第六章 証言記録
女性の証言


<-前頁 次頁->

生と死の間を生きて

福地※※(牧原・旧姓※※)大正十四年生

看護婦として与那原の病院にて

 私は、古堅尋常高等小学校高等科を卒業後、看護婦見習いを経て与那原の嵩原医院(外科)に勤務していました。その与那原の病院にいた一九四四年十月十日、「十・十空襲」に遭遇したのです。
 病院の近くにある港には、山原船が入港していました。港の上空に白煙が上がると、その直後に山原船は機銃掃射を受ける、ということを目撃しました。後に、あの白煙は米軍偵察機の合図ではなかったかと思ったのですが、それは嵩原医師と一緒に、朝の回診に行こうとしている矢先(午前八時十分頃)の出来事でした。それでもまさか、本当の空襲とは思っておらず、「今日の演習は本当にものすごいですね、真剣にやっていらっしゃいますね」と言った記憶があります。先生も、「今日はすごく真剣だな」とおっしゃっていました。そして早く仕事にかかろうと回診に出ようとしたら、今度はピューンと病院の前に機関銃の弾が飛んできて、モクモクと煙が上がりました。
 もうそれからのことは、今でも思い出すだけで鳥肌が立ってしまうほどです。先生に、県庁の方に問い合わせて状況を聞くようにと言われた私は、病院に電話が無かったので、与那原の駅まで行き、県庁厚生課へ電話をしました。大宜味先生に問い合わせようとしたのでした。しかし、電話は通じませんでした。ふと見上げると、那覇の上空が一面真っ赤に焼けていて、私は腰を抜かしてしまいました。どうやって帰ったのか、なんとか病院まではたどり着いて状況を話しました。
 次第に空襲は激しくなり、とにかくものすごい勢いになってきたので、入院患者のなかで歩ける方々は、自宅に帰るよう促すことになりました。混乱の中、時間が経つのも分からなくなっていましたが、そうこうしているうちに、大きな爆弾が、先生のお屋敷の庭に落ちました。そうしたら、みんなびっくりして、「トーナー、ナーデージナトーン(これは大変な事になっている)」と、本当にこれは戦争だという事になりました。そこで残っている患者は防空壕へ避難させようという事で、入院中の方々と共に病院裏の壕に向かいました。
 この時、『死』ということが脳裏をよぎり、もし敵に捕まったら自決するしかないと思い、手術用のメスをガーゼと脱脂綿でくるんでズボンのポケットにしまいこみました。壕の中に入ろうとした時、太ももから血が流れているのに気が付きました。あまりの恐怖でメスが足に刺さっていることすら、わからなくなっていたのです。その時の傷跡は今も残っています。
 年が明け三月になって、先生は「みんな郷里に帰りなさい」と言われました。それで私は牧原の実家に帰ることになりました。その先生ご自身も召集を受け、病院も閉鎖されてしまいました。先生のご家族は宮崎の方へ疎開されました。後に先生は、首里の方で戦死されたとのことでした。一緒にいた看護婦二人が、後で判るように目印として、倒れている先生に一升瓶を抱かせて埋め、戦後遺骨を拾い上げてきたと聞きました。

