第六章 証言記録
女性の証言


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「軍国の妻」だった私

山内※※(大正七年生)・※※(大正七年生)(宇座・※※)

届かぬ手紙

 「花も戦う御国の大事 結ぶ心の綾たすき 長い袂に別れを告げて 大和撫子りんと咲く」この歌は一九三九年(昭和十四)ごろ、軍人として戦う夫や息子をもつ婦人が、月に一回行われた武運長久の祈願祭で歌ったものです。喜名の観音堂前広場などで行われたこの祈願祭に、当時二十代半ばだった私も参加し、この歌を歌いました。私の夫・※※は、一九三九年(昭和十四)二月十日に沖縄からはただ一人久留米の西部第五十四部隊に現役入隊し、その後各地から召集された兵士達と共にスマトラに派遣されました。夫はそこで衛生兵をしていたようです。
 今考えたら日本の教育というのは恐ろしいですね、こんな歌がありました。「散れよ若木の桜花 男と生まれて戦場へ でかした我が子やあっぱれと おまえは母が誉めてやる 涙はみせず励まして 我が子を送る朝の駅」とね。親も妻も、軍隊に入った本人さえもほんとあっぱれ、国のためという感じだったんです。夫が出征する時には、私たちの間には一歳の長女とお腹の中にはもう一人赤ちゃんがいましたが、この歌のように涙一つも流さないで、「よかったね、軍隊に入って」って送り出しました。人殺し集団の中に入っていくのに、「よかったね」はないですよね。
 でもその後からは、私は毎日泣いて暮らしていました。夫から届く手紙には、「今日も虎を潰して食べた。おまえも食べたかろうな」などと書いてあるのですが、私が書いた返事は夫のもとに全く届いておらず、「おい、おまえは元気という字も分からんか、おまえの手紙は郵便局が受け付けないのか」と夫が手紙に書いてよこすありさまでした。後で聞いたことですが、私が送った慰問袋が二年も経ってから夫のもとに届き、中に入っていたハーモニカが溶けた砂糖のせいで腐食してしまい、やむなく捨てたことがあったようです。夫は「戦地からのものは軍事郵便ということで優先されるが、そっちから送ったものはそうでもなかったらしい、また作戦上あちらこちらの島に部隊ごと移動することも多かったから届かなかったんだろう」と言いますが、悔しい思いをしました。
 沖縄戦の一年前頃からは、軍人の妻は奉仕作業で兵隊と一緒に、都屋から残波までのあちらこちらで穴掘りなどもしました。無給でしたが軍人の家には伍長から上の階級のところには「留守宅渡し」という援助があり、それで生活していました。

