第六章 証言記録
男性の証言


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防衛隊員として

波平※※(喜名・※※)大正三年生
 私が防衛召集されたのは、昭和二十年の三月でした。四月一日に米軍は上陸していますから、米軍が上陸する一か月程前です。喜名からは、※※の翁長※※も一緒でしたが、彼はとうとう帰って来ませんでした。
 我々の部隊は、屋良国民学校にいました。全部で二〇〇人ぐらいで、もちろん沖縄出身者だけの部隊でした。隊長は久場中尉で、その下に喜名出身の謝花曹長(※※)でした。この謝花曹長には、ずいぶん助けられました。彼は私よりは一つ年上で、同郷でよく顔を合わせていたからだと思います。「何か困ったことがあれば俺の所に来い」とよく言ってくれました。ところが、米軍の上陸前になって久場中尉も謝花曹長も別の部隊に転属になり、首里出身の崎山という少尉に代わっていました。我々防衛隊がどの様な任務だったか分かりません。ただ米軍が上陸するので郷土を守るために組織されたということぐらいだったと思います。ですから軍服だけは着ていましたが銃もなく、鉄兜もありませんでした。靴の支給もなく、家から履いて行った地下足袋のままでした。銃を持っているのは一〇に一人ぐらいで、残りは竹槍を持っていたのです。今から考えると笑い話のようなものですが、その竹槍を持ち、生け垣の裏に隠れて米兵が来たら突くという訓練を受けていたものです。
 三月の下旬ごろ、屋良国民学校の南側の飛行場の端で作業をしているとき敵の艦載機の攻撃を受けたことがありました。その頃からは、空襲が激しく昼間は作業ができませんでしたから、早朝に作業をしていたのです。我々をねらって低空飛行で攻撃されましたから、手の届くような目の前に機関銃の弾がプスプスと土に突き刺さるのです。生きた心地もしませんでした。目の前に機関銃の弾が突き刺して穴が開くのが見えるのです。不思議なことに四〇人ぐらいいましたが、誰一人死んだ者はいませんでした。
 その頃からは毎日のように空襲が激しくなるばかりでしたから、我々の隊は比謝川の上流の壕に潜んでいました。四月一日、この壕で敵が上陸したことを知りました。なにしろ上陸前の空襲で、壕から一歩も出られない状況でしたから、我々は敵が上陸したことを知っただけでも幸運だったと思います。と言うのは、上陸を知らずにこの辺りに残っていた防衛隊員はほとんど殺されているのです。
 隊長は、壕を出て知花グシクに集結するようにとの命令を下しました。ここにいると直ぐに米軍が押し寄せて来るのを知っていたのでしょう。私達は、次々と壕を飛び出しました。しかし、外は艦載機が超低空で飛び交い機銃掃射の雨の中です。米軍は超低空での機銃掃射をしてくるものですから、壕からは出たものの、動くと殺されますからなかなか動けないのです。ですから、比謝川の上流を午前九時頃に発って、知花グシクに着いたのは夕方でした。弾の中を転げながら逃げた恐怖はいつまでも忘れられません。それほど空襲が激しかったです。私は今でも知花に行くときは必ず目がそこにいくのですが、「あそこら辺りだったなぁ」と五〇年余経っていますが、今でも昨日のような気がします。
 夕方になると米軍は攻撃を中断していましたから、夜になると知花グシクにはぞくぞくと仲間が集結して来ました。隊長は「我々は実戦体験もなく、武器もないから北部に行き、訓練をして後、南部に合流する」と言っていました。今から考えると北部が安全ということを分かっていたのでしょう。我々の部隊は、知花グシクを発って北部に向かいました。途中昼は山の中に隠れ、夜になると歩いて大宜味の押川(ウシカー)というところに着いたのです。四日ぐらいかかったと思います。ウシカーは山裾に民家が点在する部落でしたが、人はみんな山に逃げて空き家になっていました。私たちはそれらの民家に分散して泊まっていました。米軍はすでに近くまで入っていて、時たま二〜三人単位の斥候が巡回していました。隊を守るため、二人ずつの歩哨を立てていましたが、交代のために行ってみるとその二人の歩哨が米兵に射殺されていました。一人は座喜味の※※の弟といい、一人は波平の屋号※※といっていましたが、はっきりした名前は分かりません。