球部隊で事務を手伝う

 読谷に向かう途中、北谷で米軍の偵察機に見つかり機銃掃射を受けました。しかし、フクギの大木に隠れて難を逃れることが出来ました。夜通し歩き、やっとの思いで実家にたどり着いたら、実家には日本兵が投宿していました。屋良にいる球部隊の将校の方々でした。私はその部隊の掃除や食事作り等の手伝いをすることになりました。
 部隊は、比謝川沿いにありました。私の通っていた本部は、二重橋(栄橋)の手前辺りにあって、自宅から歩いて行けるぐらいの距離でした。そこはちょうど谷底のような場所でしたが、以前牧原の婦人会長をされていた渡久地さんの瓦葺きのお宅のすぐ下辺りでした。隊長が居られた本部は、カバ屋根(テント地の屋根)で作られていました。その周囲は広場になっており、隊長の所から、一〇メートル程の所に兵隊用の炊事場がありました。初めはそこで炊事の仕事をしていました。そこから、川の上流に向かって両側は山ですが、川伝いの山の麓に兵舎が建ち並んでいました。物資の無い時代でしたので、兵舎といっても粗雑なつくりで、あり合わせのものを使って組立てた合掌造りの茅葺きの平屋でした。そこに何百人という兵隊がいました。
 数日経って、炊事場から一人事務所の方に行きなさいという事で、私が事務所の手伝いに行くことになりました。色々な書類を綴ったり、雑事がたくさんありました。それを、国吉※※さんと二人でやっていました。その部隊には、私達だけでなく、牧原の女子青年が総勢で一四、五名働いておりました。
 そんなある日、嘉手納の大通りにあった大山医院に行ったとき、部隊にあった慰安所の女性達が定期検診に来られていたのを見かけたことがありました。当時は事情も分からずに、川沿いに並ぶ部隊兵舎のうちの長屋の一つが「兵隊さんのおもてなしをする所なんだよ」と聞かされていました。それで、そういう事もあるんだねと思っていました。今でこそ、朝鮮の方も中国の方も居たと聞きますが、私達から見たら、区別も付かないし日本人であるように思っていました。しかし、とくに会話を交わした事もなく、遠くから川辺を散歩するのを見かけるぐらいでした。
 そうして、米軍上陸直前の三月の末、空には煙幕が上がるようになりました。当時は「何でしょうね、白い煙で変な暗号みたいに書いてあるよ」と見ていました。当時牧原には、立派な竹がたくさんありましたので、銃も充分に持っていない兵隊達は、それで竹槍を作って持っていました。それにしても「竹槍で戦争ができるのかな」と真剣に思っていました。また、近くに待機していた部隊は、米軍は台湾に上陸するんだということで、大勢の兵隊が台湾に行ってしまいました。
 しかし、米軍は台湾ではなく沖縄に上陸してきました。農林生までもが「鉄血勤皇隊」として、みんな戦争に駆り出されました。もうその頃までには、日本兵が背中に焼夷弾を受けて、燃えながら川に飛び込む様子などを見ており、血気盛んな農林生たちも、恐怖症になってしまい、腰を抜かして歩けなくなっている者もいました。日増しに戦況が悪化していく中で、隊長さんが私達を含む部隊の全員を集めて、「これから兵隊は南部の戦地へ向かう。あなた方女性は、どうしても足手まといになるから、みんなで家族のいる山原へ行きなさい。元気で行ってきなさい」と言われ、解散を命じられました。

手榴弾を手渡され

 解散を命じられた時、牧原の女子青年団の一四、五名は、兵隊の携帯品である雑嚢(ざつのう・乾パンなどを入れた袋)と手榴弾を渡されました。手榴弾は「もし、敵に捕らわれ、ひどい目に遭いそうになったら、これであなた方は、自分の身を始末しなさい」という事で、信管の抜き方も教えられました。その時は兵隊さんから「支那事変」で、「捕虜になったら、鎖を手のひらから通されて、船の底につながれ、魚の餌にされるんだ」などという話も聞かされていました。私の兄達からも「支那事変」で、中国人に対して行ったそういう類の話をたくさん聞かされていました。だから、私達も「もし捕まったら、信管を抜いて、みんなで死のうね」と、友達同士で話し合いました。軍服と鉄帽も支給され、足にはゲートルを巻いて出発しました。
 隊長さんは手榴弾を渡されるときに、「ああ、これで最後のお別れだね」と言われました。丁度、雨が降っていたので私が「涙雨ですね。兵隊さんも日本の国のために頑張って下さい」と言って別れたことを覚えています。その時の私は、日本が負けるとは全く思っていませんでした。とにかく、日本は、負け戦をした事がないと親からも聞かされ、学校の歴史でも習っていたので、「日の本の国だから勝つんだ、日本は勝つんだ」という事しか頭にはなかったのでした。