やんばるでの日々

 私と夫の祖母と子供達は、宮崎に疎開するための申し込みをしていましたが、船に乗る前日に対馬丸が撃沈されたため疎開を断念せざるを得ませんでした。一九四五年(昭和二十)三月十七日か十八日頃には、私と二人の子供と義弟(※※)は国頭の伊地に疎開しました。馬車で疎開するところがあったので一緒に連れていってもらうことにしたのです。子ども達と味噌の入った甕かめは乗せてもらって、弟と私は歩いて行きました。でも本当に戦争が来るとはまだ思っていませんから、一週間ぐらいしたら読谷に帰れるだろうと、あまり食料も持たず、ただ横浜で買った着物だけは持って行ったんです。最初は民家を割り当てられて、一緒に生活していましたが、米軍の上陸で山に避難しました。山では避難先の七十歳を過ぎたお爺さんが避難小屋を造ってくれました。
 実家の母は、フィリピンに行っていた姉から子ども(十二歳・男の子)を預かって一緒に生活していましたが、爆撃で家を失い、姉の子を連れて伊地の山の中にいる私たちを探し当てて来てくれました。母は、治りかけてはいたものの肋膜炎を患っていた私が、小さい子ども達を抱えて伊地の山でどうしているのかと心配していたんです。実際、私は山の中での生活で体調が思わしくなかったので、「このままでは死んでしまうのでは」と思っていました。母が来てくれなかったら本当にどうなっていたかわかりませんでした。
 私達のいた山にも米軍は降伏を促すビラをまきましたが、それには「おまえたちの待ちかねている連合艦隊は影も形もみえない。アメリカ軍がきっと命を助けるから着の身着のままで出てきなさい」と書かれていました。日本兵は住民と同じ山に隠れていたので、それを見ると「こんな嘘をついてバカヤロー。これを信用したら大変だよ、戦車で轢くんだよ」と私達に言いました。
 やんばるでは食べるものがなく木の葉や虫まで食べましたが、そのうちそれさえなく死の瀬戸際でした。そのためやむなく米軍の陣地の周辺にある芋畑まで夜間に芋を掘りに行きました。米軍の陣地は辺土名にあり、その大きな陣地の周りには鉄線が張り巡らされていました。どこの母親も芋を掘りに行くのは命がけでしたし、子供達にとっても親を亡くすかもしれないという状況で大変なことでした。何人かが一緒になって行きましたが、静かに陣地のそばに近づいていくと何かに触れたのかパラパラッと照明弾があがりました。米兵はそこにいるのが一般住民だと分かると、威嚇射撃をしても、ほとんどは畑のそばの海にめがけて撃っていました。しかし運悪く弾にあたって儀間出身の娘さんが亡くなったことがありましたので、命がけの食料確保に変わりは有りませんでした。私も体調が良くなってからは四、五回ほどそこに行ったことがあります。芋以外にもカンダバー(芋の葉)をむしって食べたり、弟の※※とハブを見つけて、それを殺したら、母が頭の部分を切り取って、胴体部分を焼いて食べさせてくれました。西海岸の海は敵艦隊でいっぱいだったので、一日かけて東海岸の安波というところの海に行き、海草を採ってきて食べ、飢えをしのいだこともありました。安波あたりでは、山の中に地元の人々が食料を持って上がっていたので、それと着物を交換してもらったこともありました。

投降

 ある日、川に親子三人で洗濯に行くと、米兵が川に沿って私達のところまでやってきました。私達親子と避難小屋から来た数名の人は、びっくりして思わず立ち上がりました。すると、米兵のうちの一人が私を連れて行こうとしました。そばにいたおばあさんが、幼い私の二人の子供に「あなた達のお母さん連れて行かれるよ、早く泣きなさい、泣きなさい」と言ったので、子供達が「お母さん、お母さん」と泣き出しました。するとそれを見ていた年配の米兵が「そんなことはするな」というふうに、私を連れ去ろうとした兵士を制してくれたので、私は連れ去られずにすみました。恐らく、子供に騒がれて、日本兵に見つかるのを恐れたのだと思いますが、もし私に子供がいなければどうなっていただろうかと思うと恐ろしくなります。
 そこで私たちは、米兵と一緒に山を下りることになりました。着いた所には既に五〇名ぐらいの人々が集まっていて、米兵は持ってきた缶詰を沖縄の人に食べさせようとしていました。子供達は食べましたが、大人は手をつけることが出来ません。毒が入っていると疑っているわけではないのですが、栄養失調ぎみの体なので急にはたべられなかったのです。そんな私たちに米兵は枝を折って箸を作り、自分が食べて見せて毒が入っていないことを教えようとしました。やんばるで出会った米兵は、私にとってその時は神様みたいにすばらしい心の人達でした。たしかに、女性が米兵に連れ去られて戻ってこなかったということもありましたが、私は二人の子持ちでしたのでそういった目に合わなくてすみました。
 また、長女は栄養失調になっていたところを米軍医が助けてくれました。住民の世話をみる米兵たちは、私たちを助けるんだという思いが強かったように思いますし、住民にも戦うことを強要した日本兵と比べてみると、本当にありがたい存在でした。
 母たちはまだ山の中でしたので、無事に下りてきてくれるかと心配していましたが、翌日自主的に投降して来ました。
 中国での日本軍は民間人をたくさん殺して、その親を亡くした子供たちに無理やり日本語を教えたと聞きました。そのうえ、「我が日の丸はお父さん 五色の旗はお母さん 支那の子供が君が代で 僕らを迎えてくれました」という歌を教えて、そんな子供たちが日の丸を持って日本兵を迎えてくれたと喜ぶ日本兵は惨めな人達だったと思います。中国の人達は本当にかわいそうだと思います。また、兵隊ではありませんが夫のいたスマトラには、宣撫工作員として送られた若い先生達がたくさんいて、日本語を現地の人々に教えていたそうです。

