、吉に転ずることもあるというときに使われる言葉に「人間万事塞翁が馬」というのがある。
 そのことは、私たちが壕から追いたてられたことと何か符合する思いがする。もしそのまま壕に残っていたら、出る機会を失い、首里攻防戦の激しい砲火に身をさらすことになったであろう。また二十九日、壕を出て北部へ向かって出発したから米軍が上陸を始めた四月一日前に中部を突破できたが、一日でも壕を出ることがおくれたときは、中部突破は不可能であったと考えたとき、私たちを壕から追いだした二人の兵士は、命の恩人であったと思っている。人生は、あざなえる縄の如く、山の次には谷もあるのである。

米艦隊の艦砲射撃を見る

 翌三十日朝早起きして、高台のソテツの陰に伏して、那覇港沖を見た。大小さまざまな米艦船がいっぱいに浮かび、大きい軍艦はさかんに小禄の飛行場辺りを砲撃していた。まるで演習のように、やりたい放題であった。
 私たちは道を急がねばならないので、義姉と義兄へ挨拶して出発することにした。お身体を大事にされて、できるだけ早く避難されるようにと勧めると、義姉は「ありがとうね浩、お元気でね」と別れた。それが姉の最後の言葉となった。
 後日談になるが、前田は首里攻防戦のとき敵味方入り乱れての激戦地となった場所である。姉はその時に至近弾を受けて亡くなった。亡姉を壕に葬った義兄は、三歳になる女の子を背負い、空襲と艦砲射撃で島尻まで追いつめられた。その間に背負っていた女の子は餓死したと涙ながらに話した。
 一九四六年(昭和二十一)十一月に疎開から帰った義母と義兄と私の三人で、姉の骨拾いに行ったが、小指ぐらいの一本の骨しか探せなかった。

金武まで

 北部へ向かった私たちは普天間を通って行った。西海道(現国道五十八号)よりは空襲の際の隠れ場所があるとの判断であった。中部の集落は焼き払われ、人の姿もなかった。橋もすっかり破壊されていて、自転車を担いで川を渡った。後で聞いた話だが、米軍の戦車が首里攻撃に行くのを防ぐため、中飛行場(嘉手納)を守備する部隊がやったとのことである。三十日の晩は、美里村登川のバナナ園の中で野宿した。
 翌三十一日、中部と北部の境である石川橋を昼前に渡り、屋嘉の七日浜(ナンカバーマ)を通り、激しい空襲の合間をくぐって金武にたどりつき、金武小学校で一夜を過ごした。

山原路を行く

 四月一日、山原の夜は早く明けた。早速、北へ向かう。午前中、グラマンが秋のトンボのように飛び回り、隠れるばかりで前進はほとんどできなかった。今朝のように飛行機が来たことはなかった。クチャカタバルを過ぎると眼下に白波が見えた。辺野古というところであることが後で分かった。大きな道路沿いに、避難小屋があったのを幸いに、その夜の宿にしようと疲れた身体を横たえた。ハブが多いのか、避難小屋の周囲にはハブ除けの硫黄粉がまかれて、硫黄臭がしていた。ハブは大丈夫かなと、つぶやきながら横になると疲れていたのですぐ眠ってしまった。四月一日に米軍が読谷、嘉手納などの西海岸から上陸したことが後日分かった。敵機の攻撃がいつもより激しかったわけである。
 四月二日は、名護世冨慶海岸に通じる幹線道路沿いの二見の上の目立たない所にある避難小屋へ移った。そこで二、三日は疲れた身体を休ますことにした。
 その後、蚕業試験場の修了生で久志青年学校の教師をしている松永君を汀間に訪ね五、六日お世話になった。それから、川向かいに良き避難所を世話して貰って、沖縄戦が終わるまでここで過ごした。

山の生活

 私が避難した所は、汀間川の川向かいにある半島状の山で、字汀間の小字嘉手苅であるが川幅が広くて深く、入口が分かりにくいところで近づく人もいなかった。南側の大浦湾に目を向ければ絶景で、河の下の浜には漁師の家が二棟あった。私の居る北側には、茅葺きの青年学校一棟と小さい川向かいには二つの避難小屋があったが、誰もいなかった。寝起きは青年学校ですることもあった。まさしくロビンソン・クルーソーのような生活は楽しくさえ思えて、毎朝早く数匹のうりんぼう(子ども)をひきつれて、食べ物探しに、親イノシシが近くまで来る平和な光景もあった。