腰を痛めていた兄が戦地に向かった

 「石川橋が壊れないうちに、早く行こう」という事で、私たちは急いで牧原を出発しました。その途中、偶然にも長兄に出会いました。徴兵されて軍と行動を共にしていた兄は、腰を痛めていて歩くことさえ難渋しているようでした。一緒に山原へ避難しようと勧めましたが、兄は「日本人として、軍と共に行動しなければ子供達が惨めな思いをすることになる」と言って、南部へと向かっていきました。当時はそういう教育でした。後に、兄が首里の弁ヶ岳のガマの中で窒息死したことを、山原で出会った兄の知人から聞きました。
 兄はガマの最深部にいたそうですが、ガマの入口が爆撃により閉ざされてしまい、入口近くにいた人々は自力で岩をこじ開けて呼吸することができたそうですが、奥の方にいて、しかも腰を痛めていた兄はそのままそこで息を引き取ったということでした。戦後になってから、その場所を確認して遺骨を拾い、兄を弔いました。

山原へ向かう

 私たち牧原の女子青年団は、昼は隠れて、夜の真っ暗な時だけ歩いて行きました。イチバル(現沖縄市池原)から石川を経て、金武に向かいました。金武には綺麗な松林がありましたが(現在の診療所が在る所)、そこを目的地として夜通し歩いていたのですが、やがて日が差しはじめました。しかし、「松林まではどうしてもたどり着きたい」と歩き続けていると、米軍の戦闘機が低空で飛んで来ました。そこは県道だったので、友軍のトラクターも止まっていました。米軍はそれを見たのか、「パラ、パラ、パラー」と機銃掃射してきました。私達は畑に身を臥せ、それから一目散に林まで走りました。女子青年とはいえ、軍服を着て鉄帽を被り、雑嚢を担いだ人間が一五人で歩いていたのですから、兵隊だと思われたのだろうと思います。「小さな兵隊だな」と思ったのではないでしょうか。そうして、この松林の木にも弾が命中し、モクモクと煙を上げて倒れてきました。全く生きた心地はしませんでした。
 金武からは、いつの間にか宮古出身の農林生五、六名と合流して歩いていました。宜野座を経て名護に入ったら、名護湾からの艦砲射撃で名護の街は全部焼かれていました。炎が上がる街中を通り抜けて、山に入り、山道を通って羽地に行き、さらに大宜味村の喜如嘉まで歩きました。そうして多くの人に訪ね歩き、山中の家族の元にたどり着くまで一週間かかりました。誰一人怪我もなく、無事に着くことができたのは、正に奇跡としか思えません。

山での生活

 牧原の人々は、喜如嘉の方から山に向かい謝名城を通ってダキシキ(俗称)の山に入っていました。その山には座喜味の方々もいました。避難地のすぐそばには、国場組の倉庫もありました。その山の中で二か月余りを過ごしたのですが、家から持っていった食料も塩も、何もかも食べ尽くして、何にもなくなってしまいました。持参した着物と向こうの住民の方の芋と交換して、少しずつ食べつないでいましたが、その交換用の着物もすぐに無くなりました。山での食料難というのは本当に苦しいものでした。
 そんな暮らしとは対照的に、山原の方々はバーキ(竹篭)を背負って、堂々と道を歩いていました。「あれ、道を歩いても大丈夫なんだな」、「どうして私達だけここに避難してないといけないわけ」などと話し合ったことがあります。
 全く食料が無かった私達は、命をつなぐため、地元の方々の畑に向かって手を合わせてから「戦ですから、自分の所には帰れませんから、命のつなぎですからとにかく、命を大事にしないといけませんので、戦争に勝ったら帰って来て、また御恩返しはしますから」と言って、無断で芋を掘りました。泥棒ではなくて「命を助けて下さい」といって、畑の神様に手を合わせたのです。命をつないでおかないといけないのでということでした。それで、自分一人ではなく家族もいたので、畑に何名かで行って、そんなふうに芋を頂いて帰って来たのでした。そして塩代わりに海水を汲んできて、その海水で芋などを煮て、味付けして食べました。しかし、そんな芋掘りも怖くて毎日行くわけにはいかなかったのです。
 また五、六月は梅雨の時期でもあり、カタツムリがたくさんいたので、それをザルに拾って来て食べました。川で何回も何回も洗ってヌルヌルを全部流して、それを炊いて唯一のタンパク源として補っていました。若い私達は、国頭の山中で一日中食糧を捜して歩いていました。木の葉を食べていたので、下痢ばかりしていました。