夫の七年後の帰還

 私達はやんばるの山中に三か月程隠れていましたが、投降してからは比地という部落に集められていました。また読谷に残っていた姑や舅は保護されて金武の中川に居ましたので、そこに移りました。でも、みんなが一緒に住むには狭かったので、しばらくして私たちは漢那に移りました。
 私達が読谷に帰ったのは一九四七年(昭和二十二)二月二十二日でしたが、夫が復員したのはその後のことです。
 夫の話によると、スマトラや東南アジア等から復員してきた沖縄出身者は、沖縄が「玉砕」し帰るところがないからと、いったん名古屋に集められました。そして、名古屋の山中で、沖縄出身者三〇名ぐらいで班を作り、炭焼きや薪作りをして生活していたようで、夫はそこで班長をしていました。するとある日、夫がスマトラで衛生兵をしていた頃に上司だった元軍医が、名古屋にいた夫を探し当て、会いに来てくれたそうです。元軍医は、「玉砕」した沖縄の家族の安否が分かるまでの間、大分の自分の家で暮らして欲しいと夫に申し出ました。夫は三〇名の同郷の班員を残して自分だけ大分に行くことは出来ないと元軍医の申し出を断りましたが、元軍医に「山内は私の任期中、私のために一生懸命働いてくれたから、私は君を沖縄の家族の元に送り届ける責任がある」と説得され、夫は大分に行くことにしたようです。「私たちを見捨てて帰るのか」と言う班員もいましたが、夫は「沖縄の人の疎開先は九州だから、私は皆より一足先に九州に行き、皆さんの家族を探しておきましょう」と班員に約束して名古屋を出たそうです。
 夫は元軍医の病院を手伝いながら、市役所に沖縄行きの船があれば知らせて下さいとお願いして、名古屋で一緒に働いた同郷のメンバーの家族探しもしていたそうです。そうした生活の中でもやはり沖縄のことが気がかりで、五通も手紙を出したそうです。そのうちの一通を金武の郵便局にいた私の従姉妹の神谷※※が見つけて私たちの元に届けてくれました。夫の無事を知った私たちの返事が夫の元に届いた頃、夫は市役所からの連絡を受けて沖縄行きの船に乗る支度をしているところだったそうです。夫に手紙を渡しながら「ご先祖様が守って下さったんだね」と、元軍医の家の方々も喜んで送り出してくれたそうです。
 帰沖後も夫は、元軍医や戦友達と手紙などで交流を続けておりましたが、元軍医が亡くなり、組織したスマトラ会も多くの会員の死亡で解散してしまいました。
 夫の弟・※※は一九四四年(昭和十九)四月に軍属として採用され、大刀洗航空廠那覇分廠(読谷山飛行場)に配属されました。その後、滑走路だけが完成した首里石嶺飛行場に移動になったそうです。※※らは、米軍が首里近くまで迫ってくる中、上官から東風平の陸軍病院への担送命令を受けて、担架を壕から運び出していたそうです。その時担架から負傷兵が転げ落ち、声をあげたために敵に発見され、※※たちは米軍の集中攻撃を浴びました。その際の迫撃砲弾の破片で、※※は右手母指をもがれ、皮一枚でかろうじてつながっているという大けがを負いました。※※は、痛みに耐えながら第二与座病院まで夜通し歩き、やっとたどり着いたものの、病院は患者で満杯のため、治療をして貰えませんでした。どこかに行けば治療を受けられるということでもなかったと言うのですが、さらに南へ向かう住民らの後に付いて共に具志頭村港川を通り、摩文仁へ向かったそうです。やがて傷口から蛆がわいたために、傷口を洗おうと摩文仁の海岸におりたところを米軍に捕らえられたようです。
 いま目を閉じて考えると、戦争の中をよく生きぬくことができたと不思議に思います。私に限らず、子供を抱えた女性は、みんな本当に苦労をしました。戦後数十年過ぎて余裕が出てきた頃に、あの時代を苦労した世代は亡くなってしまって、かわいそうなことだと思います。私はこうして七十歳を過ぎても元気でいられて、有難いことだと感謝しているのです。
* 山内※※・※※ご夫妻に同時に聞き取り調査を行いましたが、※※さんの視点から採録しました。
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