住民の南下多くなる

 食糧が乏しく栄養失調とマラリアで死ぬ人が多くなると、少しでも郷里に近いところで死にたいと思うのも人情かも知れない。それまで、僕一人の王国と思っていたこの山に、人影を見るようになった。以前蚕業試験場に勤めていた垣花さん一家も南下してきた。話し相手もいなかったが、何か月ぶりかにいい話し相手ができた。 米軍は北部山岳地帯の掃討作戦の一環か、山焼きを始めた。寝泊まりしていた避難小屋も焼かれたので、さらに山奥に移った。

米兵に金を盗られる

 私が避難している南の山すそは、大浦湾に面した風光明眉な河の下(カヌシチャ)の浜である。そこは、民謡でも有名な「汀間当節」で、琉球王朝時代に首里王府の請人神谷と汀間の美人、丸目加那が別離を惜しんだ土地と伝えられている。
 南方から聞こえてくる砲声も止んで、いよいよ戦争も大詰めかと思われる七月の初め、山を下りて、河の下の浜の西側で、アダンの木陰に腰をおろしていた。涼しい海風を受けながらいろいろと考えこんで帰ろうとすると、五〇メートルほど離れた向かいの岩陰から銃をかまえた二人の米兵が、十二、三歳ぐらいの少年と一緒に近づいてくるのが見えた。近くにいた年配の男が、「早く逃げよう」と声をかけてきたので、私はそれを制し「落ちついて下さい。逃げると必ず発砲されますが、子どもに案内されてくる兵隊が住民に発砲するはずはありませんから」と話しているうちに目の前にやってきた。
 二人の兵隊は、「マネーマネー」と小さい声で言った。私は懐に入れてあった財布を出して渡すと、サンキューと言って去って行った。取られたのは、試験場の公金四十円くらいと私の小使い少々であったが、島田知事から貰った二十円は宝物のように思っていたから惜しくてたまらなかった。当時は仕方がないと簡単にすましていたが、日が経過するに従って、島田知事からいただいた二十円のことが惜しくてたまらなかった。

山をおり、瀬嵩収容所へ

 七月になると、食べ物も完全に底を突き、飢餓や栄養失調、マラリア等で死者が続出するという追いつめられた状況であった。七月七日(一九四五年)に、その前の月からこの山に来ていた垣花さんが、「戦争は終わって、避難民は皆山をおりて、瀬嵩に収容されているそうですから一緒に行きましょう」と言われたので山を下りた。やっと助かったと、ほっとした気持ちであったが、負けて山を下りることに、一抹の寂しさを禁ずることはできなかった。
 瀬嵩収容所は、山からおりて来た避難民がいっぱいだった。皆衰弱はしていたが、救われた喜びは隠せなかった。
 山をおりてから食糧の配給はあったが、雨露をしのぐ場所がなく、樹の下に、青葉をしとねにして寝起きする原始生活みたいな暮らしが数日続いた。これでは困るので、一緒に山からおりてきた数名で共同の掘っ立て小屋を建てることにした。四キロメートルくらい離れた奥山から木材を切り出して、掘っ立て長屋を造り、仮寝の住まいとした。
 瀬嵩地区に収容された人たちは、最初は西原村、中城村、具志川村などの太平洋に面する村の人たちが多かった。しばらくすると、島尻南部で収容された人たちや、北部(大宜味村、国頭村、東村)に収容されていた人たちが南下して来たので、瀬嵩地区の人口は急にふくれあがった。
 収容されると男たちのほとんどは毎日軍作業にかり出された。マラリア予防のためのどぶさらいが主な仕事であったが、体力的に続けることができないと思った私は、教員免許を持っていることを話し瀬嵩小学校に行くことになった。給料無し、辞令無しの、まさに口頭辞令であった。その時の瀬嵩小学校は、本来の校舎は軍が使っていたため、海岸近くにある大きな青天井の学校であった。大きな松陰が校長室、小さい木陰が各教室、砂浜が運動場兼講堂で男子部と女子部に分かれていた。

八月十五日の日本の無条件降伏と「バンザイ」

 八月十五日、制服姿の若い米軍将校が通訳を伴って校長に会いに来た。聞けば、日本の無条件降伏を祝して、全校職員と児童に万歳をさせろということであった。何事かと職員と児童たちはすでに集まっていた。校長は、教頭どうぞと言うふうであったが、教頭も笑って相手にしなかった。米軍将校は、この間おだやかに静観するだけであった。
 やがて校長は、おもむろに服をただし、蚊の鳴くような声で、手を半分ほど挙げて「バンザーイ」と叫んで、重大任務を果たした。米軍将校は「サンキューヴェルマッチ」と言って帰った。その将校は、米軍が琉球住民の敵日本軍を降伏させたのだから、当然琉球の人々も大変喜んでいるものと考えていたのだった。〈寄稿〉
<-前頁 次頁->