海に沈んだ特攻機

 そんなある日、山の上から海を眺めていたら、日の丸を付けた特攻機が何処からか飛んで来て、目の前の海に落ちていきました。それは小さい飛行機でした。「アイヤー」と思いました。
 一九九六年に九州観光に出かけ、鹿児島の知覧に行きましたら、思いかけず「丁度こちらから特攻機が沖縄に飛んだんだよ」と聞きました。たくさんの兵隊さんの名前がそこの平和祈念堂に記されていました。一番機は、沖縄の人だったので、そこでまた身震いしてしまいました。「沖縄に飛んで行ったんだねー」と、私の見たあの飛行機には、この兵隊さん達が乗っていたんだね、と本当に涙が出て仕方ありませんでした。あの頃、まさか日本が負けるはずはないと信じていましたが、こんな若い方々の命が、こんなにたくさん失われたんだねーと思って。そこで手を合わせると、また胸が締め付けられる思いがしました。「もう二度と戦争をしてはいけない」と思いました。

日本兵にあげた最後のお米

 やがてカタツムリも食べ尽くした六月頃、「こちらの地域の方々は、道から歩いても大丈夫なのだから、私達も山を下りても大丈夫だろう」と、みんなで相談して山を下りることにしました。道路はたくさんの避難民が一斉に移動するので、山伝いに歩いて、押川という塩屋湾の内陸部の集落まで来ました。まだ力のある男達は、蘇鉄は大事な食糧だからという事で、これを担いで山から下りて来たのです。ところが押川まで来たら、下の道路をアメリカ軍の車が頻繁に走っていました。「トーヒャーナー。ここに下りたら、捕虜になって、殺されてしまう」といって、みんなで、また元の山に引き返すことになりました。
 その戻る途中に、「これが最後だ」という事で、親達が残りの米をみんなで出し合って、子供達に炊いて食べさせてあげようということになりました。そうして、私達の隣組のみんなで、最後の米を出し合って、大きな羽釜でご飯を炊いていると、御飯のいい匂いがしてきました。そうしていると、日本の兵隊さんが二人、何処から来たのか分からないのですが、そこへやってきました。そうして、「あっ、兵隊さんだ」と私達は手を合わせて「日本の国のために戦っていらっしゃるんだね」って。「日本は勝ちますよ。大丈夫ですから」と言うので、「本当に御苦労さまです」と言って、自分達は食べないで、子供達にもあげないで、その兵隊さん達にそのご飯を上げることにしました。
 そうして、二人の兵隊さんはお腹いっぱい食べて、残った分を子供達に少しずつ分けると、大人の分は残っていませんでした。

山を下りる

 そうして再び、自分達の元いた山に戻りました。その時に、空から米軍の宣伝ビラが落ちてきて、「沖縄のみなさん、戦は終わりました。日本は負けました。長い間そこにいたら大変ですから、早く山から出て来て下さい」という内容でした。その時は「まさか、日本が負けるわけはないよ、これは、嘘だ。私達を駆り出してから、とにかく捕虜にしようとしているんだ」と思いました。その時私は二十歳で、ずっと「日本が負ける訳はない」と教えられ、信じてきたので、まさかそんな事はないと本当に思っていました。
 その翌日、反対側の山に行って、下を眺めたらやはり、住民の方々が悠々と道を歩いていました。「おかしいね、どうせ、ここにいても死ぬし、もし死ぬんだったら、自分の部落に行って死んだ方がいいんじゃないのか」というリーダーの言葉で、山を下りる決心をし、みんなで白いタオルを竹に巻き付けて下りてきました。

山に残してきたおばあちゃん

 山を下りる時、八十歳余りのおばあさんがいらしたのですが、その方は歩けなかったので、後ろ髪を引かれながら「おばあちゃん、後で迎えに来ますから」と言って、そのまま置いて行くという決断をせざるを得ませんでした。おばあさんは手足も腫れていて、どうする事もできなくて、竹で編んだ敷物におばあさんを寝かせて、枕元に水を入れた湯呑みを置きました。おばあさんは、もうお話はできなかったので「あなたと一緒に下りて行きたいんですけれどね、どうしてもこの状態ですから、みんな自分の体も本当に精いっぱいですから、おばあちゃんごめんね」と言って、みんなで手を合わせて、おばあさんを一人残してその場を後にしました。