 それでここにも居れないというので山に上がりました。ところが、谷間に隠れていた我々の隊が米軍の斥候に見つかり、一斉攻撃を受けたのです。銃を持ったのもいましたから、二時間ぐらい撃ち合いました。終わってみると六〇人ぐらいが殺されていました。この頃からは我々の隊も食糧はほとんど尽きていました。一斗ぐらい入る醤油樽にたった一合ぐらいの米を入れてあとは野菜だけ、それが隊員の食事でした。食料がまったく無くなってきましたので、隊長は「一応、本隊は解散する。しかし、命令がある時は全員首里の酒屋に集まれ」といっていました。この隊長は、首里にある酒屋の息子だとのことでした。私もあの当時は、防衛隊員という意識がありましたから「その集まれという命令は、いつ頃あるんですか」と聞いたのです。そうすると隊長は「戦争中だからいつとは言えん」と言っていました。これ以上隊を維持してはいけないという隊長の判断だったのでしょう。いま思えば不要な質問をしたと思います。
 この様に私達の防衛隊は大宜味のウシカーで解散になりました。大宜味に二〇日以上いましたから四月の下旬だったと思います。山の中は中南部の避難民でごった返していました。食べ物もなく、ただ敵の目を逃れて逃げ隠れしていたのです。それから避難民を通じて刻々と戦況も伝わってきました。「どこに敵がいる」「どこは敵がいないので通れる」という情報です。その頃からは、食べる物も尽きていましたから、避難民が南へ南へと移動し始めていました。私も妻子のいる読谷に向かって避難民と共に歩き続けました。同じく隊を解散になった仲間五人も一緒でした。防衛隊の服は着けていましたが、手には何一つ持って無く、食べるものもまったくありませんでした。五日ぐらい何も食べなかったこともありました。木の新芽だけを炊いて食べたこともあります。味噌はもちろん塩もなく、ただ木の新芽だけを炊いたものだった。その後やっと恩納岳まで辿り着きました。
 恩納岳には避難民も兵隊もたくさんいましたが、食べ物がまったくありませんでした。兵隊も食べる物がないから、中には自棄になって銃をぶっぱなして住民のなけなしの食料を奪うということもありました。実際にそういう場面を見ましたが、彼らも食べものがないと生きられませんからね。戦争というものはそういうものです。恩納岳には二か月余りいました。夜になると命がけで谷茶あたりに芋をあさりに行きました。暗闇ですから米軍の目をかすめて食い物を取って生き延びていたという感じです。
 七月の下旬、高山※※と宮平※※が迎えに来たので山を下りました。宮平※※もその二日前までこの山に潜んでいましたが、山を下り、米兵が住民には危害を加えないことを知り呼びに来たのです。私が山を下りる時もまだ山には避難民や兵隊が残っていました。彼らは敵に捕らえられると殺されると、ただそれだけを恐れて山にこもっていたのです。
 このようにして私は、石川収容所に収容されたのです。そこで、私の家族は喜名の東の山で収容され、漢那にいるということを知りました。お互いに生きていることもまったく知らなかったのです。ある日、石川から金武に戦災を免れた家を壊してその材料を運ぶ作業に出ました。あの頃の収容所の家は、戦災を免れた家を壊してその材料で建てていました。その時、漢那収容所からも同じく作業のトラックが来ていたのです。その漢那から来た作業員の中に※※の比嘉※※がいて、彼女が私が生きていることを家族に知らせてくれました。それでも私は石川収容所、妻子は漢那の収容所と別々の暮らしでした。家族が一緒になって暮らせるようになったのは後のことなんです。
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