はじめて見たアメリカ人

 山から林道へ出ると、もうそこまでアメリカ兵が上がって来ていました。背は高いし、鉄カブトの下の顔は真っ赤で、目もヒージャーミー(青い目)で、鼻も高く、「この人たちも、私たちと同じ人間なのかな」と思いました。
 私達、女子青年は二十歳前後ですから、親達が「あなた達を取られたら大変」と言って、若い娘の顔にナービヌヒング(鍋底の炭)をつけて真っ黒にしました。またその上から頬かぶりもさせられて、ほとんど目の部分しか開けていない状態でした。親達は「もし、あなた達がいなくなったら、この沖縄は大変な事になるから」と、若い人達を本当に大切にして下さいました。
 そうしてこの林道を下って行くと、一人の米兵が野戦用の豆の缶詰を開けて、スプーンと共に私達に差し出しました。「はい、どうぞ」というふうに出されても、誰も受け取ろうとはしませんでした。栄養失調気味でみんな弱っていたにもかかわらず、親達は「あれを食べたら、すぐ大変だよ。毒でも入っていたら、そのまま死んでしまうから、食べないよ」とウチナー口で言っていました。
 そこへ、沖縄系のハワイ二世が来て、その方が自分で食べて見せ、「ほら、私も食べるよ、大丈夫だから食べなさい」と言いましたが、いくら栄養失調気味でも、口に入れる物が無くても、それでもまだまだ日本を信じていたので、首を横に振って誰も食べませんでした。

喜如嘉の集落に分宿

 こうして、隣組のみなさんと一緒に喜如嘉の集落まで下りてきました。そこで男女に分けられ、男の人達はそのまま一週間ぐらい何処かに連れていかれました。女の人達だけが、部落に残されました。しばらくして、喜如嘉の国民学校が収容所となり、そこへ移りました。そこでは配給がありましたが、その配給だけではとても足りませんでした。その後、喜如嘉は爆撃に遭わずに済んだので、戦前の綺麗な家がたくさんあって、そこにみんなが分宿するようになっていました。浦添の方々もいらしたことを覚えています。
 集落内に移ったら、配給もなくなり、やはり食料もありませんでした。それで庭を畑にして、自分達で作るようにしました。さらに地元の人たちが作ったキーンム(キャッサバの芋)から取ったタピオカ(でんぷん)などを分けてもらいました。山原には段々畑があって、山芋などもたくさん植えられていました。それを、「命のつなぎにさせて下さい」と言って頂いて、ごった煮にして食べました。

収容所での多くの人々の死

 収容所内の病院では、喜如嘉の出身で平良※※先生という六十歳余りの医師(せんせい)が、子供達を診察しておられました。そこで、私は看護婦でしたと言ったら、「じゃ、あなた手伝いに来なさい」という事で、そこに勤めることになりました。病院では、薬品は米軍支給品で、名前も英語で書かれていたので、先生に「これは、ビタミン剤、これは何々だよ」と教えてもらいました。
 子供達は、ほとんどが栄養失調でした。生きていても、皮膚に黒い斑点が出ており、肉が腐っていたのです。これは、ピンセットで取るとすぐ取れましたが、子供達も生きながらにして皮膚が腐っているという状態でした。また噛む力もなく、お腹も膨れ上がって、毎日バタバタと亡くなっていきました。大人もウシヌクブー(後頭部)がすごくへっこんでいました。見ると、体の上にかろうじて頭が付いているというぐらいで、次々と亡くなっていきました。
 毎日、多くの死体が荷車に積み上げられて、近くの浜で埋葬されていました。そんな状態が続くと、死ぬことも恐くなくなるもので、いつか自分達もこんなふうになるという気持ちで、死者に手を合わすという事もしないようになっていました。涙も出なくなり、「アイヤー、今日も亡くなられたんだねー」という状況の中で、親戚のおじいちゃん、おばあちゃん達も亡くなり、向こうの浜に埋葬されました。

親戚のありがたさ

 そのうち、「中部の方々は石川に行けますよ」という知らせを受けて、平良先生に、私達のいる隣組に石川行きの割り振りをして頂きました。そうして米軍のトラックに乗せられて、みんなで石川まで行きました。
 石川に着いたら、検問を受け「身元引受人はいますか。受け入れをする人がいなかったら、ここには収容出来ません」と言われました。「そんな事は聞いていません。中部に戻れるという事で、向こうの方々や先生方も、こういうふうに私達を送って下さいました。私達は、読谷の者ですよ。宜しくお願いします」と言いました。それでも「自分が元いた所に帰りなさい」と、同じウチナーンチュがそう言うものですから、「あなたは、情けもないんですか。私達は向こうで、食べる物もないし、何もない。向こうの方々が心を尽くして、石川収容所に行く事ができるよと、送って下さったのに、また元の所に帰りなさいとおっしゃるんですか。いえ、もう帰れません。ここまで着いていますから、読谷はすぐ目の前です。山原に戻ったとしても、私達はどうせ死ぬんです。同じ死ぬのなら、自分の部落の近くで、みんなで手を合わせて逝きます。帰りません」と言いました。
 そうこうして押し問答をしているうちに、私の親戚の伊良皆出身の源河※※先生(母の従兄弟)がいらして、「アイエーナー、地元の家族が来ているのに、私達が引き受けますよ」ということで、私たちとともに隣組の全員を引き受けて下さいました。この時は、親戚ほどありがたいものはないと、本当に心強く嬉しく思いました。

石川収容所で

 米軍上陸の直前から山原に向かい、山中での生活が二か月続き、喜如嘉に下りたのが六月。そこから、石川収容所に移されたのは、八月以降でした。収容所は、ほとんどがテント小屋で、たくさん張られていました。終戦直後、沖縄の大勢の人達がここに集められ、ここが戦後の出発点にもなりました。私たちも家族と一緒にテント生活を始めました。
 石川に来てからは、配給もあり、仕事も割り振られました。そこでの仕事といえば、女性なら米軍のコンセットの掃除や軍服の洗濯などの雑事が主なものでした。
 男性は、まず第一に食料確保ということで、農作業に従事していました。しばらくしてからは、道路造りにも駆り出されていましたが、とにかく食料確保ということで、まずはカズラの植え付けに行っていました。

故郷、読谷に帰る

 石川収容所でのテント生活を始めて一年が過ぎた一九四六年(昭和二十一)八月頃、村に帰る許可が下り、先発隊が編成されました。先発隊は村に派遣され、整地をしたり、住民のための家を建てたりして、受け入れ体制を整える任務に就きました。
 私は読谷に帰れる準備ができるまで、新しくできた石川市民病院に看護婦として勤めていました。いよいよ読谷に帰れることになって、私は石川市民病院を辞めて、知念※※さんらと読谷の診療所で働くことになりました。当時は現在の高志保公民館の東側辺りに診療所はありました。旧役場の駐車場の近くの高台に学校があって、その下の方に造ってあったのです。
清流の残る長田川上流牧原地域
画像
 戦争は本当に恐ろしく、尊い命がどんどん失われていきました。摩文仁の丘には、いろいろな慰霊の塔が建っています。六月二十三日は「慰霊の日」ですが、当時、戦争を推し進めて、沖縄からたくさんの犠牲者を出した日本軍の上の方々、わけても軍司令官等の碑に、なぜ今なお手を合わさないといけないのかと疑問に思うことがあります。あの方々がもっと早く、決断してどうにかくい止めれば、沖縄でこんなたくさんの犠牲者は出なかったはずです。
 私は、戦火の中、山原に向かったあの日以来、まだ故郷牧原を見たことがありません。今もなお軍用地として米軍に接収されている牧原の屋敷内の防空壕には、青春の思い出がいっぱい詰まったアルバムを残したままです。戦争の恐怖と食糧難の中で、生きることだけで精いっぱいだった青春時代。せめてあのアルバムだけでも戻ってきてくれればと思います。
(一九九八年採録)
<-前頁 次頁->